平成の虚無僧一路の日記

平成の世を虚無僧で生きる一路の日記


祇王と仏御前と一休

2018-09-08 16:55:07 | 虚無僧日記

一休は25歳の時、琵琶法師が語る「平家物語」の一節
『祇王と仏御前』を聞いて、悟りを開いた。

「平清盛の寵愛を受けていた祇王は、年若い仏御前の
出現で、清盛の寵を失い捨てられる。そして山里に庵を
結び、毎日念仏を唱えて暮らしていると、そこへ仏御前が
訪ねてくる。仏御前は、明日はわが身と悟り、祇王に
詫びを入れて、祇王と共に仏に仕える身となるのだった。
京都の祇王寺には 祇王と妹と母、そして仏御前の4人の
像が祀られている。

さて、この話のどこに一休は涙し、悟ったのだろうか。
自分の母も帝から捨てられ、都を追われた身。祇王に母の
姿を重ねて泣いたのだろうか。どうももっと深い意味が
ありそうだ。

そもそも、祇王のライバルの名がなぜ「仏」なのか。

そこに注目してみると、この「平家物語」の主役は
祇王ではなく、若い仏御前なのだ。「娑婆の栄華は
夢の夢」と悟って訪ねてきた仏御前に祇王は「自分は
尼になって念仏を唱えてはいても、世を恨み、身の
不幸を嘆いていては極楽往生できなかった。あなたは
17歳の若さで、恨みも嘆きもなく、この世の穢土を厭い、
浄土を願って仏門にはいる覚悟を決めたとは、すごい
こと」と誉め讃えるのだ。

ライバルへの嫉妬や恨み心を引きずっている祇王に
とって、すべてを捨ててきた「仏御前」の方が格が
上となっているのだ。だから「仏御前」という名を
冠しているのである。

「平家物語」の前段で語られるこの「祇王と仏御前」の
話は、「平家物語」を貫く「諸行無常、盛者必衰」の
エッセンスだったのだ。

さて、一休は「祇王と仏」の話から何を悟ったのか。
この時、一休は師から「洞山三頓棒」の公案を与えられ
ていた。まさに「人はどこから来てどこへ行くのか」と
いう問いだ。父が天皇、母は楠木の血筋ゆえに都を
追われたという自分の出自。そして自分の将来に
一休は悩み苦しんでいた。20歳の時には瀬田川に
身を投げたこともあった。

そんな自分の出生にこだわる思いを断ち切ったのだ。






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『名古屋叢書』 第6巻 地理編 (1)

2018-09-07 19:45:55 | 虚無僧日記

『名古屋叢書』 第6巻 地理編 (1)

p.432 「金鱗九十九之塵 巻第22」

【呉服町】 七間町の東に在り 

当町は 往昔 清洲越の町にこれあり。清洲において町名を「ごふく町」と唱ふ。

然るに慶長の年中、那古野の此の地へ引越し来たり、旧号を用ひ「呉服町」と申し候。

家数64軒。

東照宮祭礼の警固 普化僧12人 紫衣を着た大領2人

 

【常盤町】 呉服町の南に在り

当町は 往昔 清洲にありし時、町内に竹を商うもの多く住居しける故に

「竹屋町」と呼びにけるよし。清洲より名古屋の此の地へ引越し来たりても

かの旧号を用ひ、「竹屋町」と称しける。然るに、元禄の頃、市中度々

出火せしかば、「たけや」を逆に読むと「焼けた」となり、忌み嫌って、

竹は常盤なるによって「常盤町」と改めるべく願い出て、元禄14年より

「常盤町」となる。

家数58軒 

東照宮祭礼の警固 頼朝 八幡詣10人出 

元は呉服町立合いにて 普化僧の練り物なりしが、天和・貞享(1681~)の

年間に、今の警固に変わる。

 

然るに慶長の年中、那古野の此の地へ引越し来たり、旧号を用ひ「呉服町」と申し候。

家数64軒。

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大高源吾の尺八

2018-09-07 19:43:20 | 虚無僧日記

赤穂浪士の一人「大高源吾」は俳人としても名が知られ、
風流人だった。その「大高源吾の尺八」というのが、
虚無僧研究会の会報第7号に掲載されている。
紹介者は岩井省法氏。所有者は高松の水原明鏡氏。

原惣右衛門の尺八は室町時代の「一節切」だったのに
対し、こちらは2尺の藤巻き、黒光りする見事な尺八。
「元禄戌五年政重」の朱塗り銘と、「尺八随一の名人」
といわれた『春谷』の刻印がある貴重なもの。

これによって、元禄時代(1700年前後)には、すでに2尺
もの長い尺八が在ったことがわかる。
「大高源吾の尺八」とされる伝来の由緒が明らかにされ
ていないのが残念。


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歌舞伎に登場する「虚無僧」

2018-09-07 19:38:55 | 虚無僧日記

歌舞伎十八番の『助六』は、正徳3年 (1713)山村座で初演。
助六は、黒の着流し、高下駄、腰に尺八を差し、虚無僧を
イメージさせているが、天蓋は被っていない。1700年代の
初期はまだ天蓋は無かったのか?

