なすがままに

あくせく生きるのはもう沢山、何があってもゆっくり時の流れに身をまかせ、なすがままに生きよう。

細木数子の今年の運勢

2006-01-30 21:42:49 | 昭和
細木数子のホリエモン占いが大外れ
 正月特番に出まくった細木数子が窮地に陥っているライブドア堀江貴文社長を占ったが、ことごとく外れていた。「幸せって何だっけ」(フジテレビ)のSPではホリエモンを「日本を変える良い魂と腹を持っている」などと持ち上げ、「新規事業をぶちかませる」と語った。ライブドアの危機にはまったく触れていなかった(ゲンダイ)。それどころかライブドアの株価は5倍になるとまで細木先生はぶちかました。しかしそれから2週間もしないうちにホリエモン逮捕である。全て、はずれた占いである。そして、追い討ちをかけるように実弟が昨日詐欺容疑で逮捕されている。年明けそうそう大ピンチの細木先生だ。何と説明するのだろうか?自分自身の運勢が年明けに急変することを占えなかったのだろうか。株価が5倍になると言ってライブドア株に飛びついて大損している人も沢山いたのだろう。その人達の怒りは細木先生に向けられているに違いない。さっき、テレビで2006年今年の占い30師の特集をやっていた、彼女の出番はなかった、ホリエモン騒動後カットされたのだろう。あの毒舌の細木先生の弁明を聞きたいものだ。「あんた、そう言う事言うのおよしない!全部当たる占いなんてある訳ないじゃん!」と言いそうな気がした。

ホームセンターナカイ消滅

2006-01-28 14:40:12 | 昭和
折尾大膳にあったホームセンターナカイの建物が全て撤去された。昨年閉鎖して取り壊し作業をしていたが昨日3号線を通過した時いつもと景色が違うのに違和感を覚えた。あの大きな建物が無くなって広い敷地の向こうには今まで見えなかった小高い山が見える。なにかいいようのないさみしさを覚えた。今から25年位前、ナカイは北九州一のホームセンターとして繁盛していた。その後、ナフコやグッデイの進出によりナカイはそのシェアーを落としついに折尾からナカイが消えた。本城にもナカイはあるが店内は閑散としている。ナカイの店は3号線沿いにある、僕は国道沿いの店故に客足が遠のいたのだと思う。つまり、車の出入りに時間がかかるのだ、一日の車の通行台数は6万台とも言われる3号線沿いの店から国道を左右折するのにものすごい時間がかかる。ホームセンターがナカイしかなかった頃はそれでもナカイを利用した、しかし、グッデイが陣の原、中間など車の出入りがしやすい場所に開店すると、どうしてもハンドルがそちらに向かってしまう。折尾のナカイの近所にあった松伯園グランドホテルも閉鎖した、その斜め前にあったベスト電器コンピュウータ館も閉鎖した。その隣の長崎チャンポンも閉鎖してしまった。パソコン用品を買うときはよく利用していたが車で行くのが億劫になる場所だった。その後永犬丸に出来たデオデオばかり利用するようになった。車の通行台数の多すぎるロードサイドの大型店舗は閉鎖して他の場所に移転している。ナカイの閉鎖はホームセンターの将来に陰りが出てきた事ではない、ますます増加する車の通過台数に負けたのだ。商業施設として国道沿いや駅前の立地がもてはやされたのはもう古い時代の話である。

ホリエモン奈落へ

2006-01-24 11:04:53 | 昭和
昨夜のホリエモン逮捕の一報からテレビ各局が一斉に特番を組んでライブドアとホリエモンの事を報じていた。ホリエモン全盛の頃はマスコミは彼をよいしょして視聴率を上げた、昨夏の自民党の広島6区での自民党のフィーバーぶりはまだ記憶に新しい。それが新年そうそう奈落の底に落ちた。奈落とは「舞台の花道の下」とある。昨日まで華やかな舞台で脚光と浴び、喝采を浴びた「ホリエモン」は突然奈落の底に落ちた。マスコミや評論家はこぞって彼を批判している。多分、ライブドアはもう立ち上がれないだろう。しかし、堀江社長は東大に入学し、実業家として成功した時の人である。東大に入ったらみな官僚になり定年後も天下りで税金を食い尽くすコースを選ぶのだが彼は自分の頭で稼ぐ事を考え実行した。ここがホリエモンを支持する人達の理由のひとつでもある。実は僕も官僚の道を選ばず己の道を選んだ彼にエールを送った一人であった。しかし、彼の舞台は「砂上の楼閣」だった。張りぼてで大きくなった会社はもろいものである。昨夜収監された拘置所の部屋の温度は零下2度だという。多分一睡も出来なかったであろう、企業家として成功の道を歩んだこの10年の栄華が脳裏をかすめたに違いない。人間欲張りすぎると不幸になる、そう、ほどほどが一番いいのです。

