なすがままに

あくせく生きるのはもう沢山、何があってもゆっくり時の流れに身をまかせ、なすがままに生きよう。

肥後の守と初恋

2005-04-30 12:32:19 | 昭和
僕の初恋は小学5年生の時だった。クラス替えで僕の隣の席になったM代がその人だ。どこに引かれたのか僕はその理由を今でもはっきり言える。それは「清楚感」と「聡明さ」そして顔型、体型の良さだろう。M代の家業は当時全盛だった質屋を営んでいた。長い髪を肩までのばしていつもこぎれいな格好をしていた。僕達男子は殆どがM代ちゃんにあこがれていた、同じクラスの女子とは別格だった。まるで、映画スターのようなこうごうしい雰囲気だった。しかし、M代は気さくな性格であった。当時勉強に目覚めた僕はM代と勉強の判らない所を教えあっていた、席が隣同士の特権だ。そんな、仲のよさそうな二人がある恋敵の恨みを買う事になる、挑戦状を突きつけられたのである。「放課後に戸畑中学の広場に来い、一対一の男同士の戦いだ」。なぜ恋敵の恨みを買う事になったのか、それは、僕とM代は通学方向が同じだったのである。朝は殆ど途中で顔を合わせ、そのまま教室まで一緒だしかも席は隣同士、仲よくなるのは当然の結果である。言わば僕はクラス一の幸せ者だった。その恋敵を刺激した出来事がある、それは、M代が風邪を引いて欠席したので給食のパンを帰り道である僕が届けた時の事だ。M代のお母さんは是非上がってお茶でも飲んでいけと言う。僕はM代の家に上がり長い時間M代とお母さんの3人で時間が経つのも忘れて話し込んでしまった。そして、M代の家を辞して玄関を開けた時目の前に恋敵がいたのだ。ビックリした僕は「H君どうしたん?」と聞いた。H君は僕の顔をにらみつけると「おぼえとけよ!きさん」と言って走り去ったのである。挑戦状を受け取ったのはその翌日である。果し合いの事は誰にも言わず僕は一人で約束の場に向かった。H君はすでに来ていた。そして、無言でいきなり僕めがけて突進してきた、僕は闘牛士のように彼の体をかわした、H君は草むらに前屈みにつんのめった。起き上がったH君は「このやろう]と声を荒げポケットから出した手には「肥後の守」が握られていた。その鋭利な刃物は僕を恐怖に落とし入れた、僕は担任のI先生の言葉を思い出していたそれは「山で熊に会ったら、背中を向けて逃げたらダメぞ、相手の目を睨み付けて棒切れを見つけて戦え」と言われた事だ。僕はH君から視線をそらさず、近くに棒切れがないか探していた。その時、上の方から怒鳴り声が聞こえた。I先生だった、横にはM代もいた。先生は草の斜面を駆け下りてH君から「肥後の守」を取り上げると彼の顔に平手を打った。斜面の上にいたM代は肩を震わせ泣いていた。僕達の果し合いの事は誰も知らないはずだった。その果し合いを予見したのは昨日のM代の母親だった。「おぼえとけ!きさん」と捨て台詞を残して立ち去ったH君に殺気を感じた母親はI先生に連絡したのだった。M代の母親のお蔭で僕は何事もなく家に帰る事ができた。H君のやった行為は今で言う「ストーカー」であり刃物を使った刃傷未遂事件である。世が今の世だったら、本人も学校関係者も何らかの処分が下されたはずだ。しかし、昭和30年代周りはまだ寛容な時代だった。それから数日後、僕達クラスの席替えがあった、それまでの男女交互の机の配列が、紅白歌合戦のように男女別々に机が配置された。そして、M代は以前のように男子に気軽に声をかける事をしなくなった、いつも女子達と行動を共にするようになった。多分、M代の母親が特定の男子と仲良くするなと「男子禁制令」を出したのだろうと思う。そして、僕の初恋も「肥後の守」とともに消えてしまった。その後、僕は隣の戸畑中学に行く事はせずにみんなと違う沢見中学に進路を変えた、その時は家も渡し場から山手の西大谷に引っ越していたのでM代と再び会うことはなかった。今でも、思う時がある、「あの時「肥後の守」が二人を分断しなければ僕達は将来恋人同士になっていたのかもしれないと」。いやはや、何がきっかけで人生が変わるのか判らない、人生は面白いものだ。*上の写真は小6卒業写真からM代をクローズアップしました。このプログを見てあの時の私だと思われる方はコメントお寄せください。

