現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

40以上もある尺八諸流、諸会派

2016-09-30 21:31:47 | 尺八・一節切

「尺八には いくつの流派がありますか?」とよく
聞かれます。
「はい、大きく分けて、琴古(きんこ)、都山(とざん)、
明暗(めいあん・みょうあん)の三つです」と答える
ことが多いですが、実はどっこい、細かく分ければ、
数十もあって、それぞれ吹く曲も、奏法も、譜面の
記譜法も違います。まずは「明暗流」の諸会派から
ご紹介します。

【京都明暗寺系】

①《明暗真法(じんぽう)流》
京都明暗寺の本曲を伝えていた尾崎真龍(しんりょう)、
勝浦正山の系統。

②《竹保流》
幕末明治にかけて大阪で活躍した近藤宗悦の系統。
初代「酒井竹保(竹翁)」、二代「酒井竹保」、三代
「酒井松道」と続く。酒井竹保は勝浦正山や源雲海にも
学ぶ。

【浜松普大寺系】

③《西園(せいえん)流》
浜松の虚無僧寺「普大寺」の最後の住職 玉堂梅山に
学んだ名古屋の兼友西園(かねともせいえん)の系統。
普大寺の遺曲11曲を伝える。5世小原西園が昨年亡くなり、
現在「岩田律園」が6世。岩田律園は、父の岩田祥園から
西園流を学ぶと共に、京都の谷北無竹、浦本浙潮からも
学んでいる。


④《明暗対山流》
西園流の兼友西園の門下の鈴木対山が、京都の樋口家に
養子に行って「樋口対山」と名乗り、明治21年、東福寺
内に「明暗教会」として再興し、35世看首となった。
「樋口対山」は、浜松普大寺系統の「西園流」の他に、
琴古流の「荒木竹翁」、京都明暗寺系の尾崎真龍(真法流)
からも古典本曲を学んでいる。
明暗36世は対山の弟子の「小林紫山」。37世は谷北無竹。
昭和25年、小林紫山や谷北無竹らによって「(宗)普化正宗
明暗寺」が設立された。
(虚無僧の普化宗が政府公認となったのは、実は、戦後の
昭和25年でした。それまでの旧法制下では「尺八を
吹いて托鉢をすること」は違法だったのです)。

昭和36年には、小林紫山、谷北無竹に学んだ38世 小泉止山
(了庵)が「明暗導主会」を設立。39世 福本閑斎(虚庵)、
40世 芳村宗心(普庵)、41世 児島一吹(抱庵)、四国の
明珍宗山らの門下が、古典本曲を伝承しています。

【根笹派錦風流系】

⑤《根笹派錦風流》
江戸時代、津軽藩士によって吹かれたという本曲を伝える一派。
乳井月影(にゅうい げつえい)、永野旭影(武士方風)、
折登如月(町方風)の系統。「コミ吹き」「チギリ手」という
独特の技法をもつ。

⑥《布袋軒派》
仙台の布袋軒の系統。最後の看主は13代「長谷川東学」。
小野寺源吉、黒沢照雲、小梨錦水、浦本浙潮(政三郎)ら
東北独自の尺八奏法を築き、その中から民謡の後藤桃水が
出ている。

⑦《越後明暗寺派》
江戸時代の初め、加賀から越後新発田「村上藩」に移り
住んだ堀田隼人(的翁文仲と号す)を開祖とする越後明暗寺の
系統。最後の住職は15代 堀田侍川(龍志)。その弟子の
「斎川梅翁(本名藤本梅吉)」が「三谷(下田(しただ)三谷、
越後三谷とも)」と「鈴慕(下田鈴慕、越後鈴慕とも)」を
小山峰嘯に伝えていた。また神保政之助の「奥州三谷(別称
神保三谷)」は、浦山義山と引地(ひきち)古山に伝承され
今日でも、よく吹かれる曲である。


⑧《越中国泰寺派》
富山県高岡市の古刹「国泰寺」は、開山が紀州由良の
興国寺の「法灯派」であったことから、近年? 越中、
越後の古典尺八愛好家が《国泰寺派》を
創り、毎年6月の開山忌に虚無僧姿で集まり献奏する。

