現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える


高橋竹山のドキュメンタリー映画「津軽のかまり」公開

2018-12-25 19:39:44 | 虚無僧日記

「津軽のかまり」見てきました。

今日の津軽三味線ブームの火付け役となった高橋竹山のドキュメンタリー映画。

「かまり」とは「匂い」。津軽の匂いを感じさせるような三味線の音色をという

竹山の想いを伝える映画。

竹山は生涯にわたって津軽にこだわった。「津軽の匂い」に命を懸けた。

竹山の三味線に津軽の泥くささが薄れてきたという批評が出まわったことがあった。

竹山は「とんでもねえ」と一蹴した。「そういうことを言う奴が、いったいどのくらい

津軽をわかっているんだ。土くさい、泥の中を這いずりまわっている津軽だけが

津軽ではない。そこには風もあれば、波の音もあるし、雪の美しさもあれば、

静寂もある。ほんものには洗練された美しさがあるとも。

竹山の三味線には一音一音に色がある。人間の魂の響きがある。

最近の若者の津軽三味線は 速弾きコンクール。速く弾くだけだったらカンタン。

ゆっくり一音一音に匂いを込める方がむずかしいと。

私も同感。とにかく竹山の最初のバチ音から 涙があふれ出た。

 

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紀州興国寺は虚無僧の本山?

2018-12-18 14:21:16 | 虚無僧って?

「興国寺」といえば、われわれ尺八家にとっては
紀州由良の「興国寺」が まず思い起こされる。
虚無僧側の伝説では「紀州由良興国寺の開山、法燈
国師覚心が、唐から尺八と普化宗を伝えた」と云われて
いるのである。

興国寺側では、そのような記録は無く、虚無僧側の
勝手な創作と思われるのだが、ではなぜ、「由良の
開山」が、普化宗の祖に祀り上げられたのか。
一体誰がそのように言い出したのか。

それが、北条早雲の三男「北条幻庵」あたりではないか
というのが、私の推測である。

北条早雲は葛山氏の娘を二番目の妻にし、二人の間に
生まれたのが北条幻庵だ。幻庵は幼少の頃から京都で
学び、尺八を得意とした。幻庵の影響で、小田原北条家の
中では尺八が大流行した。

幻庵は小田原北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされる直前まで
90年以上生きた。北条家が滅亡した後、北条の家臣の中で
帰農することもままならぬ連中が虚無僧となって、関東
各地に草庵を建てた。青梅鈴法寺もその一つだった。

北条家の当主氏直は徳川家康の女婿であったため、命を
助けられ高野山に幽閉される。そこは「小田原別所」とも
呼ばれ、かつて葛山景倫が出家した場所でもあった。

氏直は心労の末翌年には亡くなり、付き従った家臣300名が
浪人となる。その中には虚無僧となって、紀州興国寺を
頼ったか、また京都に出る者もいたであろう。

虚無僧は高野聖や時宗の徒を真似、諸国を流浪した。
高野聖のメッカ「刈萱堂」の主は代々「覚心」と称した。
虚無僧にも「覚心」の名は記憶された。

紀州興国寺は秀吉に攻められて廃墟となり、そこは
虚無僧がたむろする場所となっていた。

北条家ゆかりの虚無僧どもは、こうして、遠い記憶を
頼って、なんとなく、流祖を「由良興国寺の覚心」に
結びつけたのではなかったろうか。

というのが私の推測である。

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鈴鹿の普済寺

2018-12-18 14:19:49 | 虚無僧って?

