なすがままに

あくせく生きるのはもう沢山、何があってもゆっくり時の流れに身をまかせ、なすがままに生きよう。

新事業のヒント

2006-03-23 17:37:45 | 昭和
Y運輸での仕事は担当エリアの宅配荷物の配達と集荷を任されていた。3年も同じ地域を担当するとエリアに入ってくる荷物と出て行く荷物の関係がしだいにわかってきた。新米の時期には米そして季節の果物や野菜を配達したり、全国各地からそれぞれの家庭に名産品が送られてくる。いずれも、親兄弟、友達からの荷物である。宅配大手のY運輸の特徴である翌日配達はこれら生鮮食品の配達を一般家庭に普及させ急成長している時期でもあった。「何か新しいビジネスはないか」と模索している時、その荷物の出入りに法則がある事に気づいたのだ。それは、ある家庭に田舎から米や果物が送られて来るとその数日後には必ずお返しやお礼の荷物が発送されていると言う事実だった。そのお返しの品物が殆ど福岡名産の「明太子」だったのである。僕はその時まで明太子は博多のお土産だと思っていた。それが、北九州でもお土産としてかなり売れているのだ、黒崎のデパートや店まで交通機関を使って買いにいき、他の荷物と一緒に荷造りして取扱店に持ち込むのだ。その「明太子を買いに行く時間と荷物の集荷代行がサイドビジネスとして成り立たないか」。と僕は考えるようになった。「明太子の委託販売をさせてくれる会社があれば、このビジネスは元手がいらない、毎日が配達のため人と会う商売だ、宣伝すれば必ず需要がある」と僕は睨んだ。そして、その代行ビジネスについての企画書を作り、明太子製造会社を僕は探した。さて、どこにしようか?一番最初に目をつけたのが、市内のI商店だった、何故なのかと言うと、何社かの明太子を買って試食して一番おいしかったからである。そして、5月初旬僕はI商店の社長と面談の約束を取りつけた。新ビジネスのヒントが浮かんで一週間後の事である。相変わらず早い行動である。もちろん、I社長とは面識などない、営業の出来る軽運送として僕はY運輸でも注目されていた、今度はY運輸のために営業するのではない、「自分と家族のために営業するのだ」。そして、約束の日が来た。

将来の不安

2006-03-19 06:28:56 | 昭和
Y運輸で仕事をして3年目が過ぎようとしていた。貯蓄高も順調に伸びいつでも家を建てる頭金位は準備出来ていた。僕が軽運送を始めた時から一つだけ不安な事があった。それは、「もし、病気とか怪我で仕事が出来なくなったらどうする」と言う事だった。生命保険には入っている、しかし、病気が長期に及んだら保険金は数ヶ月で打ち切られる、そしたらまた貧乏生活に逆戻りだ。僕の父が個人タクシーを開業して10年後に脳血栓で倒れ、その後僕達一家は路頭に投げ出された。それまで家を建てるために貯めていたお金は長期に及ぶ入院で全て消えてしまった。その将来の不安は他の誰よりも強く感じていた。運送業をしながら何かサイドビジネスをしたいと考えるようになったのはその頃である。何か拠点を持ちたい、例えば物販の店やサービスを提供する店など頭の中に色んな考えが浮かんだ。他の商売をするにしても開業資金は十分に持っている。その、商売は家内に任せればいい、僕は身体の続く限り軽運送をすればいい。家の新築はそれからだっていい。今人生で一番体力も気力も充実しているこの時に将来の礎を築きたかったのだ。そのような考え方をさせる背景には3年間かかって貯めた700万位のお金の存在があった。このお金を将来に投資したいと考えるようになった。毎日荷物の配達や集荷をしながらサイドビジネスの事を考えていた。そして、新しいビジネスのヒントは意外にも身近なところに隠れていた。