(※ニュースなどで「虚無僧寺」として紹介されるが、
 国泰寺はれっきとした“臨済宗”の寺です)。

【九州系】
⑨《博多一朝軒》
寛永年間に一応(一翁)が開山。明治4年の廃宗の際の
看主は17代「磯魯伯」。その後も18世 伯堂、19世 施行
(磯敬助)と続いたが、財政的な苦境に陥り所在を転々と
した。昭和26年に津野田露月らの尽力で新家屋を購入して
一朝軒が再興され、「施行」の娘の「光代」が20世「磯
一光」となった。現在は光代の夫の「磯譲山」が21世を
継承。

(※「海童道」は「博多一朝軒」の出と称しているが、
「磯一光」は「海童道なんて知りません。あの人は
一朝軒とは関係ありません」と否定しています)。

⑩《明暗露月派》
樋口対山、勝浦正山、浦山義山に学んだ津野田露月が
熊本に居住した。


⑪《普化宗・谷派》
勝浦正山(真法流)、樋口対山、長谷川東学にも学んだ
宮川如山の弟子に「谷狂竹」がいる。「谷狂竹」は、
名家の生まれでありながら、生涯を虚無僧で生きた
名物男だった。

⑫《西村虚空派》
谷狂竹の弟子が、熊本の「西村虚空」で「谷派2世」を
名乗った。この人も三尺六寸管を吹く傑物で、その弟子
たちが九州を中心に「西村虚空派」を名乗って、継承
している。3尺以上の超長管を「尺八に非ず、“虚竹”
である」と称し、今日の“超長管ブーム”の魁となった。


⑬《千笛会》
宮川如山の門下で、勝浦正山、小林紫山にも学んだ「高橋空山」
は、「谷狂竹」とはまた異質の古典尺八家だった。その弟子の
「藤由越山」(慶応卒)が千笛会を主催し、東京新宿で慶応の
後輩を中心に指導にあたっている。


(以下次に続く)


尺八「明暗各会派」の続き

2016-09-30 21:31:22 | 尺八・一節切

「明暗諸会派」の続き。

⑭《全国古典尺八楽普及会》
岐阜の「竹内史光」は、琴古流川瀬派 初代 「川瀬順輔」の
門下でしたが、谷北無竹より対山流本曲を、また折登如月や
乳井建道から根笹派錦風流を、小山峰嘯からは越後明暗を
学び「中部本曲同好会」を組織し、岐阜・愛知に多くの
門弟を育てた。


⑮《古典尺八研究会》
「桜井無笛」は中村掬風(きくふう)から一朝軒の曲を
伝承し、谷北無竹、小林紫山、津野田露風らからも明暗本曲を
修得。その弟子「門田笛空(もんでん てきくう)」が 今
会を引き継いでいる。


⑯《明暗蒼龍会》
岡本竹外の門下による会。現会長は高橋峰外。三橋貴風や
徳山隆(慶応卒)も 岡本竹外から学んでいる。


⑰《海童道》(わだずみどう)
明治44年福岡生まれの「海童(田中)普門」は、当初は
「博多一朝軒の出」と名乗っていたが、後「普化宗管長」を
自称し、さらに「海童道」の宗祖となる。尺八を「法竹
(ほっちく)」と称し、禅の哲理を説き、呼吸法と音色に
独自の境地を開拓した。それは「前衛音楽」として、
武満徹や現代音楽家の注目を浴び、昭和40年代の尺八
ブームの火付け役となった。「横山勝也」の他に弟子
はとらず、舞台演奏には一切出演せず“伝説の達人”で
ある。


⑱《国際尺八研修館》
「海童道」の唯一の弟子「横山勝也」は「海童道」の
「道曲」をさらに舞台芸術の域に高め、「海童道」を
世界に知らしめる広告塔となった。
「横山勝也」は、静岡県清水市の琴古流の名人であり
製管師「横山蘭畝」の息子であり、福田蘭憧にも指示し、
海童道祖とは対極の洋楽的な奏法も身につけ、「三本会」
「音楽集団」(後退団)で大活躍した。多くの門弟を育て、
岡山県の美星町に廃校となった小学校を改修して《国際
尺八研修館》を設立。今、門下生によって定期的に
講習会が開催されている。


