なすがままに

あくせく生きるのはもう沢山、何があってもゆっくり時の流れに身をまかせ、なすがままに生きよう。

木更津篇 3

2006-02-21 18:29:38 | 昭和
Y所長との確執の始まりは一枚の営業報告書だった。Y所長が北九州の本社で開かれる営業会議出席で出張中の出来事だった。その日の朝、コピーを取るためコピー機の圧板を開いたところ、取り忘れの原稿が一枚ガラスの上に残っていた。何気なくその紙に目をやると「営業報告書」だった、販売品名や金額欄に細かい数字が並んでいた、そして、最後の行に販売担当者名が記されていた。ところが僕の名前が一件も記されてないのだ、全て販売担当は「Y」の名前になっていた。確かに僕が現場に行き担当者に売り込みをし契約にこぎつけた見覚えのある製品名ばかりだ、この出張所には僕とY所長しかいない、Y所長は電気計測器とか記録計とか全くのチンプンカンプンの男である。彼の元には定期契約品や決まった消耗品の注文しかはいらない。金額にしてかなりの低額なのだ、僕がこの営業所に来て力を入れたのは計測器や記録計の売り込みだった。競争も激しいが一件契約すると数百万の契約金額になるのだ。僕の好きな製品分野だったので売り込みにも迫力がでてくる。その営業報告書の半分以上の販売担当は僕だったのだ。その僕の成果を彼は全て自分の手柄として本社に持って行ったのだ。今頃得意げな顔をしてみんなの前で営業報告をしているに違いない。「絶対許せん、あいつが帰ってきたら問い詰めてやる」。その翌々日彼は北九州から上機嫌で戻ってきた。「ほら!ひよこだ懐かしいやろ」とお土産も携えて帰ってきたのだ、「Y所長!話があるんですが」。普通の目つきではない僕の顔を見るY所長は同時に自分の机の上に営業報告書の原紙が置かれているのを見逃さなかった。たちまち、Y所長は目の色が変わり、「今帰ったばっかりで疲れた、話は週明けに聞く、わしは疲れた」と言って逃げるように帰って行った。肩すかしを食らった僕は明後日のY所長との決戦を待った。
   写真 木更津大橋から見る房総半島の青空 昭和57年

木更津篇 2

2006-02-20 14:22:27 | 昭和
千葉県木更津に転勤してそこでの生活に馴染むのに時間はかからなかった。僕は君津製鉄所の現場の人々と直ぐに親しくなった。君津製鉄所の社員達は殆どが北九州の出身者で占められていた、僕が新任の挨拶に行き「八幡から来ました、○○です」と名刺を手渡すと、「八幡はどこにおったと?、俺は枝光よ、もう何年も帰っとらん、なつかしいのー」と北九州弁で僕に握手を求めてくるのだ。どこの現場に行っても初対面から確実な人間関係が出来ているので僕の営業活動は思い通りに進んだ。金額の張る随時契約も取れて僕は入社一年未満とは思えないほど成績を上げていた。一方の家内も近所で「北九州デビュー」して近所の同年輩の奥さん達と楽しそうに過ごしていた。もう、北九州の事など忘れてしまっていた。そして、休みの日はお互いの家族同士でドライブしたり花見に行ったりそれは楽しい生活を送っていた。しかし、僕たちの家計は毎月火の車だった。物価が北九州より2割程高いのだ、給料は北九州で入社した時のままだから、実質的な給与ダウンと同じなのだ。食費を節約するため庭で野菜を栽培したり、新鮮な魚を手に入れるため僕は木更津港から出る乗り合い船で東京湾に魚釣りに出かけるようになった。釣り船の船長は確実に魚のいるポイントに案内してくれるので「坊主」は一度もなかった。真鯛、いさき、鯵と季節の魚をクーラーボックスいっぱいに詰め込んで帰ると、家内と近所の奥さん連中は総出で魚をさばくのだった。北九州なら鮮度のいい魚はどこの店でも手に入るがここ木更津では自分で釣りに行くしか方法がなかった。ヒマがタップリあってお金のない僕の休みは家庭菜園と時々の魚釣りが趣味と実益を兼ねた生活の一部になった。木更津での生活にだんだん馴染んだ頃、僕は将来の生活に不安を抱くようになった。第一の不安は給与の安さだった。会社が何故引越し費用を全額負担してまで僕をこの地に転勤させたのかその理由が分かったからである。この会社は現地で社員は採用しない、何故ならば給与の安さで応募は皆無なのだ、北九州で採用した人間を転勤で連れてくれば人件費は確実に安くなる。しかも、採用する条件は中途入社で小さな子供がいる事が条件だった。そうすれば、簡単に止めて北九州に帰るはずはないと会社はにらんでいたのだ。その話をしたのは、僕の上司でもある君津出張所々長でもあるY氏だった。当時50歳前のY氏は北九州でギャンブルで食い詰め乞食同然の所をこの会社に採用され木更津に転勤してきた人である。すると僕の十年後はこのY所長の後を継ぎこの地に永住するのかと思った。永住は出来ない僕は長男だ、親は如何する?と言う思いが脳裏をかすめた。それから、数ヵ月後僕はY所長との確執で苦悩の日を過ごす事になる。 次回
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人生の荒波 木更津篇