その後のM君最終回

2006-01-21 14:15:25 | 昭和
M君の寸借詐欺事件から10年後僕はK無線が倒産したあと転職を何度か繰り返し現在の事業を起こした年すなわち昭和61年のある日、新聞の記事に目が釘付けになった「無資格不動産屋老女から手付け金500万搾取 逮捕」、その犯人は紛れもなくM君だった、以前風のたよりにM君が福岡で不動産屋を始めた事は聞いていた。僕はあれから彼が宅建の免許を取って不動産屋を開業したのだと思っていた。新聞によると架空の土地売買を老女に持ちかけ手付金500万円をだましとった書いていた。寸借詐欺から始まってついに警察に逮捕されたのだ。僕の知人とか身内の者が犯罪を犯して警察に逮捕されたのはM君だけである。「あーこれでM君の人生はおしまいだな」と僕は思った。僕の記憶は学生時代にもどった、M君がエキストラ出演した映画「トラトラトラ」が劇場公開された日僕達はみんなで映画を見に行ったのだ。M君が最敬礼して艦上を離陸する零戦を見送るシーンが見たかったのである、M君の言によると「俺の顔がアップで映っているはずや」のはずだった。しかし、ラストまでM君のシーンは映し出されなかった。確かに撮影はされたのだろうがフイルム編集の段階で「カット」されたのだ。俳優夢見て上京してからM君のその後の人生そのものが「カット」されたような気がしてならない。彼が一番輝いていたのは学生時代だけだった。卒業後の人生は「カット」だらけの人生だった。そして、M君の最期を聞いたのは昨年春だった。彼の妹と街ですれ違ったのだ、M君の妹は開口一番「兄が色々迷惑を掛けたそうですみませんでした、兄は一年前ガンでなくなりました」。そして「兄は学生時代のあなたに迷惑をかけてすまないと言っておりました、友達を裏切った事が心残りだったのだと思います。どうか、兄を許してください」。その話を聞いて僕はM君の事が急にいとおしくなった、「そうか、死の床にありながら僕の事を思っていてくれたのか」そして、明るく光輝いていた学生時代の僕達の姿が思い出された。芦屋の海岸に作られた巨大な軍艦の甲板上で空を仰ぎながら最敬礼する軍服姿の凛々しい彼の姿が脳裏に浮かんだ。映画のスクリーンには映らなかったけど僕の心にはしっかり映っている。M君さよなら、やすらかに・・・。