鈴鹿市岸岡・普済寺」で検索したら、結構 詳しい紹介があった。

しかし、「東福寺(臨済宗)の心地覚心(1207~1298)が、
建長元年(1249)宋に渡り、尺八を吹く四人の居士を連れて帰国。
紀州由良興国寺の開山となった」とあるのは間違いである。

鎌倉時代の初め、まだ臨済宗などは存在せず、心地覚心は、高野山(真言宗)の
僧だった。その覚心が帰国して由良に建てた寺は、当初は「西方寺」といい、
高野山の末寺「真言宗」だったのだ。
それが「禅宗の興国寺」となるのは、南北朝になってからである。

また、「禅宗の中の普化宗は 紀伊,伊勢,志摩を中心に 末寺百四十三ヶ寺を
数える関南第一禅林(箱根の関より南の禅宗の寺の第一の寺の意味)と言われた」
とか、「虚無僧は全国各地の虚無僧寺(普済寺)」を頼って旅をした」とか、
「興国寺に上って免許を得た」などとあるが、これもとんでもない。
そもそも、興国寺は虚無僧の本山ではない。

虚無僧寺は関東から東北にかけて、100カ寺ほどあったが、箱根より西には、
わずか数カ寺しかなかった。浜松の普大寺、京都明暗寺、伊勢の普済寺、
博多一朝軒ぐらいである。

その数カ寺しかなかった虚無僧寺の一つが、伊勢の鈴鹿にあったということが
むしろ注目されるのである。



  

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霊山護国寺に「虚無僧素行」の墓

2018-12-18 14:18:04 | 虚無僧って?

ネットでいろいろ検索していて、見つけました。

京都の「霊山護国神社」に「明暗寺徒素行の墓」があるそうです。
解説文を転載させていただきます。

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「太田六右衛門」の墓の近くにある「明暗寺徒素行墓」は、
「本多素行」のものである。
「本多素行(小太郎)」は、文政三年(1820)、膳所(ぜぜ)藩の出身。

天下を周遊するため自ら科(とが)を犯して永の暇を賜り、
京都の「明暗寺」に入って虚無僧となった。以後、但馬国
養父郡「明暗寺の出張所」に起居し、四方の志士と交わった。

文久三年(1863)の生野挙兵では、大和挙兵の破陣を受け、
自重を澤宜嘉に説いたが容れられず。僧形に扮して遁れたが、
福崎で姫路藩兵に捕らわれ、京都六角獄舎で斬られた。年四十五。

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そうなのだ。「虚無僧は幕府の隠密だった」などと、
まことしやかに語られ、信じられているが、幕末は
“勤皇の志士”の隠れ家でもあったのだ。

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虚無僧と風呂

2018-12-16 19:31:56 | 虚無僧って?

江戸時代、虚無僧寺のいくつかは「風呂」を沸かし、
一般の人に開放していた。それで、虚無僧寺は、別名
「風呂司(寺)」「風呂屋」と呼ばれていたのである。

「鈴法寺」や「一月寺」が江戸に置いた番所(出張所)も、
高崎の「慈上寺」、宇都宮の「松岩寺」も「風呂屋」を
営んでいた。

ひと昔前まで、銭湯の入り口が「寺構え」になって
いたのは虚無僧寺の名残かもしれない。しかし、
町の「銭湯」とは区別されていて、「銭」ではなく
「薪料」として「志」を受けるのだと主張している。

これはどうやら、檀家を持たない虚無僧寺の貴重な
収入源だったようだ。

「遊行聖人」とか呼ばれた「時衆(宗)」も、全国を
周遊し、行く先々で「風呂」を沸かしている。こちらは、
酒肴や歌舞音曲付きで「娯楽施設」となっていく。
そこから「歌舞伎踊り」が生まれていくのである。

小田原の北条幻庵も、立派な風呂屋を設け、連歌師や
客人を招き、“ 接待 ”の場としている。

関東や東北の虚無僧寺が「風呂」を設けていたのは、
この「幻庵」の影響ではないかと、私は考えている。

江戸時代の末に出版された『虚鐸伝記国字解』では、
「鎌倉時代、法燈国師が 中国から4人の尺八居士を
連れて帰り、由良興国寺で風呂炊きをさせた」と
書かれている。「風呂谷」という地名もあったそうな。

虚無僧が風呂屋を営むのは、まさに、この故事によるもの
とされているが、私は、江戸時代に虚無僧寺が風呂を営んで
いたので、その由緒を創作したものと思っている。

虚無僧が尺八を吹く姿、まさに「火吹き竹」で風呂を
沸かすのに通じているではないか。

ところで「風呂坊主」が「プロポーズ」のジョークに
使われているとか。

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吉川英治『親鸞』に虚無僧が!?

