なすがままに

あくせく生きるのはもう沢山、何があってもゆっくり時の流れに身をまかせ、なすがままに生きよう。

青空が欲しい

2007-05-27 16:39:11 | 昭和
今年の春先からすっきり晴れ渡った青空にお目にかかった記憶がない。例年5月の連休が終われば山々を覆う新緑と5月晴れの青空が今年は見れない。中国の黄砂のせいで北部九州は連日白っぽい霞の空模様が続いている。こんな天気だからカメラを手に外出などする気も起きない。一体中国の黄砂対策はどうなっているのだろうか?本日は北九州の小学校では運動会が光化学スモッグで中止に追い込まれた。黄砂の中に含まれる有害物質は人の気管支や目をいためると言う。この黄砂の量は年々ひどくなっている、これまでは春先のある一時期の現象だったがこれからは季節に関係なく近隣諸国を覆い尽くすらしい。困ったものだ、40年前の北九州名物の7色のばい煙に戻ってしまうのか。中国政府は自国の出す公害が近隣諸国にどれだけの被害を与えているのか分かっているのだろうか、公害防止技術世界一の大先輩日本に教えを請うべきではないのか、いつまでも靖国参拝にこだわってはいけない、60数年前の靖国問題と公害流失問題のどちらが大事が言うまでもなかろう。

折尾・新市場物語 Ⅳ

2007-05-22 17:23:37 | 昭和
折尾・新市場は現在も営業しているが営業しているテナントは最盛期の半分位の数である。周辺に市場は何件かあったが火事で消失したり、営業を自主廃業したため現在は新市場とその数軒となりの市場だけが残った。残ったとは言っても市場内のテナントは半分がシャッターが降りている。では、折尾の将来はどうなるのであろうか?その答えは北九州市の折尾再開発のHPの中にあった、折尾の発展を阻んでいた道路の狭さと筑豊線の踏み切りである。道路を拡幅して、さらに折尾駅からの若松方面の踏み切りを高架にしようと言うものだ。そうなると、新市場もその拡幅工事にかかるはずだ、そうなると市場が立ち退きもしくは市場の廃業かを選択しなければならない。新市場の地権者によると老朽化が進み建物の修繕費が家賃収入を圧迫しているという多分拡幅工事前に廃業の可能性大である。あと数年後には市場や駅前の景観は様変わりすることだろう、その前に現在の折尾駅周辺の写真を撮りためておくつもりだ。
 折尾再開発のHPです。http://www.city.kitakyushu.jp/pcp_portal/PortalServlet;jsessionid=22390140B62FD8DB68173F5CCFEED566?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=6302
 

折尾・新市場物語Ⅲ

2007-05-22 08:26:58 | 昭和
折尾新市場が無敵を誇ったのは昭和50年半ば位までだったろうか。その頃から郊外型大型SCが出現し始めた。しかし、戦艦「新市場」の店主達は「交通の便の悪いあんな場所で商売が成り立つ訳がない」とたかをくくっていた。駅前と言う立地は商売上の最高の条件だったからだ。しかし、広大な郊外の敷地にあるSCはモータリゼーションの普及と共に折尾の町からお客を吸い寄せていってしまった。年々売上げは下降を続けあの折尾の新市場のみならず周辺の商店主たちも商売から撤退するものが相次いだ。昭和が終わり、平成の時代に変わってからも折尾の衰退を誰も止める事は出来なかった。NTT折尾支店の閉鎖、スーパーマルキョウの撤退、また折尾郵便局の本局移転などが折尾の衰退に拍車をかけた。M商店のMさんから折尾新市場の最盛期の話を聞いたのは平成9年頃である。「ワシの店の一日の売上げが30万円を割る事になったら、もう商売はやめるっちゃ」と言っていた彼の店の売上げはその頃一日3万円を切るようになっていた。新市場全盛期の頃の話をする時のMさんの目は輝いていた。それは、気力と体力に満ち溢れ毎日商売をする喜びに満ち溢れていた頃の彼の残像と重なってくるからにほかならないからだろう。
 そんなMさんが体調不良を訴えて病院を訪れた、診断は肺ガンだった。即入院したものの回復する事なく一ヶ月後のこの世を去った。享年65歳。Mさんを見舞った時「今年から年金がもらえるので後は家内と時々温泉に行きノンビリすごそうと思っている」と言う話が最期の会話となってしまった。平成9年6月の事である。