メモリー捜索中

2005-04-29 22:29:23 | 昭和
今夜の昭和ネタが思い浮かびません。只今、当時の記憶を探しに行っています。前頭葉から海馬にかけて捜索中です。記憶を持ち帰ったらこのパソコンのメモリーに入力します。今夜はここまでです。せっかくのご来場申し訳ございません。

忘れられない先生

2005-04-28 17:15:32 | 昭和
僕が小学校5年生の時新しい先生に代わった。今度は男の先生だった。20歳代後半の体育会系のたくましい先生だった。僕にとって待望の男の先生の登場だった。名前をI先生と言った。I先生は体操の時間でも僕達にお手本などを自ら示して教えてくれた、鉄棒、跳び箱そして短距離走なども僕達と一緒にする先生だった。僕達と先生が短距離の競争をした時の先生の速さは凄かった、僕達の倍の速さでゴールしてしまった。そんな先生を僕達は尊厳の目で見るようになった。そして、学校の勉強も段々面白くなって来たのだ。宿題も怠りなくするようになった。そんな僕を見て母は言った「I先生が来てからちゅうものお前ビンタがだいぶようなったな」(同時通訳:I先生が来てからお前頭がだいぶよくなったな)。そうなのである、僕はやっと「勉強の喜び」に目覚めたのである。図書館(八幡神社の横に今でも当時のままある)に通い始めたのもその頃だ。そんなI先生が病気のため一ヶ月ほど学校を休んだ事がある。代用教員としてまた女教師がやってきた。やっぱり面白くない、僕達はI先生がいつ学校に戻ってくるのかいつも話題にしていた、そして、「今度の日曜日に先生の家にお見舞いに行こうや!」と話が決まった。次の日曜日僕達6名が戸畑駅に集合して鹿児島本線の遠賀川駅を目指した。みんな始めての市外への旅である。先生の家は遠賀川駅を降りてすぐに見つかった。大きな門構えの、りっぱな家だった。先生の家は農家である。中から先生のお母さんが僕達を出迎えてくれた。大きな部屋でオルガンを弾いていた先生は僕達の声を聞きつけて飛んで来た。先生は元気そうだった。色んな話をしたり、先生のオルガンに合わせて唄をうたったり久しぶりに楽しい時間を過した。先生のお母さんは息子の教え子達のために美味しい昼ご飯まで作ってくれた。帰りは先生とお母さんは遠賀川駅のホームまで見送に来てくれた、列車が来て僕達の列車が見えなくなるまで手を振ってくれていた。それから間もなく先生は学校に元気に戻ってきた。僕は先生に叱られた事がない、勉強しろと言われた事もない。あの時を境に僕が自主的に勉強するようになったのは、「先生に認めて欲しい、誉められたい」という気持ちからではなかったかと思う。勉強好きになった僕はその後に来襲する、壮絶な受験競争の中で楽に希望の学校に入る事ができた。僕は自分の子供にもI先生式教育方針で臨んだ、結果二人の子供は勉強嫌いになる事なくそこそこの学校に入る事が出来た。僕の小学生活6年間で忘れる事の出来ない先生でありその後I先生のような先生に巡り会う事はなかった。「良き師は人生の師でもある」