安定経営 軽運送

2006-03-18 06:36:25 | 昭和
引越しが落ち着いて僕は製麺会社とチャーター契約を結んだ、午前中はスーパーとか飲食店に麺類を配達する仕事である。そして、午後からはK運送の宅配荷物を配達する仕事を掛け持ちしていた。当時宅配便は業界最大手のY運輸が急進していた、地場のK運送の宅配荷物はわずかな個数しか配達出来なかった。そこで僕はY運輸に委託軽運送で雇って欲しいと何回か営業に行ってお願いしていた。ほどなくして、Y運輸から軽運送として雇車したいと連絡があった。Y運輸の配達単価は少し安いが個数は確保出来る。そして配達エリアが狭いので車の燃料費も安くなる。願ってもないY運輸の仕事だった。早速その年の五月から僕はY運輸専属の軽運送として仕事をする事になった。朝7時にホームに行き配達地域の荷物を軽トラックに積んで配達して夕方までに配達を終わらせる。一日平均100個の荷物を運び、途中で荷物を集荷して月平均の売り上げは約60万円位になった。車の燃料費や維持費は5万円位だから残りが全て手取り収入である。機械工具の会社に勤めていた時の給与の3倍以上を稼いでいたのだ。僕はその収入の半分以上を貯蓄に回した、お金のない惨めな生活をいやと言うほど味わった、家も建てたかった、そのため貯蓄に精をだした。それまで残高数万円だった預金通帳には高級車のクラウンが買える程の金額が記されていた、軽運送を開業して一年後の事である。その一年前に○軽運送の○さんが言っていた事は本当の事だったのだ、働けば働くほど確実に収入が増えて貯蓄が増える軽運送の仕事に僕は疲れも知らずただひたすら荷物の配達に情熱を燃やした。

大繁盛 軽運送

2006-03-17 08:27:00 | 昭和
2月1日から軽運送を正式開業した。すでに開業する前から2月の仕事予定はぎっしり埋まっていた。それは女子学生の引越し荷物の運搬である。僕は開業前から折尾の学生アパートとか女子寮に手書きのチラシを投げ込んでいたのだ。2月と3月は折尾の町は学生の民族移動でかなり活気づくのだ、他の軽運送もここが稼ぎ時と待機している、彼らと同じ事をやっていたら仕事はこない。そこで、僕は「荷物の量に関係なく折尾町内の引越し一律5千円」とチラシに載せたのだ、それまでの軽運送は基本料に荷物の個数や階段のあるなしで値段を決めていた、だから、一万円かそれ以上の引越し料金を請求していた。僕の「一律5千円」のチラシが学生達の支持を受けたのは言うまでもない。一人分の引越しの所要時間はみんな一時間以内に終わる。そして、次のアパートに行ってまた引越し、朝8時から夜8時位までかかって多いときは一日15件位の引越しをこなした。当時折尾の町で学生の引越し荷物を専門に扱っていたK運送から嫌がらせの電話が家にかかってきたほどである。それ程僕の引越し作戦は学生に好評だったのだ。2月と3月の2ヶ月間で僕は何と160万円も稼いだ。家内は事業団APの部屋で買い物も行かず学生の引越し依頼の電話を毎日受けていた。まさに二人三脚で稼いだ160万円だった。2ヶ月間一日も休まず僕は軽トラックに乗って出かけた。運転しながら鼻歌が出てくる。「お金を稼ぐ事は楽しい、俺は一国一城の主だ」。独立したからこそ味わえる満足感だった、そして、上司も部下もいないと言う事はこんなに楽なのかと思った。こうして僕の軽運送業は順調にスタートした、僕が34歳の時である、30歳前半の大厄がこれで終わったのだと思った。

悪意の親類たち

2006-03-16 07:04:59 | 昭和
年が明けて昭和58年の正月、僕たち一家は家内の実家に行った。毎年恒例の新春兄弟初顔あわせである、そして、子供達にとってはお年玉獲得の正月でもある。僕の家内は男二人、女二人の4人兄弟である、家内は次女、姉と兄そして弟がいる。兄弟たちは上場会社の社員であり、自宅も数年前に新築し、順風満帆な生活を送っていた。そんな兄弟から見てK無線倒産後から2回に及ぶ転職や今回の軽運送開業は異常に思えたらしい。来月から開業する軽運送業に皆の批判が僕に集中した。「そんな仕事長続きするわけない」とか「儲かっているのはほんの一部の人だけや給料が安くても今の会社に残ったほうがいい」あげくのはてには「大学を出て軽運送はないやろ」と僕はむちゃくちゃにこき下ろされた。そして、酒が入るにつれて「俺の妹は本当はあんたと知り合わなかったらモットいい縁談があったんぞ、あんたと知り合ったばかりに兄弟の中でも一番貧乏生活をしよる、こいつも不運の女よ」と義兄が言うと他の兄弟たちもあいづちを打った。僕は何も言わず黙って聞いていた、何も反論できないのだ。その時家内が切れた「あんた達黙って聞きよったら、いいたい放題やね、うちはこの人が好きで一緒になったと、この人は長男で財産もない、そんな事どうでもよかった、この人はね仕事なら誰にも負けん!今はね、運が悪いだけ、うち達は確かにここ何年どん底の生活を送ってきたよ確かに、でもね、それがつらいとか苦しいち思った事はないよ、うち達は今度の軽運送に賭けとるんよ、水を差すような事は言わんで頂戴!」と家内は兄弟たちに向かって怒鳴ったのだ。家内の一言でその場が水を打ったように静かになった。そして、「もう帰る!軽運送で成功してあんた達よりもいい生活するまで、もうこの家には来ません!」と言って家内は捨て台詞をのこして実家を後にした。僕は家内の芯の強さに驚いた、兄弟に決別して僕を選んだ彼女が愛おしくなった。その日を堺に家内と兄弟や小姑達との関係は修復される事なく現在に至っている。機械工具の会社には昨年末辞表を出していた、1月の末に退職して、2月1日から正式に軽運送業でスタートする予定だった。その日の正月の兄弟合戦の恨みを晴らすためにも絶対に頑張ろうと僕の目は輝いていた。