折尾・新市場物語 Ⅱ

2007-05-20 10:52:22 | 昭和
漬物の原材料は季節の野菜、塩、昆布そして漬物樽に漬物石たったこれだけである。添加物などない時代だけにかなり美味しい漬物と思われるが保存性を考慮して塩味はかなり濃い味になっていた。しかし、塩気が効いて入るほうがご飯にはよくあっていたし何より炭鉱労働者の多い町なので塩気の効いた漬物は喜ばれた。
 M商店のMさんは毎朝夜明け前から青果市場に行き白菜やキュウリなど漬物の材料をダイハツミゼットの荷台に積み上げて店に帰ってくるのが朝一番の仕事だった。漬物の材料になる野菜は2級品でよかった漬物に加工すると鮮度などあまり関係なかったらしい、そのぶん安く原料を仕入れる事が出来たのである。だから、売上げに占める原価はわずかなものだった。しかし、漬物の加工は大変な仕事だった、仕入れてきた野菜の水洗い、そして大きな樽に野菜と昆布を交互につみかさねて重い重石を載せる作業はかなりの重労働だったらしい。当時の漬物屋の殆どの人が腰痛に悩まされていたという。実際、Mさん夫婦は現役を引退してからも整形外科通いは続いた。
 夫婦で商売を始めた時は市場の2階で寝起きしていたがそれから3年位で市場の近くにMさんは豪邸を建てた、しかも鉄筋コンクリートの2階建ての家を建てたものだから回りの人からは羨望のまなざしで見られたと言う。
 その話を聞いた時僕はMさんに問うた。
「Mさん 一体どの位の売上げがあったんですか?」
Mさんは答えた「信じてもらえんやろうけど、年末3日の売上げは毎日100万を切った事はないよ」
僕は絶句した、昭和30年前半には金持ちの事を「100万長者」と言っていた時代だ、それが年末の一日の売上げが毎日100万!。昭和30年前半のサラリーマンの初任給は1万円前後である。一日の売上げが100万円!だから、豪邸を現金で建てられたのだ。
「それは年末の売上げでしょう、通常の売上げは毎日どの位あったのですか?」と聞くとMさんは答えた「そうやね、一番暇な月で平均して一日30万くらいかな、その頃女房と話したことやけど、もし売上げが一日30万切るようになったらこの商売はやめるとね」。実はMさんには黒崎に兄がいた、この兄も黒崎の市場で同じ漬物屋を経営していた。この兄は弟よりもまだ儲けていた、黒崎にビルを建てて貸しビルも始めたのだ。折尾の弟よりも黒崎の兄の方が莫大な利益を得ていた。
 この漬物2兄弟は金持ちになったにも関わらず質素な生活をしていた、節約出来る所は節約し従業員の冠婚葬祭にはお金を惜しまなかったと言う。
 Mさんの話を聞いて、昭和30年代の食生活がMさんをのし上げたのだと思った。大型スーパーなど全くない時代、店頭に品物を置くだけで飛ぶように売れた時代、現在の流通に携わる者から見れば「夢の時代」に思える。そして、そんな「夢の時代」をすごしていい生活を送る事の出来たMさんをうらやましいと思った。