昭和30年代・卵事情

2005-04-27 16:41:47 | 昭和
「卵は物価の優等生」とよく言われる。では、どの位優等生なのか検証して見た。昭和30年の卵の一個あたりの価格は14円(国家公務員の初任給8700円)では、平成16年の卵は一個あたり17円(国家公務員の初任給195000円)。なるほど、卵は2割位の値上がり、初任給は何と22倍の値上がりだ。もし、現在卵が初任給並に上がっているならば、卵一個308円、10個入り一パックが3080円だ。卵の価格がこの数十年価格が安定しているのは養鶏場のオートメーション化の賜物と言われている。さて、この卵も今から50年前には僕達の食卓にめったに並ぶ事はなかった。卵が食べられるのは、病気をした時と父親の給料日位だった。卵が滋養強壮の食べ物として高価な薬なみの時代だったのだ。ある日、母が知り合いの人が入院したのでお見舞いについて行った事がある。明治町にあった現在の共立病院(当時は下川辺医院)の近くに卵屋があった。りんご箱にモミガラが敷き詰められ卵たちが箱の中できれいに整列している。欲しい個数を言うと店の人は厚紙の箱の中にモミガラを敷いて卵を大事に入れてくれる、そして、のしをかけて出来上がりだ。その卵の入った箱を大事の抱えて病室に入るのだ。僕はその時その病院に入院している母の知り合いがうらやましかった。僕達が普通家で卵を食べるのは病気の時か父親の給料日くらいだ、しかもである一個の卵を水で薄めて醤油をたっぷりかけて親子三人でたべるのだ、それがその当時普通だった。そして、お代わりはさっきの卵を溶いた空き茶碗の中にご飯を入れ茶碗内壁わずかに残る卵をごはんでこそぎ落としながら食べるのだ。まさに卵は食べる「金の卵」だった。団塊の世代の僕達は卵に関しては他の世代の人達より思い入れがある。我が家の冷蔵庫には常に5パック位の卵の在庫がある、卵の在庫が少なくなると鞍手まで往復1時間の時間を掛けて養鶏場の卵を買いに行っている。いろいろな卵を試食したが、今の所鞍手のK卵が一番である。子供の時食べた卵の味がする、黄身があまく、深いこくがある。時間とガソリン代をかけても買う価値がある。そして、回転寿司屋に行っても真っ先に取る皿は「卵」である。

まぼろしの級長選挙

2005-04-26 16:26:21 | 昭和
僕の小学校3年と4年の担任は女性教師だった。その先生の名前をW先生と言った。自分より上に弱く自分より下にはめっぽう強い性格の人でえこひいきも凄い人だった。もしこんな教師が今でもいたら、教育委員会で懲罰にかけられる事間違いないだろう。ある日、「このクラスの級長を選挙で選びましょう」と言う事になった。各自意中の人を紙に書いて箱の中に入れる事から「級長選挙」は始まった。そして、即日開票である、黒板に数名の名前が書かれた、その下に「正」の字でカウントが書かれていく、一番はK君だった、彼はお金持ちの子供で、りっぱな家に住み成績優秀でいつも小奇麗な身なりをしていた、彼の父親はPTAの役員でもあり、W先生一番のお気に入りの子供だった。昨年の級長も彼が指名され、今年も当然「K君」が指名されるとだれもが思っていた。ところが、K君の隣に何と僕の名前が書かれたのである、そして得票も彼と並んですぐ彼を追い越してしまった。「僕が級長に選ばれたのである」。僕の頭は真っ白になった。予想もできない事だった。出来るなら断りたい気持ちだった。そして、選挙委員のIちゃんが「今年の級長T君に決まりました」。同時にW先生が教壇に上がってきた。「はいそこまで、今年の級長はやっぱりK君にお願いします、K君のお父さんはPTAの役をやっているし、いいですね、K君お願いします」と言うとさっさと教室を出て行ったのだ。W先生の出て行った教室の中はみんなのブーイングの嵐だった。しかし、僕はホットした「級長など誰がするものかと」思っていたからだ。しかし、僕は別の面で嬉しかった、クラス一の人気ものに選ばれたのだ、勉強はK君には敵わないが体操時間にかけっこをして彼に負けた事がない、それに、僕の鹿児島弁まじりの話がみんなに受けていつも笑いを取っていた。そして、僕を選んでくれたのはクラスの中で大部分を占める「貧乏派」の子供達だった。一方のK君は「金持ち派」の党首だった。この選挙で実質的には「貧乏派」が勝ったのだ。僕達は胸をはり大威張りで学校を後にした。家に帰り母に今日の事を話した。母は言った「わいがごとビンタの悪かもんがねーじゃどん、きばれ T雄!」(同時通訳:おまえのような頭の悪い子がねーでも、頑張れT雄!)母の顔がうれしそうだった。

本日のプログ臨時休業

2005-04-25 21:17:53 | 昭和
尼崎での痛ましい電車事故。朝、普通どおりに家を出ていつもの電車に乗り、何事もなく平穏な一日が終わるはずだった50名の方々・・・・悲しい無言の帰宅です。人生無常と言います、分かっていますが余りにもあっけない幕切れ、残された遺族の心中を思えば言葉も出ません。ご冥福をお祈りします。合掌。そんな悲しい出来事があった今日、いつものプログはお休みしました。