独立への道 2

2006-03-12 11:20:13 | 昭和
軽運送開業に向けて僕は翌日から準備に取り掛かった。組合に提出する書類を慎重に記入して提出、間もなく陸運局へ面接に赴いた。その2週間後には注文していた軽トラックが納車された。黒の下地に黄色の軽貨物のナンバープレートが神々しく見えた。○軽運送の○さんから組合の所在地を教えてもらってまだ一ヶ月しか経っていなかった。その自分の行動の早さにびっくりしたのは僕自身だった。そして、組合から12月の土日を利用してサイドビジネスで宅配の仕事の予約ももらっていた。僕は軽運送の正式な開業は2月からと決めていた、なぜならば、機械工具の会社に1月いっぱいまで勤める予定だったからだ、1月まで務めると失業保険の受給資格が出来るからだ。12月に入ってのすぐの土曜日、組合の指示でK運送のホームに行った、組合で知り合った軽運送の人達が自分の車に受持ち地域の荷物をせっせと積み込んでいた。新米の僕にみんな仕事の要領を丁寧に教えてくれた。初日の荷物は新米だからと50個位の荷物を載せて僕は配達地域に向かった。朝9時に配達をスタートして全部の配達が終わったのが夜7時だった。住宅地図を片手に一個の荷物を配達するのに予想外の時間がかかった。配達を終えて営業所に帰ると皆配達完了伝票の整理をしていた。12月のお歳暮時期なので他の人は150個位配っているという。50個しか配れなかった僕に先輩達は「初日に50個配れるちゃ、○○さんあんた見込みがあるばい、おれなんか初日は30個しか配れんやったもん」と僕を慰めてくれた。「僕もみんなみたいに一日150個も配達できる日がくるでしょうか?」と聞くと「この仕事は慣れやけ、2週間も同じ地域に入ったらだれでもできるちゃ、心配せんでいいよ」と答えてくれた。それでも、その日の僕の稼ぎは1万円だった。「自分の足と頭で1万円稼いだのだ」この事が嬉しかった、そして、早く地域に慣れて150個位配れるようになろうと思った。その年の12月は通算12日間宅配の仕事をした、先輩の言うとおり配達個数は日を追うごとに増えていった、折りしも歳暮商戦真っ最中だ、新米だからと言って自分の配達地域の荷物はホームに残してはならない、僕は夜遅くまで頑張った。そして、12月の末、配送料が支払われた。封筒の中には30万と少し入っていた。たった、12日しか仕事をしてないのに30万稼いだ!その年の12月に会社からもらった給料とボーナスを足した金額だった。その夜は家に帰って家族ですき焼きを囲んだ、僕の人生において最高の大晦日だった。来年からは絶対にいい年になる。もう、人生の荒波は終わった、やっと波静かな海を航海できる。僕達夫婦は波乱に満ちたこの数年を振り返ってお互い心から笑った、「最後に笑ったもんが勝ちよ」嫁さんが口癖のように言っていた言葉が本当になった。

