なすがままに

あくせく生きるのはもう沢山、何があってもゆっくり時の流れに身をまかせ、なすがままに生きよう。

昭和・田植え体験

2005-04-19 16:44:24 | 昭和
上の写真は昭和30年頃の戸畑区の鞘ヶ谷付近の空撮写真である。画面上真中が鞘ヶ谷競技場、道路を挟んで両側には八幡製鉄所の社宅群が広がっている。鞘ヶ谷競技場の上は現在戸畑バイパスが通っているが、その頃はまだ小高い空地のままである。今夜はこの鞘ヶ谷を中心に話を起こして行こう。
 「明日は農家に田植えの手伝いに行きます、各自長靴とタオルと水筒を持ってきなさい」。翌日僕達は先生に引率されて学校から南方面にある鞘ヶ谷をめざして歩き始めた。僕達は自分達の校区から外に出ることは無かった、僕達のその頃の行動範囲は通学路の範囲内である。鞘ヶ谷の名前は知っていたが行くのはその日が始めてだった。戸畑市役所を過ぎて天籟寺に差し掛かるころから道は砂利道になり所々水溜りも出来ていた。僕達の通学路はその頃からわき道をのぞいて舗装されていた、やはり、田舎だと思った。天籟寺を過ぎてまもなく左手に小高い丘があり、そこは数段の段々畑になっていた。僕にとって畑や田んぼは初めての農村風景だった。重く立ち込めた雲、立ち込めるモヤに中に霞む田んぼはモノクロ写真のようだった。すべりそうになりながら畦道を登っていくと田んぼの中にいた農家のおじさんやおばさんは僕達「都会の子」を歓迎してくれた。僕達は早速、田植えの手ほどきを受けることになった、中腰のまま、手際よく苗を泥水の中に植え込んでいく。簡単な作業に思えたが、意外と難しい、中腰のまま、後ずさりできないのだ、泥の中に深く埋まった長靴を引き抜くだけでも大変である。中には足を移動する時にバランスを崩して尻餅をついたり、ひっくり返ったり田んぼの中は泥と子供達のすさまじい戦いが繰り広げられていた。普段は静かなこの棚田もその時は子供たちの嬌声と笑い声で梅雨空が晴れそうな感じだった。翌日学校に行くと先生が「昨日田植えをして皆さんはお百姓さんが苦労してお米を作ってくださっているのがよく分かったと思います。これからは、ご飯を残したり粗末にしないで最後の一粒まで食べるのですよ」。僕はその時先生に反論したかった。「先生!僕達はご飯を残すほど沢山もらっていません、本当はもっと食べたいのです」。この頃食料事情はやや改善されたと言っても僕達の食卓は粗末な一汁一菜の食事だった、育ち盛りの子供達はもっとご飯が食べたかったのである。その後昭和40年には戸畑バイパスが出来て鞘ヶ谷から棚田は消滅した。それと同時に八幡製鉄所の社宅街として人が増え独身寮やマーケットができて現在の街の原型が出来上がったのである。先日10年ぶりに鞘ヶ谷を訪れる機会があった。木造の社宅は撤去され、おしゃれなマンションや食品スーパー・スピナやホームセンター・アルファが立ち並ぶ戸畑の郊外で一番大きな商業施設に変貌していた。ホームセンターの二階の駐車場から眺めても当時の面影は全く残っていない。この下を八幡東区に向かって走る市道がわずかに当時の面影を留めていた。上の戸畑バイパスを走る車の騒音が一瞬止まって静かになった時、あの日この付近の棚田で歓声を上げた僕達の声が聞こえたような気がした。