⑲《直簫流尺八》
横山勝也と二代目酒井竹保に古典尺八を学んだ田嶋直士が
主宰。「海童道」の「道曲」の楽譜を出版したことで、
『手向』などの曲が、一般尺八家でも吹けるようになった。


⑳《如道会》
神(じん)如道は弘前市に生まれ、根笹派錦風流の
折登如月の弟子。琴古流を学ぶと共に、尺八本曲研究のため
数十年にわたって全国を行脚して、各地に伝わる本曲の採譜に
努めた。そして、普化尺八を中心とする尺八古典本曲を
集大成して、独自の芸風を立てた。現在の会主は子息の
「神 如正」がNHKを退職して、「神如道」の曲の
継承と会員の増強に努めている。


21《百銭会》
善養寺惠介(ぜんようじけいすけ)が主催。善養寺の父親が
神如道の弟子で、恵介は、父から幼少より古典本曲を学び、
また、東京芸大に入って琴古流の人間国宝「山口五郎」にも
師事している。




尺八「都山系」

2016-09-30 21:29:45 | 尺八・一節切

現在、尺八界の最大流派は『都山(とざん)流』。

初代「中尾都山」が明治29年、19歳で大阪で立ち上げた。
中尾都山は、近藤宗悦の尺八を学んで、独学で合奏技術を
身につけ、小森隆吉に明暗尺八も習って虚無僧修行も
行ったという。

「中尾都山」は、洋楽を真似た記譜法と作曲理論によって
尺八本曲を次々に作曲し、また、筝曲や三絃の地唄、
明治以降の新曲、特に「宮城道雄」の新曲の楽譜を
公刊し、その指導法を体系化することによって、全国に
3万もの会員を有するにいたった。

しかし、初代の子の二代「中尾都山(稀一)」が若死に
すると、初代の後妻であり「稀一」の母「レン」と嫁
(2代の妻)との間で、対立が起きた。そこで、姑派と
嫁派で門弟の大分裂が起きた。


《(財)都山流尺八楽会》
初代の後妻であり2代の母「中尾レン」が、昭和40年に
「財団法人」の認可を得て設立した。
現宗家の四代目「中尾都山」は初代都山の先妻の孫。
最大会派で、その代表格が「山本邦山」。平成14年
人間国宝に認定され、多くの若手尺八家を育てており、
都山流の看板スターである。現在、会員数 5,000名で、
一会派としては最大。平成23年「公益財団法人」の
認定を受けている。

《(社)日本尺八連盟 》
2代都山の早世により、昭和50年、門弟の「島原帆山」が
二代都山の長女「中尾美都子」を宗家とし、自らは「会長」と
なって『都山流尺八協会』を設立した。
しかし、2代の母「中尾レン」と3年がかりの裁判となり、
『新都山流日本尺八連盟』と名称を変更する。
その後、宗家「美都子」とも袂を分かち、昭和56年、
《日本尺八連盟》を結成、初代会長に就任した。
島原帆山は 翌 昭和57年に人間国宝になるなど、政治力が
あった。平成13年に逝去。

《新都山流》
昭和56年に、島原帆山の『新都山流日本尺八連盟』が分裂し、
2代都山の長女「中尾美都子」を三代目宗家として設立された。



《宗悦流》
中尾都山に尺八の手ほどきをした「近藤宗悦」は、幕末から
明治の人。40歳頃、長崎を出て京都明暗寺に入り、尾崎真龍に
弟子入りして「明暗真法流」を学び、また三曲(箏・三絃の地唄)の
手付けを行った。尺八を水平近くに構え、入れ手が多いので
「チャルメラ宗悦」と異名を取った。都山流の独特の奏法は
「チャルメラ」からきている?。
「宗悦流」は 大正中頃まで関西尺八界に君臨したが、現在は
廃絶。

