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「ありがとうの神様(小林正観)」という本はとてもオススメ!

2016年03月25日 01時00分00秒 | 
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 「ありがとうの神様」という本は、故人である小林正観氏のいくつかの著作を再編集して加筆・修正を加えたものです。

 幸せとは「今、足りないものを探して、手に入れること」ではなくて、「自分がすでに頂いているものに感謝し、自分が恵まれていることに気がつき、嬉しい、楽しい、幸せ・・・、と生きていること」で、そのために実践することは、「思いを持たず」、よき仲間からの「頼まれごと」をただやって、どんな問題が起こっても、すべてに「ありがとう」と感謝する(受け入れる)こと。

 また掃除・笑い・感謝を生活の中で実践することであり、「ありがとう」を口に出して言い、逆に「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句」を言わないこと。

 すると、神様が味方をしてくれて、すべての問題も出来事も、幸せに感じて「よき仲間に囲まれる」ことになり、「喜ばれる存在」になる。

 これこそが「人生の目的」であり「幸せの本質」とのことです。

確かに私も最近特にそうだなぁと思う内容ばかりです^_^)

また、そのほか以下についても書かれていて興味深かったですね。

・人に寛容になるためには自分を許すこと(緩ますこと)
・人間はたいしたものではないと思い知ることも大切
・施しをしないと財が入らない
・人を当てにしたり頼ることも大切
・喜ばれるお金の使い方をすること
・天才を育てた母親の共通項は「子どものことを丸ごと全部受け入れ、肯定していた」
・学校の先生は、先生自身がどうしてその学問を好きになったのかや、どんな面白さや深さがあるのかを生徒に話すことが大切
・教育とは「みんなと同じことをする子ども」に育てることではなく「自分で物事を考え、その結果、自分で自分の行動や生活、生き方を組み立てていけるようにすること
・子どもをきちんと育てるには声を荒げてはいけない
・ストレスを受け流す柔らかさを持っている人はガンになる可能性が低い
・花粉症を治すならば完全主義者をやめて「いい加減(よい加減)の人」になること^_^;)
・腹の中が煮えくり返っていても「ありがとう」と言い続けること。そうすればまわりの状況を楽しめる
・感謝・笑顔・賞賛が大切
・神社はお願いするところではなく感謝しに行くところ
・許せなくても感謝すること
・結婚相手(その他の人間関係・社会関係も)に条件をつけず、自分を選んでくれてありがとうと思えれば問題は起きない
・人間関係をよくするには「自分を変えること=自分が人格者になること」
・自己顕示欲・復讐心・嫉妬はNG
・知識を持ち、それを実践して知恵にし、知性すなわち謙虚さを持つこと
・ひたむきさ、誠実さ、奥深さが必要
・感謝されるには究極的にはその人のそばにいてあげること、すなわち仁
・悩み・苦しみは目の前の現象を否定し、受け入れないところから生じている→過去・現在・未来を受け入れること
・辛い体験と嬉しい体験はワンセット
・自分が幸せだと思った瞬間にそう思った人にだけ幸せが生じる
・過去を悔やむことをやめて未来に向けていかに自分を磨き向上させ成長させるかが大切
・目の前にいる人を大事にし、目の前にやるべきことをただひたすら大事にやることが大切
・執着を捨てることが大切 

「ありがとうの神様」という本は、人生向上のヒントとなることが多くとてもオススメです!

以下はこの本のポイントなどです。

・「般若心経」の最後の部分は「ボウジ ソワカ」といいます。この「ソワカ」とは「事がなる」「事が成就する」という意味だそうです。まったくの偶然ですが、「神様が人間の成す行為の中で、好きなものは何だろう?」と考えていたら、「そわか」の3文字に思い至りました。
「掃除」の「そ」
「笑い」の「わ」
「感謝」の「か」

・なにごとも「思いどおりにならない」ことがわかって、「思いどおりにならなくていい」「思いを持たなければいい」と気づいた瞬間から、人生はラクになります。もちろん、夢を持ってもいい。希望を持ってもいい。ですが、夢や希望というものは、「どうしても叶えたい」というより、「叶わなくてもそれはそれでいい」と思うほうが、楽しい人生を味わえます。「何かをしたい」という思いを持たない。私たちがすべきことは「いかに喜ばれる存在になるか」ということだけです。頼まれごとを淡々とこなし、こき使われながら死んでいけばいいのです。

