なすがままに

あくせく生きるのはもう沢山、何があってもゆっくり時の流れに身をまかせ、なすがままに生きよう。

ネタ切れ?

2005-05-29 22:18:40 | 昭和
昭和のネタが最近品切れになりつつある。考えても出てこない、これが職業作家だったらかなりのストレスになるはずだ。昭和の文豪はよく自殺まで追い込まれている。もし僕が自殺したら「プログのネタ見つからず、中年男性自殺!」と新聞に載るのだろうか?いや、違う、僕は自殺などしない、僕は文豪ではない、僕は酒豪なのだから。しかし、他の方のプログを読んでいると皆さん思いついた事を自由きままに書いていらっしゃる、そこで、僕もネタがない時は思いついた事を指の動くままにキーボードを叩こうと思った。今朝は朝から強風で始まった、澄み切った空気と抜けるような青空。こんな気持ちのいい天気はめったにない。今日の予定は自転車で芦屋海岸から宗像サイクリングロードを走り、神湊からフェリーに乗り大島に渡る予定だった。そして、気が向いたら大島の民宿に宿をとりいさり火を眺めながら一杯飲むオプショナルツアーまで計画していた。翌朝はご飯を大盛り食べて神湊から再び北九州もめざせばいい。家族の了解も取り付けていた。それが、ダメになった、朝からの強風である。あの風の中ペダルを踏めるのは競輪選手しかない。念のため遠賀川を見に行った、台風の日のように白い波しぶきが立っていた。僕はあきらめて家に帰り家の整理をしたりして過ごした。夕方のニュースで福岡の中学の運動会で風で倒れたポールで中学生が怪我をしていた。陸上でこれだから、海岸では凄い強風だったはずだ。行かなくて良かった。
 上の写真は芦屋海岸から波津海岸を貫くサイクリングロード、潮騒の音を聞きながらの
 サイクリングは最高です。HPによると全国でも有名なサイクリングコースらしいです。

元日本兵のこと

2005-05-28 14:30:56 | 昭和
ミンダナオ島で発見された元日本兵のニュースが飛び交っている。まだ真実は不明だが、かなり信憑性は高いらしい。もし、本当ならば直ぐにでも帰国させて欲しい。僕の両親と同じ年頃なのでなお更そう思う。団塊の世代の僕達の父親はみんな戦地に召集されている。戦死したもの、傷ついたもの、生き残ってシベリアに抑留され故国の土を踏めた父は強運だったのかもしれない。戦後の復興の大役を担ったのも僕達の父親だった。昭和を語る上で大正生まれの僕達の両親の事を忘れてはならない。しかし、60年もの間生き抜いた元日本兵の生命力には感動すら覚える。彼らの記憶に残っている日本は出征時の貧しい日本の町の姿だろうそして60年後の日本は彼らの心にどのように写るのだろうか。早く聞きたいものだ。日本政府よ早く救出して欲しい、もう彼らには人生の時間が少ないのだ、そして、空白の昭和を埋め戻して欲しい。

明け方の夢

2005-05-27 15:23:45 | 昭和
昭和をテーマにしたプログを書き出して時々なつかしい夢を見る事がある。多分、子供の頃に過ごした昭和30年代を思い出す事が多いからだと思う。今日の明け方見た夢は懐かしい小学時代の夢だった。舞台は温泉地、露天風呂に入っていたら大勢の団体さんが入ってきた、男も女も一緒だ。一人ひとりの顔を見ると何と小5のクラスメイトではないか。僕は同窓会でもないのに「どうして、みんなここにおるん?」と聞いたら。「45年後に皆で集まろうち 言うたやん」と答えたのはあの初恋のM代だった。夢の中では皆年取っていない、身体は大人だが顔は卒業写真のままである。服装も卒業写真の時のままだ。その時一人の男性が現れた「I先生だった」。I先生だけが年とっていた、腰は曲がり、杖をついていた。みんなは、先生の手をとって風呂の中に入れた。先生は嬉しそうだった、僕は今日先生に会えるとは思っていなかった、そして、先生は風呂の中でオルガンを弾きだした「うさぎ 追いしかの山 小鮒釣りしかの川~」全員で合唱した。僕達は涙を流しながらその歌を歌っていた。その時目が覚めた、ベットの横にあるパソコンの画面には、スキャナーで取り込んだ「思い出写真館」がスライドショーで写しだされていた、そして、BGMに「故郷」が流れていた。昨夜スライドショーを見ながら寝込んでしまったのだ。しかし、久しぶりにいい夢を見た。こんな夢なら毎晩見たい。それにしても45年ぶりに夢であったM代は本当にきれいだった。「あの肥後の守事件さえなければ(4月30日のプログ参照)」と思った。

