なすがままに

あくせく生きるのはもう沢山、何があってもゆっくり時の流れに身をまかせ、なすがままに生きよう。

忘れられない先生

2005-04-28 17:15:32 | 昭和
僕が小学校5年生の時新しい先生に代わった。今度は男の先生だった。20歳代後半の体育会系のたくましい先生だった。僕にとって待望の男の先生の登場だった。名前をI先生と言った。I先生は体操の時間でも僕達にお手本などを自ら示して教えてくれた、鉄棒、跳び箱そして短距離走なども僕達と一緒にする先生だった。僕達と先生が短距離の競争をした時の先生の速さは凄かった、僕達の倍の速さでゴールしてしまった。そんな先生を僕達は尊厳の目で見るようになった。そして、学校の勉強も段々面白くなって来たのだ。宿題も怠りなくするようになった。そんな僕を見て母は言った「I先生が来てからちゅうものお前ビンタがだいぶようなったな」(同時通訳:I先生が来てからお前頭がだいぶよくなったな)。そうなのである、僕はやっと「勉強の喜び」に目覚めたのである。図書館(八幡神社の横に今でも当時のままある)に通い始めたのもその頃だ。そんなI先生が病気のため一ヶ月ほど学校を休んだ事がある。代用教員としてまた女教師がやってきた。やっぱり面白くない、僕達はI先生がいつ学校に戻ってくるのかいつも話題にしていた、そして、「今度の日曜日に先生の家にお見舞いに行こうや!」と話が決まった。次の日曜日僕達6名が戸畑駅に集合して鹿児島本線の遠賀川駅を目指した。みんな始めての市外への旅である。先生の家は遠賀川駅を降りてすぐに見つかった。大きな門構えの、りっぱな家だった。先生の家は農家である。中から先生のお母さんが僕達を出迎えてくれた。大きな部屋でオルガンを弾いていた先生は僕達の声を聞きつけて飛んで来た。先生は元気そうだった。色んな話をしたり、先生のオルガンに合わせて唄をうたったり久しぶりに楽しい時間を過した。先生のお母さんは息子の教え子達のために美味しい昼ご飯まで作ってくれた。帰りは先生とお母さんは遠賀川駅のホームまで見送に来てくれた、列車が来て僕達の列車が見えなくなるまで手を振ってくれていた。それから間もなく先生は学校に元気に戻ってきた。僕は先生に叱られた事がない、勉強しろと言われた事もない。あの時を境に僕が自主的に勉強するようになったのは、「先生に認めて欲しい、誉められたい」という気持ちからではなかったかと思う。勉強好きになった僕はその後に来襲する、壮絶な受験競争の中で楽に希望の学校に入る事ができた。僕は自分の子供にもI先生式教育方針で臨んだ、結果二人の子供は勉強嫌いになる事なくそこそこの学校に入る事が出来た。僕の小学生活6年間で忘れる事の出来ない先生でありその後I先生のような先生に巡り会う事はなかった。「良き師は人生の師でもある」