《上田流》
初代中尾都山の弟子の上田佳山は、14歳で入門して 20歳ごろの
明治45年には流内の最高職格まで登りつめた。しかし、宗家の
公認を得ないで自作の新曲を公演したことで、大正6年 破門と
なり、独立して「上田芳憧」と号した。大正10年に「上田流」を
創始。現宗家は芳憧の長男の上田佳道。記譜法や奏法は都山流を

この他、「都山流」から脱会して 創設された会派は
次のとおり。

洋山流 : 服部洋山が上田流から独立して創始。
村治流 : 村治虚憧が上田流から独立して創始。
晃山流 : 平塚晃山が都山流から独立して創始。


尺八界は、流派ごとに「楽譜」の記譜法や奏法が異なり、
その伝承にこだわる閉鎖性があります。しかし、最近、
ようよう、流派にこだわらない「尺八プレイヤー」が
出てきつつあります。私「一路」もその一人です。




尺八「琴古流」の各会派

2016-09-30 21:29:22 | 尺八・一節切

江戸時代半ばに、福岡黒田藩の藩士だった「黒澤琴古」が、
浪人して虚無僧となり、全国の虚無僧寺に伝わる曲を集大成して、
江戸浅草で「虚無僧尺八」の指南役を勤めていた。
虚無僧が妻帯していたとは変だが、「黒澤琴古」の名跡は、
実子によって4代まで続き、「琴古流」と称えられるように
なった。

明治になって「虚無僧」は禁止されたので、尺八名人
たちが、琴・三絃との合奏をするようになり、それぞれ
一門一派を為した。

その代表格が 荒木古童、川瀬順輔、納富寿童、山口四郎、
青木鈴慕、吉田晴風らである。現在、「琴古流」の家元は
存在せず、琴古の流れを継ぐ人たちの総称で、その数は
7,000人ほど。主に東北から関東、中部までの東日本に
分布している。

《古童会》江戸時代から続く名門で、現在の会主は、
慶応のOB「荒木達也」氏で「5世荒木古童」改め
現「梅翁」である。
「達也」氏は、慶応を卒業すると長らくアメリカに住み、
アメリカ人と結婚して、アメリカ国籍を取得しているので、
現在の《古童会》の会主は「アメリカ人」ということになる。

《古童会》には「北山士童」他 慶応のOBが多い。そもそも
明治大正時代、門弟には「前島密」「松平容敬」ら、元大名
だったり、爵位をもつ名士が多く、「荒木派では虚無僧は
ご法度(禁止)」だった。
福沢諭吉の孫「堀井小二朗」も、三世荒木古童の一番弟子
「木村士童(友斎)」に師事していたことがあった。


《童門会》3世古道の弟子で、昭和42年に人間国宝と
なった「納富寿童」(昭和51年逝去)の門下。

《竹友社》2世古童の弟子の「川瀬順輔」が 明治27年に
創立。現在の宗家は三代目「川瀬順輔」。

《竹盟社》 大正10年に山口四郎(初代川瀬順輔の弟子)を
中心として創設。四郎の五男の「山口五郎」は、平成4年に
人間国宝。平成11年に逝去。


(※ 荒木、川瀬、納富のご三家は「琴古流家元」を
名乗ろうとして、烈しく対立をした時代があった)


《鈴慕会》初代川瀬順輔の弟子「青木鈴慕」が創始。
現在の会主は2代目「青木鈴慕(静夫)」。平成11年
人間国宝。

《美風会》昭和8年「佐藤晴美」が創始。「佐藤晴美」は
「吉田晴風」の門下。

(※「吉田晴風」は初代川瀬順輔門下の鳥井虚無洞の弟子。
「吉田晴風」の門下は「佐々木操風」「柳内調風」「広門
伶風」「川口浩風」など「風」の字をつけている)

