現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「虚無僧も座るんかいな」

2014-07-26 09:48:49 | 虚無僧日記
4時間も立っていると、さすが足腰が痛い。
チラシ配りや、お店の店員さんは、毎日6時間も
よく立っていられるものと感心する。

「虚無僧」も 疲れたら 腰を降ろして休憩することに。
すると、男性が「虚無僧も座るんですかいな」と。

いやみ・・・ 。立ち上がろうとすると、「いや、いいんです。
その方が、(普通の人間だったかと)安心します」と。


なるほど、肩肘張って身構えているより、こうした
自然体の方が、「こわそう」な虚無僧より「親しみ」を
感じてくれるようだ。

以来、名古屋駅前でも、疲れたら座ることにした。
すると不思議、休んでいる時の方が、喜捨いただける。

「お疲れさま」「ご苦労さん」という ねぎらいの心が
起きるのだろう。

昨晩など、眠くてウトウトしていると、天蓋をトントンと
叩かれた。ハッと目をあけると、若いビジネスマンが
「はい、これ」と小銭を入れてくれた。

これは 意外な発見。時には弱みを見せることも
生き方のひとつなのだ。

釈迦の教えは「こだわりを捨てる」こと。
「虚無僧はこうあらねばならない」。
「古伝三曲以外の外曲は吹いてはいけない」
「日の出から日没まで」「天蓋は絶対にとってはいけない」

などといった仕来りは、所詮、人が定めたもの。そんな
規則は、まったく無視した現代の虚無僧でござる。
(室町時代の「薦(こも)僧」は、それこそ「薦筵(こもむしろ)」を
敷いて、その上に座って尺八を吹いていた。
だから「薦(こも)そう」なのだ。江戸時代初期は「天蓋」も
「袈裟」もつけていなかった。


それで私も、最近は袈裟も手甲脚絆も、替尺八を入れた錦の袋、
白房や印籠なども身につけないことにした。「本来、無一物」
だけど、「天蓋」と「げ箱」と「尺八」は無いと「虚無僧」に
ならない。これだけででいいのだぁぁ。


「その天蓋売ってくれ」と

2014-07-26 09:03:36 | 虚無僧日記
虚無僧に関心を持ってくれる人は、世間常識から少し
ハミ出た人たち。自分もそうだ。類は類を呼ぶ。

7/25(金)。週末とあって、名古屋駅はすごい人。
ちょっと怪しげな人が、じっと私の方を見て、財布を
開きながら近寄ってきた。

「どこから来た」「歳は」「虚無僧で食べていけるのか」
と矢継ぎ早に職務質問。そて「それ(天蓋)は どこで買える?」と。

「自分も それを被って 飲み屋に出入りしてみたい。みんな
驚くだろうな」

天蓋はネットで「虚無僧笠か天蓋」で検索すると、一点だけ
あります。他にもあったが、みな在庫切れになった。

などと伝えると、「今それを売ってくれないか。いくらだ」と。
「前のはボロボロになったので、新しく買い替えたばかり。
2万円です」。「そんなにするのか!」てなやりとり。
「ごめん、今日は小銭がないので、紙で勘弁してくれ」と
1,000円札。



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イベントや遊びで使うなら「竹製の籠」を2個持っています。
価格は 1,000円

特注の「袈裟」もあります。1万円でお譲りします。