・70代の男性から、「医者にかかっても、神経痛がよくならない」という相談をいただいたことがあります。私が「神経を緩ませてください」と言うと、はじめは「はぁ?」と不思議がられたのですが、その後、数十秒後には、その方は、こう言いました。「痛くなくなりました」。どうして、神経を緩ませると、痛みがなくなるのでしょうか。じつは、「許す」の語源は「緩ます」であり、神経を緩ませていない人は、人を「許せない」人であり、だから、痛いらしい。「あなたがやっていることは、他人に迷惑をかけていますよ」と、チクチクと空から痛みがやってくるのです。緩ますことは、すなわち、「許す」ことです。自分に対して厳しい人は、体が「あなたの厳しさには耐えられません」と悲鳴をあげて痛みが起こっているようです。また、自分に厳しいひとは、他人にも同じレベルで厳しい。「自分にはとても厳しくて、他人には甘い」という人は少ないと思います。人に寛容になるための方法は、自分を許すことです。したがって、「いいかげんな人」「自分で自分に甘い人」「適当な人」になればいい。「いいかげん」というのは、「よい加減」のこと。「いいかげんで適当な人になる」ということは、「よい加減で自分の能力に見合った自分の生き方をする」という意味です。自分で自分を許すことができたら、他人を許すことができる。他人を許すことができたら、緩ますことができる。緩ますことができたら、神経の痛みがなくなるらしい。日本人は、体験的に「許す」と「緩ます」が同じ語源であることを知っていたのでしょう。神経がピーンと張っているときは、心も体も痛くなりやすいことを昔から知っている民族だったのです。

・「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句」を口にしないように戒めようというのが私の唱える「五戒」です。なにがあっても、「五戒」を言わずに、口から出る言葉がすべて優しく、周囲の人を元気づけるものであれば、神様や宇宙を味方につけることができます。人間は、「自分の発した言葉」で自分の人生をつくっています。「私」の周囲の環境や、自分が立たされた状況は、すべて「自分の発した言葉」によって形成されていきます。ですから、朝から晩まで、「嬉しい、楽しい、幸せ、愛している、大好き、ありがとう、ツイてる」と言い続けると、この言葉をまた言いたくなる現象や出来事に囲まれます。私は「嬉しい、楽しい、幸せ、愛している、大好き、ありがとう、ツイてる」の7つの言葉を、七福神ならぬ「祝福神」と呼んでいます。

・「エモーショナル(感情的になる)」を克服するひとつの方法が、「人間はたいしたものではない」と思い知ることです。もともと人間は、たいしたものではありません。「たいしたものである」という実態が存在しているわけではない。自分が肩に力を入れて、勘違いして、虚像を作り出しているだけです。「その虚像は幻で、「人間はたいしたものではない」」と思い知った瞬間に、エモーショナルは、1秒でなくなります。

・「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句」を言わないでいると、人から、さまざまなことを頼まれるようになります。頼まれごとがあったら、あとはなにも考えずに笑顔でやっていけば、必ず生活もできるし、友人、知人があなたのことを支えてくれるはずです。

・たとえ病気でも、与えられた状態の中で、頼まれごとをやり続けていたら、神様は、「この人をもうちょっと長生きさせようかな」と思うのではないでしょうか。なぜなら、この人は、まわりを喜ばせることができるのですから・・・。私たちの人生は、長生きすることがテーマなのえはありません。「生きている間に、どれだけ喜ばれるか」だけです。この世に生を受けた目的とは、「いかに喜ばれる存在になるか」ということです。そして、喜ばれる存在になるために「頼まれごとを淡々とこなす」こと。それが人生のすべてなのです。

・「どうしたら売上が上がるのか」「どうしたらお客様が増えるのか」「どうしたら利益を確保できるのか」を考えるのではなく、「どうしたら喜ばれる存在になれるか」だけを考えるようにしたら、お金の入り方が変わってきた実感があります。どうも神様は、「喜ばれる存在になろう」と決めた人を、放ってはおかないみたいです。

・頼まれごとは、基本的には断らない方がいいと思います。頼まれごとを安易に断ってしまうと、それ以降、「頼まれなくなる」からです。「一否定3年」と覚えてください。頼まれたり持ち込まれたりしたものを「好きじゃないので」「嫌いなので」と好き嫌いを中心に選り好みしていると、ここから先、楽しい仕事の話は「3年間」はやってきません。ただし、なかには「断ってもいい頼まれごと」があります。断ってもよい条件は次のとおりです。
①「借金」は、断ってもいい
②「自己嫌悪」が大きくなるときは、断ってもいい
③「能力的にできない頼まれごと」は、断ってもいい
④単なる数合わせは断ってもいい
⑤先約がある場合は、断ってもいい