《日本竹道学館》昭和3年に、初代兼安洞童(初代川瀬順輔の
孫弟子)を館長として開設。現在の三代目館長は「小野正童」。




尺八の未来

2016-09-28 10:52:57 | 虚無僧日記

大橋鯛山氏が『60才からできる尺八でメシを喰う方法』という本を書いている。

その中で「ここ20年での劇的な変化」として

1 カルチャー講座でしか入門者が来ない

2 女性がものすごく増えた

3 外国人、それもアジア地域でも尺八を吹く人が増えた

4 六十すぎての入門者が増えた

5 絶対数としては入門者が激減している

私も実感している。

それで、「今までのような高い値段では尺八は売れない」と。

 

今 私は ネットオークションで 1万円台で尺八を入手している。

木管やプラ管も 5,000円で 入手できる。

今は 尺八を習いたいという人には ラッキーな時代となった。

かつては、弟子に 数十万から百万で尺八を売って、その3割が

師匠の懐にはいった。今は、弟子は勝手にネットで購入してしまう。

師匠にとっては由々しき問題だが、そんなことやっていたから

入門者が居なくなったのだ。

今や家元制度は崩壊した。

大橋鯛山氏の記憶力はすごい。これまで尺八界を支えてきたのは

「学生邦楽出身者」として、数十人の名を挙げている。

明治大学の佐野鈴霏、船明紫雲、東京電機大の坂田誠山、永瀬憲治、

東大の山戸明盟、中央大学の高橋龍童、香川一朝、難波竹山、

青山学院の三橋貴風・・・・となつかしい名前が並ぶ。そして

私の名も「慶應大学=牧原一路」と。

この人達の長所は「尺八の技術にとどまらず、大学で培った広い視野、

ビジネスの知識、バランスの良い思考などなど・・・・」と。

そうなのだ。尺八教室を新ビジネスとして成功させるには、と

毎日試行錯誤、思案している私でござる。

 


絶海の孤島

2016-09-26 09:40:03 | 虚無僧日記

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ers\FG-S5VOI\Pictures\海岸IMG_2352 竜串

「無人島で独りで尺八を吹いていても幸せですか?」と問われた。

聞いていてくれる人がいて、仕合わせ。仕合わせとは仕え合うこと。

演奏する人、そして聞いて感動してくれる人がいて、お互い仕えあい

仕合わせなのだと。

そうかもしれない。尺八を 多くの人々に認めてもらいたいという欲はある。

だが今、尺八が絶滅危惧種にあるということは、世に認められないということ。

虚しさに、絶海の孤島で尺八を吹く気持。


大橋鯛山氏のブログに私の名が

2016-09-20 19:06:22 | 虚無僧日記

尺八の販売売り上げで日本一を誇る大橋鯛山氏のブログに私のことが書かれていました。

一部をコピペさせていただきます。


「尺八もホンの40年前までは老舗の暖簾が何より大事でした。

何々流、何々会に属していないとイロイロな支障が有りました。

当時の技術水準では、間違いなく尺八で日本の最高レベルにあった

牧原伸一郎さん、今の一路さんですが、彼だって暖簾を問題にされて、

腹立ちのあまり、「僕腹立つよ」で牧原龍世(ボクハラタツヨ)を

名乗ったという有名なエピソードが有ります。

私も地方の尺八吹きに頼まれて琴古流の免状を乱発した事が有ります。

「演奏会に出て会に所属してないと下っ端あつかいを受けるんですよ」。

「フーンそうですか」。

「私達も先生扱いを受けたい」。

「 なら簡単ですよ。自分で名乗れば良いじゃないですか」。

「そんな事は出来ませんよ」。

 「大丈夫です」。

尺八界の事情を知っていれば何の問題も無いと分かります。都山流はダメ。

琴古の〇〇会と名乗れば「琴古流」だと言うだけで信用されます。

今では「免状をもって先生と呼ばれたい」という様な純情な人もいなくなりました。

「ちゃんと修行しない輩が増えると尺八がすたれる」とも、もう聞かなくなりました。

「ちゃんと修行」して尺八をすたれさせた人が多いですからね。

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大橋鯛山氏の記憶力はすごい! 当の私は「牧原龍世(ボク ハラタツヨ)」と

