なすがままに

あくせく生きるのはもう沢山、何があってもゆっくり時の流れに身をまかせ、なすがままに生きよう。

昭和30年代・夏休み2

2005-04-17 20:08:12 | 昭和
小学生の夏休みのイベントは何と言っても海水浴に尽きる。今と違って娯楽と呼ばれる物がない時代、ましてや昭和30年代前半にプールなどの施設はなかった、夏の娯楽は海水浴だけだった、僕の父は鹿児島県串木野の出身だ親や兄弟はみんな漁業に従事しており泳ぎはみんな達者だった。そんな父の血を引いた僕は泳ぎは得意だった。後年40歳代後半にプールに通い始めコーチについて正式な泳ぎを教わってコメ(個人メドレー)で泳げるまでに半年はかからなかった。水が好きなのだ、だから、上達も早かったと思っている。そんな、泳ぎ好きの子供にとって海で泳ぐのは水を得た魚のようだった。若松の小石海水浴場、その奥にある脇田にもよく通っていた。そんな、海水浴通いで、忘れられない海水浴の想い出がある。戸畑港から遥か北に藍の島と言う小さな島がある。港から船で30分位だったと記憶している。その日は近所のおじさんが子供達を引き連れて藍の島海水浴場に連れて行ってくれる事になった。初めて行く海水浴場だ、船も若戸渡船と違って、大きく本物の船の形をしている、僕達子供はわくわくしながら乗船の時間を待った。その船から少し離れた所にこれまた大きな台船が停泊していた。その船は「糞尿船」だった。岸壁に止めた糞尿車から、作業のおじさん達が天秤棒に糞尿の入った桶を肩からぶら下げて岸壁と船に渡した細い板の上を器用に渡りせっせと糞尿を台船の四角の穴の中に投入していた。昭和30年前半までは各家庭の糞尿の収集は全て手作業だった。僕達はその作業のおじさん達を「肥え汲みのおじさん」と呼んでいた。糞尿で満タンになった台船は僕達の船より先に港を出た。次は僕達の船の出港だ、岸壁をゆっくり離れた船は大きなエンジンの音をさせながら一路藍の島に進路をとった。洞海湾を出て暫くすると海の色がきれいなコバルトブルーに変わった、洞海湾のくすんだ海の色しか知らない僕達は陸地の向こうの水はこんなにきれいだったのかと感嘆の声を上げながら船の手すりに持たれて飽きることなく海を見ていた。その時、僕達の船は先ほどの糞尿船に追いつこうとしていた。その糞尿船の船底から土砂のようなものが沸いていた。あの糞尿をここで流していたのだ。糞尿を海上投棄するための船だとはみんな知っていた。しかしである、こんな近いところで、しかも、海水浴場の近くじゃないか、僕はがっかりしていた。もっと遠くの海に行って流すものと思っていた。その糞尿はコバルトブルーの潮の流れに乗ってさらに沖合いに広がって行った。この船が藍の島についた頃にはその糞尿も島に流れ着くにちがいない。そして、引率のおじさんの言葉に僕は凍り付いた、「お前たち見たか?みんなのしたウンコやしっこが海に流されて、それが魚のえさになって魚は大きく、おいしくなってみんなの口にはいるんだぞ」おじさんは知識のある先生みたいに胸をはって説明をした。一方の子供達はみんなその話を聞いて下を向いたままだ。僕達は戦意を削がれた兵隊さんの気分だった。その時、一番後ろにいた女の子が大きな声でおじさんに言った「おじさん、お魚さんはウンコとしっこのどっちが好いとうとやろか?」その声の主はT美だった、僕はすぐT美のところへ行き「バカタレ!変な事聞くな」と僕はT美をこずいた。それまで無類の魚好きの僕が魚嫌いになったのはあの日の出来事からだったと僕は思っている。