・2500年前に、お釈迦さまが「托鉢」(修行僧が鉢を持って家々を回り、食べ物やお金をもらう)を思いつきました。そして、こう言ったそうです。「明日から托鉢というものをやりたいと思う。托鉢では、「貧しい人々」の家を回りなさい」弟子たちは驚いて、「どうして金持ちではなく、貧しい人々なのか」、その説明を求めると、お釈迦様は、「貧しい人々は、自分が貧しいと思い続けて、他人に施しをしてこなかった人たちです。他人に施しをすることで救われるのだから、救いに行ってあげなさい。そのための托鉢です」と答えたといいます。「自分に財力がないから、施しができない」と思っている人は、「施しをしてこなかった」がゆえに、財が入ってこなかったのでしょう。先に施しありきです。それは金額の問題ではありません。気持ちの問題です。1割でもいい。たとえばゆとりのない人が、1万円の1割(1000円)をひとのために差し出す。この1000円は、神様からみると、「すばらしいもの」ではないでしょうか。「自分が置かれている状況よりも、もっと困っている人がいるかもしれない。だから、少しでも役立ててほしい」と思ってお金を使うと、それを見守っている神様は、どうやら「4倍以上」にして返してくれるみたいです。お金が貯まったから出すのでも、普通の人よりも持っているから出すのでもなく、「自分の出せる金額を出す」ことから、はじまるようです。

・「トイレの蓋を閉めた人たちには、臨時収入があった」ことがわかりました。ただし、「トイレの蓋を閉めればそれでよし」ではなく、すべての人が「トイレをピカピカに磨いてから蓋を閉めていた」のです。信じられないかもしれませんが、「入れた覚えたないのに、お金が出てきた」ということが実際にあるようです。臨時収入があった人に共通しているのは、「トイレ掃除をしてから、トイレの蓋を閉めていること」です。そして、「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句」を言わず、いつもニコニコして、「自分が喜ばれる存在でありたい」と思いながら生きていることです。世のため人のために「喜ばれる存在」として生きている人には、本当に困っているときに、お金が湧いてくることがあるらしいのです。

・一所懸命頑張って、自分で自己資金を貯めるという考え方は、やめてもいい。電話1本で「100万円出してくれる人」が100人いたら、1億円のお金ができます。私自身も、「株式会社SKP」をつくるとき、知り合い4人に「お金は出すけれど、口は出さない出資者になりませんか?」と電話をかけました。すると、15分感で1000万円を出してくれる人が決まり、3日後には会社を設立する資金が集まりました。すべて自分の力だけでやる、という考えは、「自惚れ、奢り、高ぶり、傲慢」です。なぜ、人を当てにしないのですか?人を頼りにすればいいではありませんか。他人を頼ることができないとしたら、それは、自分が他人を許さないからです。甘えさせないからです。「困ったときに、自分を支えてくれる人をいかに増やしていくか。それが人生を楽しいものにしてくれるのです。

・新しい仕事をはじめた人に、「頑張ってね」と励ますかわりに、その人から商品を買ってあげることです。セーターを編むのを仕事にしている人には、「友だちだから安くしてよ」と値引いたりしない。むしろ、「より高い金額を払ってあげる」のです。自分のわがままのためにお金を使うのではなくて、「喜ばれる」ようにお金を使う。そういうお金の使い方をしていると自分のところに「倍返し」で返ってくる・・・。そのお金を「喜ばれる」ように使うと今度は4倍になって返ってくる・・・、4倍になったお金をまた「喜ばれる」ように使うと今度は8倍になって返ってくるようです。反対に、お金をため込んだり、自分の贅沢のために使いはじめたりすると、お金の流れがストップしてしまいます。行列ができる「おいしいお店」と、客が少ない「おいしくないお店」があったとしたら、私は「おいしくないお店」に入るようにしています。「おいしいものを食べたいkらお金を使う」のは、エゴです。お金は、「喜ばれるように使う」ものなので、流行っていないお店に使ったほうが、喜ばれます。1日に2000人のお客様が並ぶラーメン屋さんでは、私の払うラーメン代は「売上げの2000分の1」でしかありません。ところが、1日に10人しか来ないラーメン屋さんでは、私の600円が、「10分の1」の売上げを占めるのです。喜ばれ方がまったく違います。このように、喜ばれるお金の使い方をしていると、いつの間にか、お金自身があちこちの財布で、ひそひそ話をするようになるらしい。「あの人のところに行くと、喜ばれるように僕たちを使ってくれるよ」「そうか。じゃあ、ほかの家に行ったら、その噂話をしてあげよう」お金が来たときは、「しょうがないなあ」と言いながら、使ってあげるといいです。それも、自分のエゴのためではなく、喜ばれるような使い方をしましょう。お金は、喜ばれたくて、喜ばれたくて、しょうがない状態で存在しているのです。

