なすがままに

あくせく生きるのはもう沢山、何があってもゆっくり時の流れに身をまかせ、なすがままに生きよう。

小学校入学・昭和30年

2005-04-14 20:55:04 | 昭和
僕が小学校に入学したのは昭和30年である。戸畑小学校が我が人生最初の母校となる。戸畑小学校は明治7年(1874年)開校だから僕が入学した頃はすでに開校80年を過ぎていたことになる。戸畑で初めての小学校だったのだ。学校は木造二階建てで休み時間には友達と木の階段をのぼったり階段の手すりを使って滑り台にして遊んだ記憶がある。僕のクラスは一年八組だった、担任は女性教師のE先生だ。当時としては珍しくやや肥満体の先生だった。E先生の事は後日記述する予定なので今日は書かない、僕たちのクラスは男女合わせて約50名だった、学校を建設した時、多分大正時代だろう、一クラスに50名もの児童を収容する事など予定にない事だったのだろう、50名分の机が教室にならぶと一番後の列は壁際ぎりぎりまで椅子が来た。戦争が生んだ団塊の僕たちは小学校入学直後から知らないうちに競争のスタートラインに並ばされていたのだ。ここに、昭和33年の戸畑地区の小学校の児童数などを記録した資料がある。それによると、戸畑小学校のクラス数・49クラス・(平成12年・14クラス)児童数2641名(平成12年388名)。この数字は戸畑に9校あった小学校でも異常に多い児童数だったのである。つまり戸畑小学校の校区は工場や商店や住宅などが密集する人口過密地区だった事を意味する。戸畑の町は国鉄戸畑駅の北口が駅の玄関だった。戸畑駅の北口から渡し場にかけての大通りには今でも当時を彷彿とさせる建物が数多く残っている。若松から渡船が着くと大勢の人達が黒い塊となって一方は西鉄の電車乗り場へ残りは戸畑駅の北口に向かって黙々と歩きだすその光景が今では僕の脳裏で活動写真のように再現される。若戸渡船は日本初のカーフェリーとして若戸間の物資の輸送も引き受けていた、僕は父の仕事の関係で車に興味があったのでフェリーに乗り降りするトラックや乗用車などを飽きることなく眺めていた。僕の住んでいた洞海湾に面した渡し場地区は北九州工業地帯の重要地点だったのだ、筑豊で採炭された石炭が若戸地区に集まり、そのエネルギーは鉄を作り、全国の工業地帯に運ばれ日本の近代化に貢献していたのだ。僕は日本がまさに高度経済成長期に向かって大きな飛躍の前触を思わせるような街で小学生になった。今から49年前のことである。