なすがままに

あくせく生きるのはもう沢山、何があってもゆっくり時の流れに身をまかせ、なすがままに生きよう。

昭和30年代・夏休み1

2005-04-16 21:47:10 | 昭和
灼熱の太陽が少し傾いたある夏休みの午後、僕達は家の前の空き地に水撒きをしていた、真夏の午後の水撒きは家の中へのホコリ進入防止と外気を下げるための生活の知恵だった。水撒きが終わった僕達を待っているのはスイカだった。大きなお盆に食べやすく切られたスイカを塩を付けて食べるのだ。真夏のスイカは塩がないと食べれない、汗をかいた身体が塩分を欲しているのだ。スイカのにおいを嗅ぎ付けて洋館長屋の○○じいちゃんが現れ当然のように長椅子に座る。じいちゃんには歯がない、歯茎で食べ物を食べるのだ、歯がないためかなり老けて見える、スイカの固さと歯茎の相性がいいのかスイカを食べるスピードは僕達の倍の速さだった。スイカを食べながらじいちゃんがしゃべりだした。「ワシ達が子供の頃はよー中原海水浴場に毎日のように行ったもんだ、白い砂と後ろには松林があってのう、海はきれいで、門司のほうまで眺められたもんだよ」。僕はじいちゃんの言う事が信じられなかった。中原には海はない、あるのはもくもくと煙を上げる大きな工場だけだ、そこに昔海水浴場があった事は子供の想像の領域を超えていた。僕は隣のT美に言った「おい、T美 このじいちゃんウソついとうぞ、中原に海水浴場があったわけなかろうもん、他の海水浴場と勘違いしとらすとよ、のうT美」。T美も相づちを打ち「そうバイ、うちの母ちゃんも言いよったよ、「最近○○じいちゃんはボケてきようばい」、やっぱり他の海水浴場と勘違いしとうとよ、見てん、じいちゃんはスイカのタネ出さんと、全部食べよるバイ、やっぱーボケちょんやね」。僕とT美は顔を見合わせ大笑いした。それから月日は流れ、僕は「幻の中原海水浴場」の事は忘れていた。じつは、僕は3年前位から、地元の郷土史に興味をもち、情報の無料資料室であるインターネットから北九州や筑豊地区の近代の歴史を調べていた。その時ヒットしたのが「中原海水浴場」だったのだ。宣伝パンフレットと海水浴場で遊ぶ児童の写真もある、さらに詳しく調べると、「交通の便のいい中原海水浴場は当時西日本で一番人気のある海水浴場だったこと、昭和の初めから埋め立てが始まりついに中原海水浴場は消滅したと」記されていた。僕の記憶は45年前の昭和31・2年のあの日に飛んでいた。やはり、あのじいちゃんの言っていた事は本当だったんだ。もう、あのじいちゃんは今確実に故人となっているはずだ、僕はじいちゃんの冥福を祈りながら「じいちゃん、あの時ボケたとか勘違いとか言った事謝ります、すいませんでした、T美の分まで謝ります、すいませんでした」。夏が来てスイカが店頭に並ぶ頃、僕はいつも「幻の中原海水浴場」を思い出す、スイカと中原海水浴場、僕にとって忘れる事の出来ない、昭和30年代の原風景である。そして、あの日食べたおいしいスイカにその後僕はめぐり合っていない。