なすがままに

あくせく生きるのはもう沢山、何があってもゆっくり時の流れに身をまかせ、なすがままに生きよう。

想い出の隣人たち

2005-04-15 21:15:44 | 昭和
上の写真は向かって右端が僕の母その隣が僕そして僕の隣にいる女の子がT美ちゃん、その上がT美ちゃんのお母さん。T美ちゃんは僕の隣の家に住んでいた、T美ちゃんは母親と二人暮らしで兄弟はいない。彼女のお母さんは家の土間を改造して簡易食堂を一人で切り盛りしていた。僕たち家族はT美ちゃん一家と家族のように付き合っていた。T美ちゃんも僕も一人っ子同士、T美ちゃんは僕を兄のように慕い遊びに行くときは必ず跡をついてきた。僕も彼女を妹のようにかわいがった。そんな仲のいい二人を見てT美ちゃんのお母さんは「T美 お前はTちゃん(僕)の嫁さんにもろてもらえ」などとよく言われたものだ。T美ちゃんの家は食堂だったので、僕はいつも夕食をご馳走になっていた、何を食べたのか記憶はない、満腹になった僕はその場で眠ってしまい、翌朝目覚めたら隣にT美ちゃんが寝ていた事も何度もあった。僕の住んでいた「洋館長屋」には7世帯の家族が暮らしていた。その当時一人っ子の家庭は珍しく多くの家庭は4人位の兄弟がいるのは当たり前だった。僕にとってT美ちゃんは「代理妹」だったのかもしれない。その洋館長屋の一番北側の部屋にはSさん一家が住んでいた、鹿児島出身のSさんと僕の母親は忽ち友達となり、僕の母はお互いの部屋を訪ねて鹿児島弁丸出しで話すものだから、周りの住人達は意味不明の方言を話す母とSさんをケゲンな目で見ていた。僕の両親は鹿児島出身だ、僕が生まれたのも串木野市である。両親との日常会話は当然鹿児島弁である、独特のイントネーションは鹿児島人しか理解できない方言である。「T雄 はよ飯をたもらんか!」(同時通訳:T雄 早くご飯をたべなさい)。鹿児島を出て4年目、やっと鹿児島弁で話が出来たSさん家族との出会いは僕の母にとってオアシスだったにちがいない。50年近くの歳月を経た今でも現在鹿児島在住のSさん家族と母(現在84歳)の親交はつづいている。その当時の隣近所の付き合いはまさに「隣組」なのだ、遠くの親戚より隣の人である。現在の僕達の住んでいる町にも自治会はある、しかし、実態は昭和30年代の隣組とは全く違ったものになっている。