その後のM君 その2

2006-01-20 16:29:39 | 昭和
M君と再会したのは昭和51年の7月の暑い日だった。当時僕が久留米のK無線の店長をしていた時の事である。うだるような暑さの中スーツにネクタイをビシッと着たM君が店に来た。大きなスーツケースを携えて彼は店の中に入ってくるなり僕の姿を見つけ「おう、久しぶりやのう」と僕に近づいてきた。「アッ!M君やないか、本当久しぶりやな、今何しようと?」。「お前が久留米のK無線におると聞いてちょっと寄ってみたとよ、俺ネクタイの訪問販売で会社や役場を回ってネクタイを売りよるんよ」。彼が携えてきた大きなスーツケースの中にはネクタイが隙間なくぶら下がっていた。ちょうど昼ごはん前だったので僕は彼を近所の喫茶店に誘った。昼ごはんを食べながら、M君は東京から北九州に戻ってからの近況を話はじめた。それによるとM君はすでに7歳と5歳の2女の父親になっていた。建材問屋の営業を皮きりに百科事典のセールスや保険の外交など職を転々としていた。最近福岡市内にあるネクタイメーカーのセールスになりまあまあの収入になっているのだと言った。彼の持って来たネクタイを僕も数本買い、従業員やメーカーの営業マンにも買ってもらった。僕のところだけで10本は売れた。その売り上げの3割が彼の収入になるらしい。そして、彼は帰る間際に僕に小声で言った。「すまんけど 3万円貸してくれんかのう、実は今日久留米市内の○○商店に売掛金を集金に行ったら本人が休みで集金できんやったと、会社には今日中に入金せんといかんし困っとうと」「エッ3万円もか、俺今持ち合わせがないよ」すると彼は頼むと両手を合わせるではないか。仕方なく僕は事務の女の子に言って仮払いの伝票を書いて店のレジから3万円借りて彼に手渡した。彼は顔をほころばせながら「久留米には月一回来よるけ、来月来たときに必ず返しに来るけ ありがとう」と言ってM君は店を出ていった。一月以上経過してもM君から連絡がなかったので僕は彼からもらった名刺の電話番号を回した。すると電話に出た女性からM君が先月退職したと告げられた。電話した目的を述べると元M君の上司と言う男性が電話口にでた。「実はMは、お得意さんのところで寸借詐欺働く常習犯でした、会社の商品は転売したりして先月行方をくらましました、自宅は空家になっており今どこにいるのかわかりません、本当に困りました」。「そうでしたか、分かりましたお忙しいところありがとうございました」と言って僕は電話を切った。僕が人に裏切られた初めての経験だった。全身の力が抜けて、いいようのないさみしさがこみ上げてきた。
 その後のM君最終回へ

すべて「想定内」

2006-01-17 18:10:20 | 昭和
今日は大きな出来事が重なった。阪神淡路大震災11年目の夜明け前の追悼式典は想定内、ライブドアの株不正取引も早朝7時からのホリエモンの会見で想定内とみた。ライブドア株が急落してストップ安になった。これも、想定内。地道に物を作ったり売ったりしていない会社はもろいものだと思った。次に午後2時前から始まったヒューザー 小嶋社長の国会証人喚問を最後まで見た。切り込みの何と甘いことか、そして、補佐に進言を仰ぎ、肝心の所は全て証言拒否。結局なんの成果も見出せない証人喚問だった。後味の悪さとテレビに釘付けになった時間がもったいないことをした。しかし、関連した国会議員の名前に阿部官房長官の名前が出たのには驚いた。やはり、ここにも政治家の暗躍ぶりが感じられた。今日の出来事は全て「想定内」だ、いやもう一つあった、「宮崎勤被告死刑」。こいつまだ生きていたのか!17年間の消える事のない遺族の悲しみを思うと死刑判決これも想定内と言うか「当たり前」。と言うわけで今日の休みは、テレビの前に一日中いた、休みの日にテレビ漬けとはこれだけは「想定外」だった。

その後のM君 1

2006-01-10 15:58:53 | 昭和
大学を3月に卒業したM君はその翌月には井筒屋のバイト時代から付き合っていたN子と結婚式を挙げた。M君22歳の時である。すでに東京でアパートを借り、所帯道具も九州から送っていた二人は東京で新婚生活をスタートする事になった。彼女の方は井筒屋時代の取引先の東京本社での就職も決まっていた。井筒屋の経理事務の経歴と算盤の腕前が再就職の強い味方になった。M君は俳優養成所に通いながら俳優目指して頑張っていた。一見波穏やかに船出したかのような二人に荒波が襲って来た。それはM君の浮気だった、俳優養成所の近くにある俳優の卵達が集まるスナックの女性と浮気が発覚したのだ、しかも、M君の奥さんが出産のため九州の実家に帰っている時の出来事だった。生まれたばかりの赤子を抱いてアパートのドアを開けると見ず知らずの女性がM君と同じ布団に寝ていたのだから、奥さんの驚愕ぶりはどんなだっただろう。出産と育児で会社を辞めた奥さんの代わりに、M君は東京で水商売の仕事に就いた、昼間は養成所に通い夕方は酔客相手に明け方までする仕事は新婚の二人を経済的に、肉体的にも窮地に追い詰めた。そんな二人が幼子の手を引いて北九州に帰って来たのは上京して3年の月日が流れていた。夢破れて山河ありの心境だったはずだ。一方の僕はぐうたらな学生生活を終わりK無線に就職してオーディオに囲まれて毎日目を輝かせながら仕事をしていた。