・「天才のつくり方」というものがあります。私が思うに、天才と呼ばれた人たちには、共通項があるようです。それは、母親の存在です。天才を育てた母親は、「子どものことを、丸ごと全部受け入れ、肯定していた」のです。たとえば、子どもが、アリの行列を何時間も見入っていても、もやしが生えるのを一晩中眺めていたとしても、「何をしているの?早く寝なさい」「そんな変わったことをしていないで、普通の子どもになりなさい」とは叱りません。子どもに対して文句を言ったり、小言を言ったりしないで、「この子は、こういう子なんだ」と肯定的な見方をする。その結果、子どもの才能は、すくすくと伸びていくのではないでしょうか。天才をつくるのは、難しくありません。「この子は、こういう子だ」と認め、守り育ててきた子どもが天才になります。子どもが、夢中になっているときに、「すごいね」と言って丸ごと受け入れ、ニコっと笑顔で接してあげればいいのです。

・私は先生方に、「教育を考えるときに、動機付け(やる気にさせる)を意識してください」とお願いをしました。「先生自身が、どうしてその学問を好きになったのか」「どんなおもしろさや深さがあるのか」を話すことによって、生徒の動機付けができるのだと思います。

・私は教育の専門家ではありませんが、教育とは、「みんなと同じことをする子ども」に育てることではなく、「自分で物事を考え、その結果、自分で自分の行動や生活、生き方を組み立てていけるようにすること」であるt思います。ということは、「普通に就職をするのは嫌だ。世界を周遊したい」という子どもを育てた母親は、すばらしい教育をしたということにほかなりません。しかもこの息子は「旅費はすべてアルバイトをして稼ぐから、好きにやらせてほしい」と申し出たそうです。家に帰った母親が、私から聞いたことを息子に話したところ、彼は「お母さんが考え方を変えるのは大変だろうから、今まで通り、何も変わらなくていいよ。自分は自分の生き方でやっていくから」と言ったそうです。この母親は、本当に素晴らしい子育てをしたと思います。

・子どもをきちんと育てるには、声を荒げてはいけません。言いたいことは、にこやかに、穏やかに言う。言うことを聞いてくれなくてもいいのです。子どもとの関係は、「言うことを聞かせること」ではなく、「にこやかに、穏やかに言うという方法論があること」を教えることが大切なのです。

・わが家の長女は知的障害を持っているので、同様の障害を持つグループと交流があり、最近、不思議なことがわかりました。知的障害を持つ人の中で、ガンになる人は少ない、ということです。その理由は、おそらく、「ストレスを感じることが少ない」からでしょう。ストレスはガン細胞を活性化させる要因のひとつですから、ストレスを受け流すやわらかさを持っている人は、ガンになる可能性が低くなると考えることができます。

・花粉症であり完全主義者の人と一緒に、流しそうめんを食べに行ったことがあります。この人は、とても面白い。目の前を流れていくそうめんを、一本たりとも逃さないのです。ずーっと追いかけていって、最後の一本まですくい取って食べています(笑)。だから、花粉症を治そうと思うのなら、完全主義者をやめて「いい加減な人」(よい加減な人)になることです。「ほどほどに、自分の能力に見合った自分の生き方をする」ようにすると、花粉症の症状が緩和されることがあるようです。

・心を込めなくてもいいから、「ありがとう」をたくさん言っている人には、「ありがとう」と言いたくなるようなことが、次から次へと起きてくることになります。目の前に嫌いな人がいて、心の中では「この人のことが嫌いだ、苦手だ、このやろう」と思っていても、「ありがとう」と言ってみる。言われた相手はきっと「感謝された」と思うはずです。腹の中が煮えくり返っていても「ありがとう」と言い続ける。そうすれば、まわりの状況を楽しめると思います。