折尾・新市場物語

2007-05-19 21:35:06 | 昭和
折尾駅前のガードをくぐるとと「新市場」がある。この市場は昭和30年のはじめに造られ今でも営業している折尾では庶民の台所だった市場である。この市場で商売を始め平成9年まで約40年近く営業していたある商店のオーナーの話を元に「新市場物語」の話を起していきたい。
 彼の店はM商店といい、漬物の製造販売の店である。昭和30年代の食卓にはご飯と味噌汁そして大きな器に盛られた漬物が食卓を占めていた、時には魚や野菜の煮物が並ぶこともあったが、肉やフライが食卓に並ぶのは昭和30年後半からである。昭和30年前半の食生活は漬物をおかず代わりにご飯を何杯もお代わりしたものである。白菜、キュウリやナスの床漬けを見るといまでも炊きたてのご飯をおかずなしで食べる事が出来るのは団塊の世代の特技ではないだろうか。なつかしい昭和30年代の漬物屋さんの話と当時の食卓をネタに次回に続きます。

再び伝右衛門邸へ

2007-05-15 20:21:14 | 昭和
昨日家族を伴って伝右衛門邸を訪れた。義父に見せる事が目的だった。義父の言によると戦前、特別賞与を大正鉱業のオーナーである「伊藤伝右衛門」から直接受け取った事があるらしい。今から70年位前の話であうか。炭鉱全盛時代の頃、特別技能を持った職工(義父は電気技師)の引き抜きを恐れて給料以外の特別の報酬を与えていたと言うのだ。
 昨日は人混みをさけて午後2時に邸宅に到着した、前回よりも気持ちだけ人出が少ないかなと言う感じだったが白蓮の部屋と別邸の白蓮館は相変わらず人垣が出来ていた。やはり、政略結婚の犠牲者「白蓮」としてのイメージが昔も今も強いのだろうか白蓮人気は伝右衛門邸公開で再び火がついたようである。しかし、この伊藤邸のよさは殆ど手を加えずそのまま公開しているのがすばらしい、100年の月日の経過が板張りや襖にそのまま刻まれている。かっては金箔が張られていた襖は黒ずんでいたり、台所の板張りのススなどがその当時を連想させてくれる。
 伝右衛門邸の斜め前に折尾のかしわ飯の販売店が出来ていた、しかもドライブスルーである。炭鉱にはかしわ飯があう。

みんな中国のせいだ

2007-05-11 22:10:30 | 昭和
この数日自転車で昇り坂を上るとき気管支の一部がむせると言うか熱があるような症状になった。また、ウオーキングで早足歩きで心拍数が上がった時にも同じ症状になった。その時頭をよぎったのが「もしかしたら、変な病気になったのか、肺がんの前兆なのか」と不安が頭をかすめた。しかし、自転車を降りたりウオーキングを終わった時はそのような症状は全て消えている。そして、今朝の自転車通勤では昇り坂で息苦しくなる事はなかった。息苦しさの原因は中国からの汚染大気が九州北部を覆ったからだ、数日前から出ていた「光化学スモッグ」が原因だったのだ。「また、中国か!」この国は経済発展で重化学工業がフル操業しているらしい、北京オリンピックを控えて大気汚染はさらに加速しているのだ、今後も光化学スモッグ注意報はでるらしい。毎年春には「黄砂」で車も家もまだら模様になるし、中国向けのステンレスや銅の盗難は絶えないし、中国人の日本での窃盗や殺人事件も後を絶たない。おまけに中国は海賊版大国だ各国の著作権が中国のために数兆円の規模で犯されていると言うではないか。もう、いい加減にして欲しい、散々之ほどの迷惑を隣国に与えている中国の主席にお願いしたい。「もう、靖国の事はこれでチャラにしようや、60年前の事より今の貴国の公害や犯罪の輸出の方がはるかに罪深い事ですよ。大気汚染や公害防止に国家を挙げて努力すべし」。この時期はどこまでも澄み切った五月晴れは望めそうにない、皿倉山はいつも深いもやの向こうにある。今年の初めに買ったニコンの一眼レフを見るたびため息がでる。若松バンドから望む皿倉山の写真をねらっているのだがこうもやがかかってはムリですね。