2018-12-11 22:55:16 | 虚無僧って?

『宮本武蔵』『新・平家物語』など、大衆小説の大家
「吉川英治」の『親鸞』に、なんと「虚無僧」の元祖
「菰(こも)僧」が登場してくるのです。「親鸞」は
平安末期から鎌倉時代の人。「薦(こも)」を腰に
つけた「菰僧」は、室町時代 1400年頃の文献には
登場しますが、はたして平安末期にまで遡れるかは
疑問です。


吉川英治は『鳴門秘帖』など「虚無僧」が大好き
でしたから、『親鸞』にも登場させたかったのでしょう。
「親鸞」の命を狙うライバル「朱王房」の家人「七郎」が
「菰僧・孤雲」となって、主の行く方を探します。

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母も妻も子も、また家も無い自分の境遇と似ている雲を
彼(菰僧・孤雲)は、凝と見ていた。誰にとも訴へやうの
ない気持ちがやがて、尺八の歌口から 哀々と思ひのかぎり、
細い音を吹き出したのであった。その音のうちには、
人生の儚さだの、煩悩だの、愚痴だの、嘆きだのが、
纏綿(てんめん)と こぐらかっているやうに聞こえた。

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さて、「親鸞」をこよなく愛する「吉川英治」が、
本願寺に対して『折々の記』で苦言を呈しています。

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「今日の仏教全体のかたちなるものはすべて悉く
古くさく、旧態旧臭で、新しい世人の人々には
何らの魅力にはならない。江戸時代から明治以降の、
長い沈滞文化期にそうなってしまったのである。

伽藍、及び教団のごときは、いくらその大を恃みに
してみたところで潰え去るであろう。形のものは
捨て去るに惜しみはない。むしろ、捨てきってこそ、
新しいものが、きっと生れよう」と。
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虚無僧は寺も持たず、教義も無く、決まった形も
無い。そこに吉川英治は惚れていたのでしょうか。

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新撰組隊士 葛山武八郎とは?

2018-12-11 22:51:26 | 虚無僧って?

新撰組の隊士名鑑を見ていて、新発見。

葛山(かずらやま)武八郎

本名は「橘 憲章」。
会津出身、京都一月寺を脱走した元虚無僧ともいわれる。
新選組入隊は文久3(1863)年秋以降であるという。
伍長を務めた。
池田屋騒動の際は土方隊に所属。屋内の戦闘に参加し、
その功で17両の褒賞金を賜った。

元治元(1864)年8月頃、近藤勇の専横に抗議し、永倉新八、
原田左之助、斎藤一、島田魁、尾関雅次郎とともに会津藩へ
建白書を提出した。

会津藩主の仲介で和解したが、「葛山」は近藤勇が江戸に
下向した翌日の9月6日に切腹した。責任を取らされたとも、
近藤への抗議の憤死ともいわれている。

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まず「会津出身」ということでビックリ。
「京都一月寺を脱走した虚無僧」の件は“はてな?”。
一月寺は下総小金(現松戸市)であって、京都というのは誤り。
京都にあった虚無僧寺は「明暗寺」です。京都明暗寺は、
禁門の変では長州藩の残党を匿った罪で、看手は捕らえられています。

新撰組は、文久3年(1863)に組織され、翌元治元年(1864)は、
6月5日に「池田屋事件」。7月19日「禁門の変」で大活躍。
この後、隊士も増強し、新撰組は“同志”から、上下関係の
厳しい“組織”へと体質が変化していく。永倉新八等は、
そのことに不満を感じたのでしょうか。