昭和の文学

2005-05-25 14:06:04 | 昭和
昭和を題材にプログを書き出してから昭和初期の本や映画に興味が以前よりも沸いてきた。林芙美子、川端康成など昭和初期を背景にした小説を読み出したら面白い。小説の中で登場人物の服装や街の様子が細かく描写されている。目の前で当時の生活が蘇るような感じになる。さすがは一流の文学者の文章だと今更ながら驚く。僕が一番好きなのは林芙美子の「放浪記」だ。物語の最初は遠賀川沿いに話が進んでいく。直方、折尾などの地名がよく出てくる。極貧生活を送っていた昭和の初めの林芙美子の自伝小説だと言われている。この小説で描かれているのは、貧しい昭和初期をたくましく生き抜いていた女性の生きざまに他ならない。それが、現代の我々に感銘を与えるからだと思う。「森 光子の放浪記」の舞台が今でも好評なのはその証でもある。僕の本棚には「中央公論社」の日本文学全集55巻が揃っている。その全集は昭和40年に買ったものである、僕が高校2年生の時である。今でも、時々取り出しては読んでいる。林芙美子も何十年ぶりかに再読した。やはり、面白い。その本の最後のページには本の価格まで載っている。立派な装丁で一冊500ページ以上ある。この本が当時一冊390円だ。僕の生まれる前の昭和がわかる昭和文学は面白い。

ロープ!ロープ!

2005-05-23 22:46:56 | 昭和
プロレスの全盛時代、力道山が活躍していた頃の昭和はまさに日本が戦後の復興を成し遂げようとしていた時代だった。黒タイツの力道山が外人レスラーを空手チョップでリングに追い詰める。戦争でアメリカに負けた日本人にとって力道山はまさに「胸のすくヒーロー」だった。リングに追い詰められた外人レスラーは「ロープ!ロープ!」と言いながら両手をあげる、そこで攻撃を緩めた力道山は外人レスラーから反則技を受ける。テレビの前のみんなは怒り絶頂である。そして、力道山は相手に空手チョップで応戦し敵をマットに沈める。あの当時の日本人の殆どがプロレスに熱中したものだ。プロレスを見て興奮した老人が心臓麻痺で死んだというニュースもよく耳にした。僕は今でも世間話や仕事の交渉の時に自分が不利な立場に置かれると両手を挙げ「ロープ!ロープ!」と言ってしまう癖がある。それを見た相手は爆笑してしまう、そして、交渉事や話題は僕に主導権が移る。今日は仕事を午後からオフにして家の各部屋にダニアースを仕掛けた。2時間後家に帰って部屋を確認したら台所でゴキブリの小さいのが2匹「死んでいた」片付けようとチッシュで掴もうとした瞬間ゴキブリは突然逃げ出したのだ。ゴキブリ君の「ロープ!ロープ!作戦」だった。僕はひるむ事なくゴキブリを捕まえチッシュの中で握りつぶした。「ワン ツー スリー!」ゴキブリ君の負けだった。

祖父の孤独

2005-05-22 18:34:13 | 昭和
祖父はその頃70歳を越えていたが漁で鍛えた肉体は一回り若く見えた。祖父には4人の息子がいた、その息子達は漁師以外に収入のない串木野を離れ県外に職を求めて祖父の家は祖父と祖母の二人だけの生活に戻ってしまった。その猟師町のどこの家も状況は同じであり過疎化が進んでいた。海がしけて漁のない日は祖父は朝から焼酎を飲んでいた、酔いが回ると僕をひざに乗せて昔話を聞かせてくれた。少年時代の僕の父は素もぐりで町一番になった事、昭和の初めの頃は串木野の海岸がいわしの大群で海の色が銀色に輝いていたこと、その採れすぎたいわしをツミレにして油で揚げたのがさつま揚げ(つけあげ)の元祖だとかいろいろな話を聞かせてくれた。祖父は昔を思い出していたのだ大正から昭和にかけて漁一筋で4人の息子を育て上げ、世に送りだした安堵感と寂しさ。4人の息子のために一生懸命頑張った大正から昭和の初めの頃。父を戦地に送り出した事、そして父の無事な帰還。それから母と結婚し初孫の僕を授かったことなど色んな思い出が頭をよぎっていたに違いない。しかし、初孫一家も今は遠くに暮らす身の上だ。こうして4年ぶりに祖父の元に里帰りした初孫と過ごす幸せをその時かみ締めていたのかも知れない。僕の夏休みもいよいよ残り少なくなってきた。僕は猟師町の子供そのものに変身していた、全身を真っ黒に日焼けし来たときよりもたくましくなっていた。そして、祖父母との別れの朝がやって来た。祖母は列車の中で食べる弁当を昼と夜の2食分を僕に持たせた。そして、門司港行きの蒸気機関車が駅に入った、祖父と祖母は窓の下で「また、遊びにこいよ、学校の勉強がんばれよ」と大きな声で言っていた。蒸気機関車の「ポー」の汽笛とともに列車はジワリと動き始めた、祖父の顔は涙でぐしゃぐしゃだった。そして、また大きな声で「きばれよ T雄!」と叫んだ、僕は列車を飛び降りたい気持ちだった。せつない寂しい気持ちを残したまま列車は串木野駅を後にした。その夜遅く列車は戸畑駅に着いた。こうして僕の8歳の一人旅は終わった、一ヶ月にわたる長期旅行だった、子供心に身も心も一回り自分が大きくなって帰ったような気がした。それから5年後の夏の夜、父宛に電報が着いたそれは「父死す、帰れ」と記されていた。祖父が亡くなったのだ、脳溢血による急死だった。享年77歳。僕は5年前の串木野駅で最後になった祖父の顔を思い出して絶句した。「T雄 キバレよ」と祖父の声が聞こえた。僕が中学生になった夏の出来事である。「じいちゃん T雄はまだキバッテ(頑張って)いますよ」。

