なすがままに

あくせく生きるのはもう沢山、何があってもゆっくり時の流れに身をまかせ、なすがままに生きよう。

思い出の地は今

2005-04-13 19:48:22 | 昭和
僕は6歳から11歳までを北九州市戸畑区(当時は戸畑市)ですごした。場所は現在若戸大橋の第2橋脚辺りにあった洋館風の大きな家だった。レンガ塀で囲まれたかなり大きな家は大正時代に石炭景気で一儲けした成金の邸宅だと聞いた。その邸宅の広い各部屋を壁で仕切り、7所帯がすんでいた。僕の家族は一番南に面した日当たりのいい部屋だった。レンガ塀の外は西鉄の路面電車が終日行き交っていた。僕の家からは電車の終点、戸畑渡場が見えていた。電車を降りた人達は向かいにある若戸渡船で次の船に乗るため長い行列を作るのである。当時の若松は石炭景気が翳りを見せ始めたとは言っても北九州では小倉につぐ繁華街だったのだ、戸畑も渡し場やJR戸畑(当時は国鉄)北口は現在の南口よりもはるかに賑わっていた。僕にとってその当時の戸畑の夜は赤い灯やネオンがまぶしい賑やかな街だった事を憶えている。僕の家から歩いて10分程の明治町には映画館も2軒ほどありその道路沿いには銀行や飲食店がひしめいていた。実は、この「昭和思い出エッセイ」を書くに当って戸畑をこの目で確かめたくて。本日戸畑行きを決行した。車で直接行っても面白くないので車をJR若松駅裏の有料駐車場にとめて、車に積んである我が第2の愛車を降ろして、若松渡し場から渡船に乗った、自転車と人の運賃は100円である。3分後に船は戸畑に着く。それから、自転車のペダルをゆっくり踏みながら、50年前の昭和の匂いを求めて隅から隅まで走った。戸畑の南口はここ数年で大きな商業施設が出来て風景が様かわりしている、しかし、戸畑駅北口は当時と変わらない建物や人家が沢山残っている、まさに、そこだけ時間がストップしているような感じだ。自転車でゆっくり子ども時代を過ごした建物の前を通る時50年前の自分がそこにいるような錯覚におちた。もう、戸畑渡し場には電車はない、そして、子どもの頃の遊び場だった明治製菓の工場もなくなり、広い空地に変わっていた、しかし、その跡地に立ったときキャラメルの甘い香りがしたのは気のせいだったのか。昼ご飯は駅北口の細めん戸畑チャンポンを食べて心も胃袋も満足して帰りの船に乗った。若戸大橋を下から眺めながら、橋の色が今日はことさら鮮やかな朱色に見えた。思い出の地を巡る時は自転車かウオーキングが一番です。