・人間にエネルギーを与えてくれるものが「3つ」あります。
①「(か)感謝」・・・「ありがとう」と感謝されること
②「(え)笑顔」・・・笑顔を向けられること
③「(し)賞賛」・・・「今日はステキな服を着ていますね」などと、ほめられること
です。私はこの3つの頭文字を取って「おかえしの法則」と名付けました。どうも、この3つを与えられると、人は元気になるらしい。この3つの反対の概念として、「不平不満」「不機嫌」「あらさがし」があります。これらは、まわりの人間のエネルギーを奪い取るものです。不機嫌な顔をして、不平不満を言い、相手の悪いところをあらさがしして指摘すれば、相手は元気を失ってしまうでしょう。反対に、元気のない人には、「か(感謝)・え(笑顔)・し(賞賛)」を注いであげれば、元気になっていきます。

・神社は、「○○○をしてください」「○○○を叶えてください」とお願いをするところではありません。「今の自分がいかに恵まれていてありがたいか」を「感謝しに行く場所」ということになります。ただ自分が生かされていることに感謝し、手を合わせて「向こう側」に伝えることで、神様を味方につけることができるようです。

・嫌いな人、許せない人、好きになれない人がいて、その感情を自分で抑えることができないのなら、許す必要はありません。好きにならなくてもいい。でも、「感謝することはできるか」を考えてみてください。許せない人でも、3年間、感謝し続けたら、許せるようになるかもしれません。6年間感謝しつづけたら、好きになれるかもしれません。9年間、感謝し続けたら、尊敬できるかもしれません。

・1000組以上の仲人をして、「1組も離婚をしていない」という方がいます。この方は、「どうやって男女を選んで引き合わせているのか」というブライダル雑誌の取材に、次のように答えていたそうです。「女性に条件をつける男性も、男性に条件をつける女性も選びません。「相手が女性なら誰でもいい」「相手が男性なら誰でもいい」と考えている男女だけを引き合わせています」この方の発言には、「結婚の本質」が隠れていると私は思います。結婚相手が自分に合うか合わないか、ではなく、「自分の問題」だということです。条件をつけたり、わがままを言ったりしている人は、誰と結婚してもうまくいかないでしょう。男性運がないのも、女性運がないのも、運がないからではなく、自分が条件を振り回しているからです。それは、結婚のみならず、すべての人間関係、すべての社会関係でも同じです。「あーだ」「こーだ」と言わないで、「私を選んでくれてありがとう」という心で生きていくことができたら、親子関係も、夫婦関係も、仕事関係も、ものすごくラクになると思います。その人間関係の中で「私を選んでくれて、ありがとう」と言えるようになったら、問題が起きることは少なくなるはずです。

・損得勘定で考えてみても、もっともラクで、楽しく、簡単に人間関係の悩みを解決できる方法は、「自分を変えること」=「自分が人格者になること」です。自分のまわりにいる人を、「自分の思い通りに、気に入るように変えたい」と思うから、人間関係はうまくいかなくなります。すべての人間関係をうまくいかせるには、「その人は、その人である」という、そのことをまるごと受け入れることです。目の前の人が、自分の考え、生き方、価値観とは違うことを認める。説得しようとか、理解してもらおうとか、思わない方がいいようです。

・人間は、そもそも「たいしたものでない」のに、成長していくにつれて、心の中に「3つの感情」が芽生えてきます。
①自己顕示欲
②復讐心
③嫉妬
です。この3つは、人からもてはやされて、高い評価を受けるようになった頃に出てきます。これらはすべて「マイナスのエネルギー」であり、神様から嫌われる性質です。どれほど「すごい実力」を持った人でも、口から出るのが「自分がどれほどすごい人か」という自己顕示欲、「自分はこんなにすごいんだけど、別の人が評価されていうのは許せない」という嫉妬、「いつか見返してやるんだ」という復讐の言葉ばかりなら、誰も話を聞きたいと思いません。「自己顕示欲」「復讐心」「嫉妬」の3つの感情を持つ人は、損をしている。とても、もったいないと思います。「どれほどすごい人物か」というのは、自分から話さなくても、伝わるものです。「すごい実力」を持っているのだったら、ただ黙って行動で示せば、誰もが認めてくれるでしょう。