柳原 白蓮

2007-05-10 22:12:36 | 昭和
アマゾンで注文した「林真理子著 白蓮れんれん」が着いたので早速読破した。この本は白蓮が恋に落ちて愛の逃避行の相手宮崎龍介との700通に及ぶ手紙を龍介の実家から借り受け考察を重ねて書かれた本である。白蓮よりの内容かなと思って読んでいたらそうでもなく伊藤伝右衛門の事もしっかり記述されていた。何故、伝右衛門は白蓮に贅沢三昧させたのだろうか、九州初の水洗トイレを作り、パン食の白蓮のため女中に門司までパンやバターを買いに行かせたり、挙句には別府に3千坪の敷地に赤がね御殿を作って歌人としてデビューさせ各界の知名士達との交流の場を設けさせた。その赤がね御殿で宮崎龍介と相思相愛の仲になり白蓮は伝右衛門と上京した時に伝右衛門の元から失踪してしまった。怒り心頭に達したのは伝右衛門の部下達だった、当時は不倫は姦通罪と言う立派な犯罪だったにもかかわらず、彼は部下に「俺が一度はほれた女じゃ、絶対に手出だしするな」と部下をけん制してしかも屋敷に残された白蓮の衣装や所持品を東京まで送り届けたとの事だ。この伝右衛門の行動はさすが「川筋気質」だと当時の筑豊で賞賛されたらしい。伝右衛門の財力があったから白蓮は歌人として文壇デビュー出来たし、詩歌集も伝右衛門のお金で出版出来たのある。しかも、歌人の社交場として作った赤がね御殿で知り合った宮崎龍介と恋仲になったのだからたまったものでない、これが僕だったら絶対に復讐行動に出たに違いない。伝右衛門が白蓮のいいなりになったのは、親子ほど離れた年齢に対する負い目そして白蓮(本名は子 あきこと読む火へんに華とは何とも情熱的な名前だろう)が大正天皇の従妹だった事への畏敬の念が常に頭にあったのかもしれない。今から90年前に実際にあった伝右衛門と白蓮の出来事である。その舞台となったのが飯塚市幸袋に現存する旧伊藤伝右衛門邸である。写真左の2階部分が白蓮が使っていた部屋、当時この部屋から遠賀川を行きかう石炭を満載した五平太船が見れたと言う。白蓮は伝右衛門とは幸せになれなかったが伝右衛門がいたから幸せになれたのではないかと思う。

伊藤 伝右衛門邸を見る

2007-05-09 11:25:23 | 昭和
今話題になっている飯塚の伊藤伝右衛門邸を見に行ってきた。連休期間中は人手が多いだろうと思って連休明けに行ったのだが邸内は人でごった返していた。特に2階の白蓮が使っていた部屋は15分待ちの盛況だった。2000坪の敷地に300坪の邸宅はやはり凄い。学校にも行けず父親と魚の行商をしながら炭鉱を掘り当て巨万の富を築いた伊藤伝右衛門はここ数年でにわかに脚光を浴びた。それは、伝右衛門の邸宅を取り壊す話が出たとき飯塚市民は反対運動を起こした。署名活動や寄付などで飯塚市役所もその市民の熱い心に動かされて、敷地や邸宅を買い取り建物の補修を終わり先月末に一般公開にこぎつけたものだ。水害で大被害を受けた嘉穂劇場の時もそうだったが、古い建物に対する飯塚市民の限りない愛着に頭が下がる。伊藤邸も嘉穂劇場も炭鉱遺産の一つだと思っている。日本の近代化がスタートしたのは筑豊地区の石炭、それを運んだ遠賀川、その石炭で鉄を作り日本が明治以降近代化を遂げたのも筑豊の石炭があったからだと思う。伊藤伝右衛門の生い立ちから晩年までの人生はまさに波乱万丈だ、柳原白蓮との再婚と白蓮の恋の逃避行にも沈黙を守り、ひたすら地元の発展のために生涯を捧げた伊藤伝右衛門の生き様に畏敬の念を覚えた。邸内を見ながら、かってここで暮らした当時の人々の生活ぶりが古い映画の場面のように蘇った。そして、現代の成金と言われたヒルズ族の「堀衛門」の事を思い出した。同じ成金でも全然違うな伝右衛門とは。