2006-02-18 09:19:28 | 昭和
転勤命令がおりて一ヶ月もしない11月下旬、僕達夫婦は3歳の娘の手を引いて木更津駅に降りた。転勤命令を受け入れたのは嫁さんだった。「ねえ、こんな経験めったに出来んよ、一度北九州を離れて遠くに住みたいと思ってたんよ、子供はまだ学校行ってないし、木更津に行こうよ」と嫁さんの方が積極的だったのだ。駅前に出て時計を見るとまだ4時前なのにあたりは暮れかかっていた、そうか「関東は日没が九州よりも1時間早いんだ」改めて「遠くに来たもんだ」と思った。みんなおなかが空いていたので駅前にあるうどん屋で夕食を食べる事にした。その時のうどんの味に僕と嫁さんは言葉を失った。醤油ベースのスープにぼそぼその麺、こんなうどん食えたもんじゃない。僕たちはうどんを半分以上残してその店を去った。空腹を満たすため次に向かったのはラーメン屋だった、「中華そば」とのれんが掛かっていた。その「中華そば」がまた醤油味だった。ねぎとメンマそして鳴門が数枚チャーシュウは入ってなかった。
物心付いた時から九州の豚骨ラーメンがラーメンだと思っていた。そんな九州人に関東の中華そばは絶対に受け入れる事の出来ない味だった。嫁さんは「がっかりやね、みんな醤油味ばっかり、食べ物がまずいとその町に住みたいと思わんよね」とため息交じりに嫁さんが言った。そのとおりである、初めて訪れた町で初めて食べた味があの味である、その町に住みたくないと思ったのは同じ気持ちだった。その時、黒崎で当たり前のように食べていた「唐そば」のラーメンの味を思い出した。そして、早く北九州に戻りたいと、転勤初日にして、すでに望郷の念に駆られたのだった。

再就職

2006-02-17 17:52:00 | 昭和
K無線を退職して約10ヶ月後僕は再就職した。「まだ、32歳の若さだから仕事はいくらでもある」と思っていたが現実は甘くはなかった。4社位面接に行ってやっと決まった会社は工業用の計測機器を販売する会社だった。新日鉄とその関連会社が主な得意先だった。オーデオとは全く別分野だが未知の機械を販売する事は苦にならなかった。流行などに左右されない安定した仕事だとその会社が気に入った。僕は取り扱い商品の資料を家に持ち帰って一生懸命勉強した。そして、新日鉄の現場をメーカーの営業マンと一緒に機器の売り込みに奔走した。溶鉱炉の炉心の温度を測る「熱電対」と記録計一式の契約を落札したのは入社3ヶ月目だった。僕はこの仕事なら定年まで続けられると確信した。給料は安かったがやりがいのある仕事だった。それに、朝9時始業の夕方5時終業そして週休2日は当たり前、夏、冬の長期休暇も魅力だった。連休などK無線の時は正月2日だけだった。休みに関しては破格の待遇だった。その頃、B電器に移籍した元K無線の同僚達は全員離職していた。僕の思っていた通りだった。元同僚達は一旦K無線を退職してわずかばかりの退職金を受け取り、B電器に新入社員として入社する事になった、つまり、給料も高卒の初任給になったのである。子供も一人や二人いる主が高卒初任給で生活が成り立つわけがない。一人辞め二人辞めて、それでも居残っている社員にB電器は遠隔地の転勤を命じたり全く違う職種に配置転換したのである。B電器はK無線の顧客名簿を手にいれオーデイオ販売のノウハウを学び30歳過ぎの元同僚達を全て追放したのである。B電器を離職した元同僚達はそれぞれ自分でオーデイオ店を開業するものが相次いだ、しかし、その結果は悲惨だった。衰退するオーデイオが以前のように売れるはずがなかった。開業して半年から一年以内に開業時の借金も返済出来ず夜逃げしたり暴力団の借金取立てに追われる結果となった。僕が数年前K無線の店長会議で「オーデイオブームは団塊の世代が所帯を持った事でブームが終焉します」と会議で発言した事が現実になったのである。それを予測せずに「音楽がある限りオーデイオも不滅」と思い込んでいた元同僚達の認識不足の結果である。一方の僕にも変化が起こりつつあった。その年の秋も深まった10月のある日社長から呼び出しが掛かった。その話は転勤である。転勤先は千葉県の木更津市、君津製鉄所のあるところである。
しかも、一ヶ月以内に転勤してくれと言われたのである。入社してまだ半年目の転勤話だった。              次回「木更津篇」へ続く