・「知識」を持ち、それえを実践して「知恵」にすれば、それなりに賞賛されたり、評価されたりするでしょう。ですが、「尊敬」されえてあり、「敬愛」されることにはなりません。「尊敬」や「敬愛」を集めるには、3つ目の知である、「知性」が必要です。「知性」とは、わかりやすく言うと、「謙虚さ」のこと。どれほど賞賛され、どれほど評価されても、決して威張らない、自惚れない、慢心しないことです。「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」ということわざがあります。「人間も、学問や徳が深まるにつれ謙虚になる」というたとえです。社会的な地位や評価、身分、経済的優位性を身につけると、人は自分を見失い、「謙虚さ」を保つのが難しくなります。認められれば認められるほど、頭を垂れる。これが私の考える「知性」=「謙虚さ」です。「知識」と「知恵」に加えて「知性」を持つ人は、多くの人に尊敬されることでしょう。

・「ひたむき」で「誠実」な仕事ぶりなら、その会社を辞めても評価は残ります。さらに「奥深さ」があれば、あなたは「魅力的な人」として、上司からも同僚からも「生涯ずっとつき合っていきたい存在」になれるでしょう。
・「ひたむきさ」
 「この仕事をやってほしい」と言われた際、拒否したり、わがままを言ったり、異議を唱えたりせず、自分に与えられた仕事を実直にこなす。自分の意見を述べるときは、すべての要求に100%応えてから。
・「誠実さ」
 約束を守る。対外的に表明したこと、口にしたことについて、できるかぎり努力をする。やる気のないことについては、軽率に口にしない。
・「奥深さ」
 仕事とは関係のない「自分の世界」(趣味など)を持つ。鉄道に詳しい、絵が描ける、観葉植物に詳しい、俳句をつくる、アニメのことなら何でも話せる、など、ほかの人がとても及ばないような独自の世界を持っている人は、「おもしろい」し、「魅力的」に映る。

・「自分の存在が感謝される」ためには、何をすればよいのでしょうか。坂道を歩いている人の荷物を持ってあげるとか、高齢者に席を譲るのも、いいでしょう。しかし、究極的には、「その人のそばにいてあげること」ではないでしょうか。「仁」という文字は、「人が二人」と書きます。「人が二人いる」という意味です。私は、「仁」こそ、究極の愛の形であると同時に、いちばん簡単な愛の形であると考えています。「仁」とは、「ただ、その人のそばにいてあげる」こと。時間的に、距離的に、地理的にそばにいるのはもちろんのこと、たとえ距離が離れていても、「精神的」にいつもその人のそばにいてあげることです。究極の愛とは、おそらく「仁」です。特別なことをしなくてもいい。

・「悩み・苦しみは、目の前の現象を否定し、受け入れないところから生じている」私たちが、目の前に起きている現象を受け入れれば、悩みも、苦しみも、存在しません。私自身が慶子に対して、「この子はこれでいい。この子はこれで十分に幸せではないか」と受け入れた(感謝した)瞬間、私の悩みはなくなりました。どんな悩みも消し去る「3秒」の方法があります。その方法とは、
 1秒目・・・過去のすべてを受け入れること
 2秒目・・・現在のすべてを受け入れること
 3秒目・・・未来のすべてを受け入れること
これで終わりです。自分に起きたことやこれから起きることは、すべて自分が成長するために必要だと思うこと。目の前の状況を受け入れれば(感謝できれば)、悩みも苦しみもなくなって、ラクに生きることができるでしょう。

・10年に一度しか起きないような「つらい体験」をした人は、その半年以内に「10年に一度しか起きないような、嬉しい体験」をするようです。「前半分」と「後ろ半分」で必ず「幸せのワンセット」になっています。ですから、「つらいこと」があったときは、「嬉しいこと」の先払いをしていると考えてみたらどうでしょうか。ただし、この先払いシステムには、ひとつだけ条件があります。「喜びの本体」を受け取る前に、「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句を言わない」ということです。恨み言や不平不満を言うと、せっかく代金を先払いしたのに「商品(本体)が届かない」ことにもなりかねません。誰が見ても「大変だ」と思うことが起きても、ありのまま受け入れる(感謝する)。文句を言わない。その実践ができている人だけに、「先払い現象」が起きるようです。