8歳の一人旅・その3

2005-05-21 15:34:42 | 昭和
祖父は漁に出る時は必ず僕を連れ出した。夜明け前の出港が殆どだった。船は甑島の沖合い帆を揚げて停泊し、祖父の漁が始まる、手釣りでタイやヒラメを釣るのだ。しばらくすると祖父は手馴れた手つきで糸を巻き上げると見事な真鯛が水面に浮かんでくる。片方の手でタモを使い船の水槽に魚を入れる。祖父は僕にも釣り方を教えてくれたが僕の沈めたハリには何の反応もない。祖父はその間も次から次へと魚を吊り上げている。祖父は時々僕にアドバイスする。「T雄 もっとゆっくい ハリを上げ下げせんな」、僕は祖父の言われるままハリをゆっくり上げ下げした時、手に衝撃が来た、子供の力では耐えられない程の力で海の底から引っ張られた。祖父はすぐ魚を取り込むのを手伝ってくれた「T雄 太かぞ!」本日の一番大きな真鯛だった。僕は洞海湾でも魚釣りをした事があるが獲物は10センチほどのハゼが釣れればいい方だった。その真鯛を釣ってから僕は漁のとりこになった。昼ご飯はいつも船の上だ。祖母は大きなアルマイトの弁当箱に白ご飯と梅干だけを入れて二人に持たせていた。おかずは自分で釣った魚を食べろといわんばかりの弁当だった。祖父は吊り上げた魚を刺身にしてくれた、最高に美味しい昼ご飯だった。その後僕の人生であの時洋上で食べた昼ご飯の美味しさを凌ぐご飯を食べた事がない。毎日のように漁に出て僕は魚釣りをした、釣糸の扱いにも慣れて、釣果も増えていった。そんな僕を見て祖父は「わいの体には漁師の血が流れとうが」祖父は満面の笑みを浮かべながら僕を見ていた。魚釣りに飽きたら僕は船の上から海に飛び込んだ、そして、船の周囲を泳いだり素もぐりをしたり海と戯れた。疲れたら、船の上で昼寝をするのだ、心地いい船の揺れの中で僕は夢の中に引き込まれていた。僕は戸畑の事など完全に忘れていた。僕はもう戸畑に帰りたくないと本当に思っていた。このままここに居て祖父の跡をついで本職の漁師になりたいと思うようになった。8歳の子供にそこまで思い込ませるものは何だったのか、それは、「海の魅力そのもの」に他ならない。

8歳の一人旅・その2

2005-05-20 17:51:45 | 昭和
一人旅の僕を乗せた門司港発西鹿児島行きの蒸気機関車は途中数回の水と燃料の補給をして日が昇る頃には東シナ海の海岸沿いを通過していた。そして、夜が明けたばかりの目的駅「串木野駅」のプラットホームに列車は着いた。駅には祖父と叔父が出迎えに来ていた。祖父は僕を抱き上げると「太かこどんになったなあ」(同時通訳:大きな子供になったなあ)と言った。4年ぶりの再会だった。当時まだ現役漁師だった祖父は日に焼けた顔をほころばせながら初孫の僕をずっと抱きしめていた。これから一ヶ月の間僕は祖父母とここで暮らすのだ。北九州よりもはるかに太陽の照りつけが厳しい鹿児島の太陽に、やっと串木野に来た事をその時実感した。僕が生まれたのは串木野から10キロ位北上した羽島という町である。県内でも好漁場を控えた漁業の町である。羽島崎からは東シナ海に浮かぶ甑島を望む事も出来る風光明媚な町でもあった。祖父の家は古い茅葺の家だった、電気はあったが、食事は囲炉裏で作りそこで食べる。今考えると江戸時代のような暮らしが昭和30年代前半にはここ田舎の漁師町では当り前だったのだ。毎日の食事には必ず魚料理が出た、野菜は祖母が畑で作ったものだ。食生活では戸畑よりも豊かだった。次の朝から僕は祖父に付いて「漁師見習」の仕事をする事になる。祖父は小さいながらも自分で漁船をもっており、長年のカンで魚のいるポイントを熟知しており羽島の漁港でも水揚げは上位の方だった。........(すみません!仕事の電話が何度も入り忙しくなりました。この続きは明日へ移行します) 