退職前夜 その1

2006-02-15 14:03:32 | 昭和
昭和55年夏僕は辞職願を提出した。K無線に新社長が就任して3ヶ月目の事だ。時を同じくしてやはり辞表を提出した同僚が他に2名いた、M社員とY社員だった。会社は退職していく僕たち3名のために小倉本店近くの小料理屋で送別会を開いてくれた。酒宴もたけなわになるに従って、僕たち退職組の座っている上座が周りと雰囲気が合わなくなってきだした。僕たち3名を除いてその席にいる全社員がB電気に移籍する事が決定しているのだ、僕たち3名の退職組と話が合うわけがなかった。みんな、九州最大の大型電気専門店の社員になれる事を誇りに思っていた、当然経済的及び将来的にも明るい希望を持っていた。僕たち3人は「負け組」の席にいたのである。僕たちは3人はお互いに黙々と杯を交し合った。早く、この座から逃げ帰りたい気持ちだった。その夜どのようにして家まで帰ったのか覚えてないほど泥酔いして帰った僕は次の朝いつものように目がさめた。そして、仕事に行くために身支度をしている時に家内の言葉に動作が止まった「あんた、もう会社を止めたんやろ、着替えてどこに行くん?」。「あっ そうやったの。習慣ちゃ恐ろしいの」と言って僕は普段着に着替えた。そして、頭の中が空っぽになっているのに気が付いた。退職後第一日目の感想である。さて、これから何をしようか、次の就職先などまだ探す気はない、失業保険とこれまでの蓄えで2年位位は楽に生活出来るだけのお金は持っていたので。経済的な心配はなかった。ただ、心に中にオーデイオの商売から引退した事の寂しさはいつまでも消えなかった。やはり、オーデイオが好きだったのだと思った。その後黒崎のK無線はB電気オーデイオ館に改装され元同僚達は何事もなかったように楽しく仕事をしているように見えた。 続く

老人とさぎ

2006-02-13 14:19:36 | 昭和
久しぶりの快晴に恵まれ昨日の日曜日金山川を歩いた、このところ天候不順だったので一週間ぶりのウオーキングになった。頬を刺すような冷たい風が吹いていたが澄み切った青空の下でのウオーキングは格別に気持ちがよい。川べりに作られたウッドデッキの階段の下でフナを釣っている老人が一人いた。じっとさお先の浮きを見つめている、そして、彼の後ろではさぎが同じように竿先を見ている。実はこのさぎは釣り人の傍らで魚が釣れるのを待っているのだ。そして、釣れた魚はさぎがもらえるのだ。この川辺に生息するさぎは釣り人を見かけると釣れた魚をもらえる事を学習しているのだ。人に対しての警戒心もない、ウオーキングする人達もさぎに危害を加える人もない。さぎにとってこの川は安全な場所なのだ。今日はこの間買ったばかりのポケデジを持っていたのでフナ釣り老人と背後から見守るさぎとのツーショットをねらってみた。実にほほえましい光景の写真が撮れた。

10年ごとの節目

2006-02-12 10:06:42 | 昭和
僕には10年ごとに人生の節目が訪れている。自分で節目を作っているわけでもなく偶然でもない。確かに10年ごとに人生の転機が訪れている。その第一の節目は僕が27歳、1976年すなわちK無線の店長を拝命して久留米に移動した年、この年に僕は今の嫁さんと結婚した年でもある。それから、10年後、K無線倒産後職を転々とし現在の事業を興した年、すなわち1986年僕が37歳の時だ。さらに10年後、寝食を忘れてとに角働いた、その結果マイホームを建てたのが1996年僕が47歳の時である。27歳で家庭を持ち以後10年おきに人生の節目を経験している。その節目も不幸な節目ではない人生の飛躍となる出来事だった。そして、自宅を新築して10年後の今年、2006年の節目はどうなんだと言われるともう、確定している。それは、現在の事業所を移転することが決定したのだ。現在の事業所は賃貸で毎月24万払っている、それに立地条件もよくない、そんな場所に毎月24万の家賃は高すぎると常に思っていた、いつかは自己所有の店舗を構えたいと思っていた。一昨年遠賀のYタウン前の土地が売りに出た、直ぐに契約してその土地の所有権移転をすませた。今年の春からその土地に店舗や事務所の建設に入る事が決定した、先週末工事資金の融資申し込みにOKがでた。まさに20年目の移転である。この30年間を振り返ってみると10年ごとの節目が正確に刻まれている。何故、10年おきにこのような節目が刻まれているのか分からない。何か運命的なものを感じる。それでは今から10年後の節目はどうなんだ?と問われると「一つだけ決まっています、国金から融資を受けた今回の事業資金の毎月の支払い15万が完済する年」なんです。だから、今から10年後の節目もいい事なんです。結婚した年に占いで見てもらった時に言われた「あなたは30才前半でものすごい荒波にもまれます、だが、その後運勢は上昇し晩年財をなします。その時の占いの人が書いてくれた紙を今でも大事に持っている。いつかは良くなると信じて生きてきた、人は夢や願望を忘れたらだめだ。10年ごとの節目は神様が僕にくれたご褒美なのかもしれない。