・ひとつの現象や出来事に。プラスもマイナスも、幸も不幸もありません。すべての人が、「幸せだ」と言える出来事や現象があるのではなく、自分が「幸せだ」と思った瞬間に、そう思った人にだけ「幸せ」が生じるのです。「幸せ」とは、存在するものではなく「感じるもの」です。結局のところ、私たちが、目の前の現象をどう思うか、感じるかであって、普通に歩けることが幸せだと思った人には、幸せが1個。目が見えることを幸せだと思った人には、幸せが2個手に入る。耳が聞こえて幸せ、口で物が食べられて幸せ、鼻で呼吸ができて幸せ・・・と考えていけば、「幸せ」はいくらでも手に入ります。すべての人に共通する「幸せ」はありません。ひとえに「私」が「幸せ」を感じるかどうかで、「幸せ」が存在するかが決まるのです。

・過去の自分の判断に後悔をする人は、未来のことをあまり考えていにょうな気がします。自分を磨いたり向上させたりすること以上に、過去を悔やみ後悔することにとらわれているようです。自分を高めようとしない人に限って、過去を振り返ってばかりいます。過去に自分が下した判断は、正しかった。その時点では「最高の自分」だったのですから、「完全に100%正しかった」のです。過去を悔やむことをやめて、未来に向けて「いかに自分を磨くか、向上させるか、成長させるか」を考えてみてはいかがでしょうか。過去を振り返るより、「今の自分がどれだけ未熟か」を認識しながら、謙虚に生きていくことにしましょう。

・今、目の前にいる人を大事にする、目の前にやるべきことがあったら、ただ、ひたすら大事にやっていく・・・。私たちにできることは、ただ、それだけのようです。

・「色即是空」とは、「形あるもの、目に見えるもの、命あるものは必ず滅する。常なるものはなく、無常である。常に同じものはない。形あるものはない」とする解釈が主流です。ですが私は、「お釈迦さまは、もう少し違うことを伝えたかったのではないか?」と思っています。「色」とは、「幸、不幸」「軽い、重い」「大きい、小さい」といった評価や論評を加えた状態のことをいうのではないか。そして、「空」とは、評価も、論評も、性格付けもされていない中立の状態をいうのではないか・・・。私たちが「楽しい」とか「つまらない」と評価している現象は、実体として独自に存在するわけではありません。淡々とした「何の色もついていない空の現象」が続いているだけです。お釈迦さまは、「現象はもともとニュートラルであり、ゼロであり、色がついていない。それなのに、私たちの心が、「遠い、近い」「重い、軽い」「つらい、楽しい」「悲しい、嬉しい」といった色をつけているにすぎない」ということを言いたかったのではないでしょうか。

・「そこから先は、神の領域」私は、この言葉をいつも思い出すように生きています。結局、私たちにできることは、「うたし」な人(嬉しい、楽しい、幸せ)、キレイな人、謙虚な人、素直な人、誠実な人という5つの人格を目指すことであって、「そこから先は神の領域」なのです。「手の届く範囲の身の回りをキレイにする」「謙虚に物事を考える」「誠実に生きる」ということは、自分ですることができる。しかし、「そこから、何が生まれるのか」「そこから先、自分の人生はどうなるのか」ということについては、「そこから先は神の領域」で、「人間がコントロールできる領域」を超えたところ・・・。なのかもしれません。

・お釈迦さまが悟った道のりはいくつもありますが、その中のひとつに
「四諦」という考えがあります。「4つの諦め」「4つの悟り」のことです。「諦」という文字は、ある種の心の落ち着きや悟りを示しています。
 第1の悟り・・・「苦諦」
  「人生は苦悩に満ちている」という悟りです。
 第2の悟り・・・「集諦」
  「執着が、悩み・苦しみの元である」という悟りです。
 第3の悟り・・・「滅諦」
  「執着によって、悩み・苦しみが存在しているのだから、執着をなくせば、悩み・苦しみはなくなる」という悟りです。
 第4の悟り・・・「道諦」
  「悩みや苦しみは、こうでなければならない、ああでなければならない、こうすべきだ、という「とらわれ」や「こだわり」が自分自身を縛り付けている状態である。したがって、滅する(執着を捨てる)ということを、日常生活のあらゆる場面で実践していけばよい」という悟りです。
この4つの悟りを実践することで、お釈迦さまは、悩みや苦しみから離れ、「解脱」(悩みや迷いから溶き放たれて、自由の境地に到達すること)できたそうです。

良かった本まとめ(2015年下半期)

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