トラ トラ トラのM君

2006-01-07 12:11:54 | 昭和
昨年末にトラトラにエキストラ出演したM君の事を書いた。実はその時トラトラのレンタルDVDを予約していた、その映画を見てから続編を書こうと思っていた。そのDVDが年末ギリギリに到着した。映画出演したM君は仲間うちではスター気取りだった。ちょっと背が高く、俳優の田村正和似の風貌で女の子にはよくもてていた。M君は軍艦上での撮影の時「カメラが俺の前で止まって最敬礼している姿を長い時間撮られた」と皆に吹聴していた。「おう、最敬礼はどうやってするんか?」と僕達が聞いたら、M君は立ち上がって「こうするんや」と背筋を真っ直ぐ伸ばし右手を斜め45度に構えて顔にピタリとつけた。なるほど、元海軍の人から演技指導を受けただけあって、その最敬礼にはその場の空気を引き締めるような効果があった。映画の撮影中の食事はエキストラも撮影スタッフや俳優も一緒にロケ弁を食べたそうだ。撮影スタッフが泊まっている旅館の仕出し弁当の話に僕達はよだれが出そうだった。トラトラの主演俳優「山村 聡」や「三橋達也」と話を交わした事などを聞いて僕はM君を羨ましく思った。「こいつ、学生時代にいい経験したな、俺も坊主頭になってでも経験すべきだったな」と後悔したものである。そして、M君の坊主頭に髪の毛が増えた頃、M君は将来俳優を目指すようになった。そのため大学を卒業したら上京してアルバイトをしながら俳優養成所か劇団に入るつもりだと僕に打ち明けた。僕は言った「お前なら背も高いし顔もまあまあやし、俳優でもやっていけるかも知れんぞ、高倉健も中間出身やし、頑張れよ!」と僕は激励した。その頃の僕は学校の授業をサボりだし、博多駅バスセンターからのバスを途中下車して天神界隈の喫茶店やパチンコ屋に友達一同で入り浸っていた。お金がなくなったらアルバイトして又遊ぶ、そんな生活を送っていた、一方のM君はそんな僕達の生活とは無縁だった。熱心に講義を受け井筒屋で知り合った彼女とすでに婚約も決め、俳優を夢見て充実した学生生活を送っていた。「人は人生に具体的な目標があるとここまで変わるのか」と僕はM君の映画エキストラ出演後の変貌ぶりに驚いた。それに比べ僕は全くぐうたらな学生生活を送っていた、アルバイトで明け暮れ酒におぼれ飲み屋の女の部屋に入り浸る生活が続いていた。今考えると「五木寛之の青春の門」の「伊吹信介」の学生時代の生活と重なるところがあった。しかし、4年間の学生生活はあっと言う間に過ぎ去ろうとしていた。その後のM君の人生は次回へ。

昭和が去って18年

2006-01-02 11:11:47 | 昭和
新しい年があけて、平成18年に暦が変わった。つまり、昭和が終わって18年経った事になる。昨年は年末ギリギリまで忙しかった、景気回復がまんざら嘘でもないような売り上げだった。大晦日の夜は10時過ぎに寝てしまい、元旦は9時頃まで寝て昨夜の残り物を食べてソファーでテレビを見ていたら強烈な眠気が襲ってきてそのまま爆睡する。「我が家の毎年の恒例行事・寝正月」である。正月料理や三社参りなどこの数年行った事がない、12月に無休で仕事して我が痛んだ心身を癒すには「食べて・飲んでそして寝ること」しかない。そして、明日からはまた仕事だ。しかし、正月が終わったらやっとゆっくり出来る、おとぎの杜に行って散髪もしたいし、温泉に浸かって「おとぎ御膳(1050円)を食べて擬似温泉旅行にも行こう。近所の人が昨日お伽の杜に行ってきたそうだが、人が多すぎてすぐ帰ってきたそうだ「あんなとこ、正月や日祭日にいくもんじゃありませんよ」とおとぎの杜ファンとしてアドバイスしておいた。
 おだやかに明けた新年、このままおだやかに暮れて欲しいものだ。今年も皆様のご多幸をお祈り申し上げます。 新年おめでとうございます。