独立への道 1

2006-03-10 06:39:23 | 昭和
その会社の玄関の清掃は新人である僕の受け持ちだった。その会社の入り口に毎朝一番に商品を届けてくれる運送会社の人が若い人からおじさんに代わった、しかも配達の車は軽トラックだった。ドアに○軽運送と書いている。僕は聞いた「個人で運送業をしているんですか?」とたずねると。「そうです、F通運で2年前から仕事しています、今日から受け持ち区域がここになりました、宜しくお願いします」と言い残して忙しそうに車に飛び乗って行ってしまった。僕の興味は個人営業の軽運送に釘付けになった。次の日から○さんを軽運送について質問攻めにした。分かった事は○さんは2年前に会社を定年退職して軽運送の免許を取ってF通運の下請けとして働いている事、完全出来高制で荷物一個の配達料が200円、一日平均100個位配達するので月収は50万円位になると言う事、また、月収が定年前の倍以上になった事、そして、3ケ月前、高級車のクラウンを現金で買って奥さんと時々温泉に一泊旅行する事が楽しみだと言う事だった。「クラウンかすごいな!しかも現金で」当時流行ったコマーシャルに山村聡と吉永小百合が「いつかはクラウン」というのがあった、クラウンは庶民憧れの高級車だった。あのおじさんがクラウンかすごいなと僕は○さんを尊敬のまなざしで見た。
軽運送に関心を寄せる僕に○さんは軽運送共同組合の電話番号と所在地を教えてくれた。それから数日後僕は組合本部を訪ねた。一番知りたかった事は開業するのにどの位お金がかかるかと言う事だった。係の人は僕の質問に丁寧に答えてくれた。開業資金は陸運局での免許取得や手数料、組合費など合計35万円で開業できる、軽トラックは組合指定のメーカーの車をローンで買えばよいと言われた。そして、最後に「独り立ちするまでに組合から荷主さんは紹介しますが全ての仕事を組合に頼らないで下さい、もっと収入が欲しかったら自分で荷主さんを開拓して下さい」と言われた。この話を聞いて僕の目が輝いた、開業費の35万位ならある、車はローンでいいのなら簡単だ。荷主の開拓は僕の最も得意な営業分野だ。僕は申込書類一式を預かり足取り軽やかに家路に着いた。家内には○軽運送の○さんの事は詳しく話していた、そして、今日組合本部で聞いた事を全部話した。家内の目も輝いてきた「あんた、今度は成功しそうよ、あんたのお父さんは個人タクシーで貧乏から脱出してあんたを大学まだやったんよね、お父さんは人を運び、息子のあんたは荷物を運ぶ同じ個人経営よね、絶対いいと思う」。そして、僕は軽運送開業を決心した。僕が34歳の時である、30歳前半を越すまであと一年、この荒波の中からやっと脱出できると確信した瞬間でもあった。

丁稚どんのため息

2006-03-09 13:52:41 | 昭和
「出る釘」を打たれた僕はその後丁稚奉公に徹した、来る日も来る日も新日鉄構内の現場にドライバーやグラインダーの砥石などの配達に追われていた。そんな仕事に何の喜びも見出せずにいた。K無線時代に営業の一線で働いていた時に味わった達成感や満足感を懐かしく思い出していた。入社して半年頃から僕は次のステップを考えるようになった、転職するのではない、独立するのだ。独立開業や自己改革に関連する本や雑誌を読みあさった。しかし、独立にはある程度の資金が必須なのだ、融資を受けるにも不動産はおろか預貯金さえない、「これでは無理だ」といつもあきらめていた。このままこの会社に定年まで丁稚どんで勤めようか、多分それでは家の一軒も建てられずに僕は一生を終わってしまうに違いない。丁度この頃家内の兄弟連中はみんな自宅を新築していた。「4人兄弟の家内だけが転職を繰り返すだんなと一緒になったばかりに事業団APの2kの狭い箱の中に住んでいる」と家内の兄弟や小姑達が陰口をたたいていた。しかし、本当の事だから僕は反論する事も出来なかった。あがいても、あせっても今の生活から抜け出せない、それを思うといつも出るのはため息だけだった。そして、その年の秋も深まったある日、僕はある人に出会いその後の人生の方向転換を決める事になった。