7歳の屈辱

2005-04-24 20:39:45 | 昭和
僕の小学校時代は貧乏だった。確かにあの頃はみんな貧乏だったが僕の家は特に貧乏だった。毎月の給食費が払えない月もあった。7歳の僕にとって生涯忘れる事の出来ない出来事がある。給食費を滞納している僕に女教諭が「前に出て来なさい」と言う。僕は言われるまま先生の前に出て行った。「T君 給食費をどうして持ってこないと?」「はい、ちゃんと母ちゃんには袋を渡しました」「じゃどうしてそれにお金を入れて持ってこんの?」そして、先生は僕の前にしゃがみ込んで僕の顔をのぞき込むように言った「T君だけよ 給食費がいつも遅れる家は!そのくらいのお金ぐらいあるやろ!」僕はその時先生から叱られていると認識した。僕は後ろにいるクラスのみんなの好奇心に満ちた気配を感じた。それと同時に恥ずかしさでしゃがみこみたい心境になった。その後給食費未納の結末はどうなったのか判らない。また、7歳の僕もその出来事は忘れたかのように見えた。その担任は僕の1年と2年を担当して他校へ転任して行った。名前をE先生と言った。僕が一年生の時に味わった屈辱を思い出したのは卒業写真に僕達の一年生の時のクラスの集合写真の中にそのE教諭を発見した時だ。僕の中にあの日クラスの皆の前で味わった屈辱感がよみがえっていた小学校を卒業直後の年である。それは12歳の僕にとって「怒り」の気持ちに変わっていた。「7歳の児童を皆の前に引きずりだして、貧乏呼ばわりする事が教師の仕事か、7歳の子供の心がどれ程傷ついたか知っているのか」僕はコブシを握り締めながらその写真のE教師の顔を凝視した。僕はあの屈辱以来「女教師」を忌み嫌うようになった。3年生と4年生も「女教師」だった、貧乏呼ばわりこそされなかったが「えこひいき」のひどい教師だった。その「えこひいき女教師」の話はまた、日を改めて記述したいと思う。本日の写真ネタは、その時の集合写真にしようと思ったが、E先生のプライバシー(ご健在なら80歳くらいか)もあるので、それだけは出来なかった。改めてE先生に申し上げます「僕が現在こうして何とか小さいながらも事業を起し人並みの生活が出来るのも「あの時の貧乏」が原点です。E先生ありがとう。貧乏は恥ずかしくないのです、僕に勇気とやる気を与えてくださったE先生ありがとうございました」。それで、本日の写真ネタは当時の「机と椅子」にすり替えました。

団塊の世代の運動会

2005-04-23 15:42:08 | 昭和
上の写真は何だかわかりますか?運動会です。(昭和35年です)運動場一杯に児童が並び、前に先生、その周りを取り囲むように父兄が並んでいます。一体どこで運動会をするのでしょう。実はこの写真は開会式、台の上で校長先生(?)が挨拶しています。それから、生徒は2群に分かれて他校の運動場に行くのです。戸畑小のすぐ南に戸畑中学校がありました。そこの運動場を借りてするのです。まさに、「母校分断」の運動会です。団塊の世代が入学したからと言って教室も運動場も広さはそのままです。教室は詰め込めばいいけれど全校児童が揃って競技する運動場を広くすること不可能だったのです。苦肉の策が運動場借り上げです。僕達団塊の世代が学校を巣立ってからそのような光景は二度となかったはずです。先生方があの当時いかに大変だったのかよく分かります。そして、親も自分の子の競技を見れなかったとボヤイテいました。団塊の世代の子供達の異常な多さをこの写真でおわかり頂きたかったのです。高校に入る時も大学に入る時も僕達は常に競争の前線で戦っていました。僕達団塊の世代に言わせると当世の受験競争なんて「競争」とは言えません。