予算消化工事

2006-02-10 21:21:58 | 昭和
昨日、同業者4人と僕の車で山陰の山奥にある温泉、平田温泉に日帰りで行った。毎年恒例の新年会だ。コースは都市高速から関門橋を通って川棚方面への快適なドライブのはずだった。ところが都市高速の紫川を過ぎて関門橋付近まで道路工事の連続だった。普通でも広くもない道路の半分をコンクリートパネルで区切って舗装工事をしていた。道幅が狭いのでスピードを出す事は出来ない、普通は80キロ位で通過する道路だが60㌔だと恐さを感じる。前を走る大型トラックなど40キロしか出してない。僕は思った、何故年度末に一斉に道路工事をするのか、年度末だから予算を全部使いきってしまうお役所の仕事なのだ。予算があまれば翌年に繰り越せばいいじゃないか。昨日の片道70キロ、時間にして1時間半のドライブは軽く2時間を越えた、温泉に入り食事をして帰りの渋滞を予測して温泉旅館を早めに出た。下関市内も北九州市内もいたるところで工事中。まだまだ役所の税金の無駄使いは続いている。僕の自宅近くの県道も一週間前から道路工事を始めている。日本全国の道路が今工事中なのだろう、その工事の全費用はとてつもない金額になるはずだ。しかし、昨日の日帰り温泉ツアー疲れました、僕的には本城のおとぎの杜の日帰り個室パックプランが一番いいと思ったのでありました。年度末のドライブは工事渋滞にご注意。

衝動買い

2006-02-08 14:14:48 | 昭和
昨日カメラのキタムラにデジカメのバッテリーを買いに行った。商品を買って店内のカメラを見ていたら、「店頭品限り 49800円が24000円」というデジカメを発見した。カシオのポケデジだ厚さは10ミリ位、手のひらにすっぽりはいる、500万画素で3倍ズーム、それに手振れ補正まで付いていた。おまけに液晶モニターが今もっているキャノンの倍くらいある。何枚か試し撮りして「これだ!決めた」。そして直ぐに買って帰った。いつもの衝動買いである。ポケデジはソニー、キャノン、ニコンと3台持っている、その中でも本日のカシオが一番優れている、電源オンですぐに撮影待機状態なのがいい、手のひらサイズで邪魔にならないこんなポケデジを待っていたのだ。何故安かったかと言うと今度モデルチェンジするから安いのだと言う。デジカメはその性能を追求したらキリがない、デジカメの世界で新旧の差など関係ない。要するに使いやすい、軽い事がポケデジの条件なのだ。半額以下で新しいデジカメを買えるとは思っていなかった。時々はカメラ店にも行くべきだ、そして衝動買いの快感を味わうのも悪くない。

大荒れ天気

2006-02-07 13:29:53 | 昭和
昨日から大荒れの天気が続いている、昨日は雪が降り、今日は雨まじりの強風が吹いている。こんな天気の日は外で運動が出来ない、かと行ってジムでゴムベルトの上や偽自転車で運動する気になれない。だから、昨日も今日も書斎にこもって写真の取り込みやDVDに撮り貯めた映画をダビングしている、毎年この時期は年間で最も暇な時期だから昼間は自宅でのんびり過ごしている。春の到来が待ち遠しい。一昨日の日曜日は天気が良かったので金山川を早足で歩いた、桜の枝に小さな蕾が顔をのぞかせていた。この寒さを越せば春が来る。僕がいつも利用しているガソリンスタンドの隣に「春来瑠」という韓国料理の店がある、冬がきても夏が来ても「春くる」だ。以前家族と食べに行った、焼肉の店ではなく韓式料理の店だがなかなかいい味だった。部屋の暖房が効いて眠い、マトマリのないブログになってしまった。