近藤勇は、永倉や原田、斎藤一、島田魁、尾関政一郎ら
隊設立以来の幹部は慰留し、比較的新参者の「葛山」を
見せしめに処罰したともとれます。

「葛山」姓は、北条幻庵の母方の姓で、その祖は、興国寺の
前身「西方寺」の開祖です。「橘 憲章」は、
その故事を知っていて「葛山」姓に改姓したのでしょうか。
単なる偶然でしょうか。

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浜松普大寺の普大寺も勤王方だった

2018-12-11 22:46:52 | 虚無僧日記

遠州浜松にあった虚無僧寺の普大寺は明治4年廃寺となった後

小学校の分校として利用されていた。音楽の授業で使われていた

アメリカ製のオルガンが故障し、市内在住の機械器具修理職人の

山葉虎楠に修理の依頼をした。それがきっかけとなり「ヤマハ」が

誕生したのです。山葉虎楠は当初ここで手風琴を作っていました。

 

岡崎には普大寺の出張所がありました。慶応元年6月、膳所藩脱藩浪人で

長州の志士として活動をしていた粟屋彦右衛門という人物が難を避けて

その出張所に逃げ込んできた。それを追って新選組の隊士8名が

京都から乗り込んてきた。粟屋はいち早く浜松の普大寺に逃れ、

青山橿山という虚無僧が新選組の厳しい追求にも臆することなく

対応をした。

そこで青山橿山は度胸を見込まれて新選組に気にスカウト

されたが、慇懃に断ったという。

 

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屈原

2018-12-04 10:30:39 | 一休と虚無僧

屈原(くつげん)は、紀元前300年頃、中国戦国時代の
楚の国の政治家であり、詩人である。
楚の王族の一人で宰相となったが、懐王が隣国秦の
謀略に踊らされ、国を危うくするのを諫めたが受け入れ
られず、追放され、楚国の将来に絶望して入水自殺した。

屈原は放逐されてベキラの淵をさまよい歩いていると、
一人の漁夫が声をかけてきた。

「あなたは何をそんなに嘆いているのですか」と

屈原は言った。

「世の中すべて濁り、私独りが澄んでいる。人々皆
酔い、私独りが醒めている」

漁夫は言った。

「世人がすべて濁っているならば、自分も一緒に
泥の中に入り、波を立てればいいではないですか。
人々が皆酔っているなら、自分も酔えばいいでは
ないですか。川の水が澄んだら、冠の紐を洗うが
よい、川の水が濁っていれば、自分の泥足を洗うが
よい。泥水で冠を洗おうとするから悩むのだ」と。

屈原は漁夫の言葉に耳をかさず、ベキラの淵に身を
投じた。

一休はこの屈原の故事を愛した。一休も20歳の時
瀬田川に入水している。そして屈原が王の一族で
あったように、一休も天皇の子「王孫」であることを
意識している。

一休は、「民衆が飢え苦しんでいるのに、寺の坊主
達は皆、衣食住に困らず、親の地位と財力で出世
競争に明け暮れ、人々を救うこともしない」と怒り
嘆き悲しんでいたのだ。

私も屈原や一休に自分を照らして見てしまう。だから
引かれるのだ。

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屏風の虎

2018-12-04 10:29:25 | 一休と虚無僧

「虎が、毎夜抜け出して悪さをするので困っておる。
虎が屏風から抜け出さぬよう、捕えてみよ」
「はい、おやすい御用です。さあ虎をトラえてごらんに
いれますので、どなたか、虎を追い出してください」

これだけでは“とんち”になってない。私の贋作『一休話』は
「はい、虎をトラエましたので、もうご安心ください」
「なに?いかにして捕えたか?」
「はい、虎は絵になりました。虎絵(トラエ)でござります」

ところで、この『屏風の虎』の話は、明治になってできた話。
江戸時代に「将軍様を小バカにする話」などご法度である。
江戸幕府を滅ぼした明治政府にこびて、徳川将軍を小バカにする
意図で創られたものと思われます。私達はみな、一休さんの事実と
騙されていたのだ。

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