再々就職は丁稚どん

2006-03-07 20:40:59 | 昭和
昭和57年の正月が明けて僕は昨年末就職が決まっていた市内の機械工具販売店に勤めることになった。2回目の就職先である。従業員は社長を含め総勢15名位のこじんまりした会社である。戦前から続く地元でも老舗の機械工具販売店だった。
主要得意先も当時の国鉄、新日鉄、そして大手建設会社と安定した経営状態の会社だった。僕は中途採用のハンデイを取り戻すため扱い商品の勉強を日夜怠らなかった。そして、商品知識が増え新日鉄の現場で得意の営業魂を発揮しながら納品業務に精を出していた。そんなある日、現場の掛長から「緊急納品」の見積もりと納期を依頼された、緊急納品とは金額に関係なく納期の最も早い業者が落札出来るのだ。品物はエンジン発電機、一台100万位する高額品だった。僕は近くの公衆電話から会社に電話して納期と価格を教えてもらった。そして、現場の掛長に納期と金額を伝えた。その翌日、資材課よりそのエンジン発電機落札決定の連絡が入った。「やった!初の大物受注だ」。そして、次の瞬間、上司のT課長から別室に僕は呼ばれた、僕は「これは大物受注に対するネギライと激励で僕は呼ばれたのだ」そう思って、部屋に入るなりT課長が血相を変えて言った。「おまえ、いつも朝礼でホウレンソウと言っているのを忘れたんか?」。ホウレンソウ、すなわちどんな事でも「報告・連絡・相談」を直属の上司にする事がこの会社の鉄則だったのだ。
「はい、電話をしたときにT課長や部長に連絡をしたらお二人ともゴルフで明後日しか連絡が取れないと言われたので、やむなく納期と価格を現場の掛長に言いました、価格に関係なく納期優先の見積もりだったのでそうしました」。すると、課長は「それがいかんのじゃ、この会社は昔からホウレンソウでやって来た、おまえのような個人プレイは今後許さんぞ」と僕は大目玉を食らい部屋を出た。
 この会社は戦前から続いた「番頭はんと丁稚どん」の古い商店の体質引き継いでいた。この世界では丁稚どんは番頭はんの使い走りや納品に徹しておればよいのだ。ましてや、丁稚が価格や納期を決めるなどタブーなのだ。僕のした行為はT番頭はんのプライドを著しく傷つけたのだった。入社3ヶ月で僕の営業意欲はそがれてしまった。早く、営業成績をあげ出世して所得を増やしたいと思っていた。それがこの会社では通用しないのだ。しかし、もう会社を辞める訳には行かない、二人の幼子を抱え、事業団APの息の詰まるような狭小住宅から一日も脱出したいと意気込んでいた僕にこの会社の社風は合わなかった。その後の僕は自分の仕事に情熱を燃やすことなく「丁稚どん」生活に甘んじていた。

いざ 北九州へ

2006-03-05 19:29:23 | 昭和
12月のボーナスをもらった僕は会社を辞めた。北九州で入社して木更津で退職した事になる。在職期間約一年半だった。もらったばかりのボーナスで僕は自家用車の車検を受けた。時々エンジンをかけたり手入れは怠らなかったので車は新車のようにきれいだった。この車で1200キロを一人で運転して帰るのだ。引越し荷物のトラックは近所のHさんのご主人が手配してくれた。ご主人の会社に千葉に荷物を運んで帰りは八幡まで空荷で帰るトラックがあるのでそのトラックの運転手に引越し荷物の運送を頼んでくれたのだ。運転手の日当程度のお金を渡すだけでいいと言う、まさに大助かりの引越しだった。木更津を離れる前の晩近所の人たちが送別会を開いてくれた。みんな北九州出身者ばかりだ、北九州に帰る事のできる僕にみんなの羨望の目を感じた。そうだ、みんなの故郷は北九州なのだ。帰りたいけど帰れないのだ、中には永住を決めて家を建てている人もいる。そして、「Tさん北九州に帰ったらまず何したい?」と聞かれたので「そうやね、まず生まれたばかりの子供を抱っこして、「唐そば」のラーメンを腹いっぱい食べたいね」。すると、「唐そば」食べたいの~」と黒崎出身のNさんが叫ぶと、みんなも「トンコツラーメン食べたい~」と叫んだ。夜の更けるのも忘れて北九州の事で話は尽きなかった。このよき隣人達のおかげで木更津での生活は忘れがたいいい思い出を残してくれた。そして、現在でも木更津時代の隣人達とは親交がある。
翌朝、僕ははるか1200キロかなたの北九州を目指して車をスタートさせた。途中雪で通行止めにあったりしながらも翌々日の深夜、僕の車は関門橋を通過して門司に入った「着いた!北九州に着いた」僕は車の中で声を上げた。やっぱり、北九州が一番いい、もう、「絶対に北九州を離れんぞ」と思った。昭和56年も残すところあと10日となっていた。北九州を離れて一年半後僕は北九州に戻って来たのだ。
 写真は君津市にある大型スーパー忠実屋の屋上から見た君津市内。