名乗っていたことも忘れていました。そうでした。私の師「堀井小二朗」氏も

邦楽会の家元制度にまつわる因習を批難し、流派を名乗らず、弟子に免状も

出しませんでしたから、私には 資格も肩書もありませんでした。

ところが、何々流の師範免状が無いと、実力はあっても糸方では全く認めてもらえません。

演奏会にも出させてもらえません。出させてもらえたとしても、ブログラム順は

他の尺八家の後、末席です。「3万でよろしいですか」と言われて、ギャラを

いただけるものと思って出演を承諾したら、当日会費として3万円を請求されて

真っ青になったこともあります。40年前の3万円です。初任給が4万円の頃です。

それで、私は、そうした家元制度に反発して「牧原龍世(ボク ハラタツヨ)の

尺八名で、邦楽会の外、現代音楽畑で結構活躍しました。

当時、洋楽系の作曲家が五線譜でどんどん作曲されるのですが、五線譜が読める

尺八師範は ほとんどいませんでしたから、私でも引っ張り凧でした。

 

今は「吸江流(きゅうこうりゅう)宗家」を名乗ってますが。これはパロディです。

「吸江(きゅうこう)」とは、禅の言葉「吸尽す(きゅうじんす) 江(こう)の水」。

「江」とは「揚子江(長江)」のこと。「あの長大な揚子江の水を吸い尽くす」という

気宇壮大な意味です。つまり、琴古も都山も明暗も民謡も演歌も洋楽もすべて

演奏するという意味が込められています。

 

寺田寅彦 「科学者と芸術家」

2016-09-19 10:26:37 | 社会問題


以前中日新聞に「野依(のより)良治博士」が「科学者と芸術家」と
題して書かれていた。

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C.P.スノー(イギリスの物理学者で小説家)が
「科学と芸術は対極にあり、互いに話し合うことも
できない。無理解、ときには敵意と嫌悪が溝を隔てている」
と指摘した不幸な状態にある。科学者と芸術家は緊密に
知性、感性、技術を共有すべきだ。
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これと全く同じ「科学者と芸術家」というタイトルで
100年も前の大正5年(1916)に「寺田寅彦」が
エッセイを書いている。

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「芸術家の中には科学に対して無頓着であるか、一種の反感を
いだくものさえある。また多くの科学者の中には 芸術に対して
冷淡であるか、むしろ嫌忌の念をいだいている人もある。
科学者と芸術家とはそれほど相いれぬものであろうか」と。
野依氏は、当然「寺田寅彦」のこの一文を読んでおられた
ことでしょう。

寺田寅彦は、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
芸術家は、科学者と同程度、もしくはそれ以上の観察力や
分析的の頭脳をもっていなければなるまい。いかなる空想的
夢幻的なものでも、するどい観察と分析の結果の表現の
しかたによって、芸術としての価値が定まるのではあるまいか。

また、科学者にも想像力と直感が必要である。科学者と芸術家は
互いに別々の世界に閉じこもっているが、第三者から見れば、
この二つは 存外に近い肉親の間柄であるように思わる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

100年も前に「寺田寅彦」が提唱したことが、今「野依」博士に
よって再び提唱されたことに驚きと感動を覚える。

そう「尺八家」の私も、「人間」を「科学的」な目をもって
解析し、芸術に新境地を開いてみなければと思う。


芥川龍之介 「蜘蛛の糸」

2016-09-18 03:07:08 | 虚無僧日記

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火付け、押し込み 数限りなく、あまたの人を殺めたり。

そのカンダタも 一匹の蛛の命を助けたことがあった。

そのことをご存知のお釈迦さま、一本の糸を スルスルと。

「あぁ ありがたや、ありがたや。これで 地獄からも抜け出せる」

上へ上へと登りつつ、下をみれば、多くの罪人たちが 「われもわれも」と

登りくる。

「糸は おれのもの!。下りろ。下りろ!」

その途端。糸は ぷつりと。

 

ご存知、芥川の『蜘蛛の糸』

これを わが講演の ひとコマにせん。