8歳の一人旅・その1

2005-05-19 16:40:30 | 昭和
僕は4歳の時に鹿児島から出てきた、その鹿児島に4年ぶりに里帰りする事になった。小学校2年の夏休みの事だ、しかも、一人旅だった。「孫の顔を見たい」と祖父母からの手紙で僕の両親は僕を夏休みの間鹿児島で過させようと計画したのだ。僕は初孫だった。出発駅は門司港から乗る事になった、なぜ門司港なのかというと、鹿児島行きの始発は門司港だった、その始発駅で順番をとらないと目的地まで座席に座る事ができないからである。その当時指定席の列車があったのかどうか知らないが、夜遅く出発する列車に乗るため夕方から門司港のホームに並ぶのである。駅構内が人であふれていたのを覚えている。そして、鹿児島行きの蒸気機関車がホームに着いた、列車が止まると同時に人が車内になだれ込んだ、父は真っ先に僕のために席を確保してくれた。僕は窓側の席に座って一人鹿児島に向かった。僕は田舎の祖父母に会えるのもうれしかったが汽車に乗って遠くに行ける事の方が嬉しかった。車内には僕と同じ位の子供達も沢山いた、みんな両親や兄弟と一緒だった、一人旅は僕一人だけだった、列車を待つホームで母は僕が一人で鹿児島に行く事を周りの人に言っていたので同乗した人達はみんな僕に親切にしてくれた、お菓子をもらったりジュースをもらったり夜行列車の車内は賑やかだった。当時の列車には冷房などない、窓を全開しているので自然の風が車内にはいり涼しいがトンネルに入ると石炭のススが車内に入ってくる「みんな!窓を閉めろ」の一声で窓側に座った人は窓閉めの作業をする事になる。しかし、トンネル進入と窓閉めのタイミングは合わず、機関車の煙は車内に侵入し目の前が煙で真っ暗になる、トンネルを通過するまで鼻と口はハンカチで押えていなければならないのだ、まさに「命がけの夜行列車」だった。トンネルを過ぎると窓を開け新鮮な外気を吸い込んだ、田んぼの緑の匂いで戸畑からどんどん離れて行っているのが分かった。僕達を乗せた蒸気機関車は真っ暗闇の中をひたすら鹿児島に向かって走り続けた。

当時の文化住宅

2005-05-18 11:03:26 | 昭和
上の写真は新しく引越しした西大谷団地の昭和36年頃の写真である。山の中腹から頂上にかけて同じ建物が並んでいる。当時は文化住宅と言われ入居希望者が多く抽選に当たるのは宝くじ並と言われていた。この団地に優先的に入居できるのは若戸大橋建設の立ち退き家庭だった。だから、この団地は以前戸畑渡し場からの移転家族が多かった。以前の木造住宅から比べてコンクリート造りの家は冬は暖かく夏は涼しい家だった。なにしろ高台にあるので夏はいつも涼しい風が吹いていた。何よりも嬉しかったのは風呂が自分の家に在ることだった、しかも、ガス釜である。以前は週に何回か銭湯に行っていた事を思うと夢のようだった。こうして、僕達一家は夢の文化住宅生活を満喫していた。僕が一番好きだったのは高台から眺める風景だった、戸畑の市街地や遠くは下関あたりまで見える、そして、夜景もきれいだった。僕は西大谷の環境が気に入っていた。渡し場時代の生活はすっかり忘れていた。そして時は過ぎ現在の西大谷は住宅やマンションが建ち並び、坂道には路上駐車の車が隙間なく留っている。今でも西大谷地区は戸畑でも土地の値段は高いと聞く、それは、高台からの見晴らしのよさで買い手が多いらしい。この写真から現在の風景は想像できない。この写真を見るたびあの住宅の一角で慎ましく暮らしていた僕達家族の生活を思い出す。そこには周りを緑で囲まれ、戸畑の街を見下ろしながら静かに暮らしていた一家がいた、今は車の離合も出来ない程の過密住宅地になってしまった。日本の道路交通法によれば車庫がないと車は所有出来ないはずだが、その法律はどうなったのであろうか?