働きざかりの小学生

2005-04-22 16:54:21 | 昭和
これまで小学校に入学してから、遊びの事を中心に記述してきた。確かに、現代の小学生と違って勉強せず、ひたすら遊んで、食べて、寝るだけの小学生ライフをおくっていたが僕達には家の仕事を手伝うと言う以外な一面もあった。豆腐屋のH君は学校が終わって家に帰ると自宅作業場でデッキブラシで床を洗ったり、豆腐作りの両親の貴重な労働力となっていた。僕は僕で家の仕事が割り当てられていたそれは、マキ割と石炭ガラ拾いだった。当時、僕達の住んでいる地域には電気と水道はあったがガスはまだなかった。ご飯はかまど炊き、煮炊きは豆炭か練炭が主力だった。その燃料であるマキ割とガラ拾いが僕の学校から帰っての日課だった。マキは近所に廃屋を取り壊した材木を拾って斧で同じサイズに裁断するのだ、石炭ガラは歩いて10分位の処にあった父の会社のガラ捨て場に拾いに行くのだ。石炭は一度燃やしてもまだ使えるものがある、火力こそは弱いが家庭の鍋の煮炊きには十分であった。僕は天気の悪い時以外は殆どガラ拾いに通っていた。上に掲載した写真がその時の様子だ、父の会社の同僚が撮ってくれたという。あの当時、食事を作るという作業は徒歩で材料を買いに行き、マキを割って火を起し、ご飯やおかずを作るのが当たり前の時代だった。食事を作ると言う行為は母親だけでは出来なかった、ましてや、当時僕は一人っ子だ、燃料の調達は僕に与えられた当然の任務だった。電気釜や湯沸し器が家庭に普及するのは僕が小学校5年生位の時だった。それまで、僕は燃料調達係として任務を全うした。夕方の住宅の煙突からは釜戸からの煙が立ち上っている、そして、家の前の七輪の上では秋刀魚を焼く匂いが立ち込めている、その、匂いを合図に僕達のその日の遊びは終わりだ。そして、家に帰り家族で夕食の食卓を囲むのだ。父は外の労働でお金を稼ぎ、母は食料を調達して、料理をして、僕は燃料を調達して、家族が一緒になって生きていた。僕達小学生は一方ではまさに「働きざかりの小学生]だったのである。

それぞれの「月光仮面」

2005-04-21 15:05:33 | 昭和
月光仮面がテレビに登場したのは昭和33年、僕が小学2年生の時だ。当時テレビを所有している家庭は殆どなかった、テレビがあったのは地域の公民館だけだった。地域の大人たちが子供達の楽しみのため公民館のテレビを開放してくれたのだ。毎週日曜日の午後7時から始まる「月光仮面」を見るために僕は夕食を急いで食べ終えると隣のT美を誘い毎週公民館に通ったものだ。番組が始まるまでまだタップリ時間はあるのに近所の子供達はテレビの前に座って待っている、中には親が子供達のために用意した駄菓子などもあり、お茶も用意されていた、まさに、毎週日曜日7時はその公民館は「子供達の社交場」に変わるのだ。7時の時報とともに「♪タケダ、タケダ、タケダ~♪」のCMソングが流れ、いよいよ月光仮面の登場だ、「♪月光仮面のおじさんは正義の味方だよい人だ♪」のテーマソングの流れるなかバイクに乗った月光仮面がマントをひるがえして登場するのだ、拍手をする子もいる。そして、物語は佳境にはいり月光仮面は黒装束の悪人たちを2丁拳銃でバッタバッタと倒すのだ。もう、僕達は息をするのも忘れたかのようにテレビの画面を食い入るように見つめている。そして、30分の月光仮面はあっと言う間に終わってしまう。公民館を出た僕達はもうみんな「月光仮面」になりきっていた、手でピストルのまねをして「バキュウーン!」とお互いに打ち合いをしていた、T美までも「女月光仮面」になりきっていた。月光仮面が現れるまで僕達の遊びはチャンバラごっこだった。月光仮面以来遊び道具は刀からピストルに変わった、物陰に隠れてピストルの打ち合いをするのだ、月光仮面役は僕達より年上の子がなり、僕はいつも彼に打たれて倒れる悪党役だった、もう何十回殺されたかわからない。その当時の僕達にとって月光仮面はヒーローだった。その後テレビや映画には色んなヒーローが登場したが「月光仮面」を凌ぐヒーローは現われなかったような気がする。団塊の世代が初めて巡りあったヒーローだった。そのヒーローに僕達は強くなりたいという望みを託したのかも知れない。その気持ちを裏返せば「もっと裕福な生活がしたい」と言う願望も込められていたに違いない。僕の家にテレビが来たのはそれから約7年後、僕が中学生になってからだ。この頃日本は高度経済成長時代の入り口に差し掛かろうとしていた。あの「月光仮面」に託した僕達の夢はまもなくかなえられようとしていた。昭和30年代を語るうえで「月光仮面」を抜きにして語ることは出来ない。月光仮面は今でも僕の心に中に昭和30年代の風景と共に生きている。