正徳5年(1715年)、二代目市川團十郎が、中村座で『坂東
一寿曾我(ばんどういちことぶきそが)』で、曾我五郎を
演じた時、 "虚無僧"に扮した場面があり、これが大当たり
したという。「編み笠」に「寿」の字がいれてあり、
それは「越後屋」のマークで話題になったそうな。スポーツ
選手がスポンサー企業のネームをつけて出場するようなものだ。
「編み笠」となっているから、現行よりは浅い。

翌年(1716)、中村座の『式例寿曾我(しきれいことぶき)』では、
曾我の世界に助六がとりこまれ、助六=曾我五郎という設定が
生まれた。そして、その扮装は現行に近い天蓋、尺八、黒の
着付といったものになっていたという。ひょっとして、
「天蓋」は 歌舞伎の演出として創られたのではないかと
思える。そして これが 江戸中に「虚無僧姿」を決定づけた
ものとなったという。

ただし、現在の『助六』は「天蓋」を持たない。


はっきりと 虚無僧が登場するのは、『仮名手本忠臣蔵』。
人形浄瑠璃としての初演は寛延元年(1748年)。江戸では
翌 寛延2年(1749年)森田座で初演されている。
「加古川本蔵」が「虚無僧」となって山科の閑居を訪れる。

この頃には「天蓋」は現在のようなものになっていて、
上演の時は、虚無僧本寺の「一月寺・鈴法寺」に 金品を
納めて“使用許可”を受けたという。


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赤穂浪士原惣右衛門の尺八

2018-09-07 19:38:30 | 虚無僧日記

高輪泉岳寺の「記念館」に「原惣右衛門の笛」というのがある。
「一節切」だった。すっかり褪色し、色つやの無い灰色で、
割れていた。

原惣右衛門は足軽頭だが、300石取りで、47士の中では、
大石内蔵助(1500石)、片岡源五右衛門(350石)に
ついで、第3位の高禄。刃傷事件の後、屋敷の引き払いを
迅速に進め、その日のうちに早駕籠に乗って出立。赤穂に
「浅野内匠頭切腹」の報を告げた人物。

討ち入りの時の年齢は56歳と高齢。吉良邸の塀を乗越え
た際 足を挫き、泉岳寺へは駕籠に乗せられて行った。

その原惣右衛門と「一節切」を結びつけるような史料は
見当たらない。まさか、上野介を見つけたときの呼笛は
「一節切」ではあるまい。

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仮名手本「忠臣蔵」

2018-09-07 19:38:06 | 虚無僧日記

赤穂浪士の吉良邸討入り事件が起きたのは、元禄15年(1702)。
関が原からもう100年が経ち、戦国の気風も消え、太平の世に
慣れきった時代だった。人を斬ったことの無い侍ばかりの中で、
浅野内匠頭の刃傷事件と、浪士の吉良上野介討ち取りは、
大変ショッキングな事件だった。

「これぞ 武士の鑑」と庶民はもてはやしたが、それは幕府の
お裁きを批判するものであったから、歌舞伎などで取り上げ
ることはできなかったのだ。

討入りの翌年には『曽我兄弟の仇討ち』にひっかけて
文楽で上演されたが、幕府は三日後には差し止めにしている。

文楽で『仮名手本忠臣蔵』が大阪で上演されたのは、1748年の
ことだった。事件から半世紀後である。それも、時代を
足利幕府の時代に設定し、実名は全部変えてある。

その外題『仮名手本』に隠された意味がすごい。

いろはにほへ ト
ちりぬるをわ カ
よたれそつね ナ
らむうひのお ク
やまけふこえ テ
あさきゆめみ シ
ゑもせすん  ス

いろは47文字と、浪士47士を 掛けているのはわかるが、
いろは文字を7字ずつ区切り、行の最後の文字をつなげると
「とが(咎)無くて死す」になるのだ。浅野内匠頭が即切腹
させられたこと、主君の仇を討った忠臣たちも、全員切腹
させられたことを暗に示しているという。

よくもこんな言葉遊びを江戸時代の人は考えつくものと
感心する。

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加古川本蔵が主役?

2018-09-07 19:36:07 | 虚無僧日記

『仮名手本忠臣蔵』の影の主役は加古川本蔵だという。

真山一郎の詞章入り演歌『刃傷松の廊下』の名セリフ

  ※お放し下され 梶川殿 五万三千石 所領も捨て
   家来も捨てての刃傷でござる。武士の情けをご存じあれば
   その手放して今一太刀 討たせて下され 梶川どの……

松の廊下で浅野内匠頭を取り押さえた梶川惣兵衛は旗本。
奥御殿の取次ぎ役であった。それが浄瑠璃歌舞伎『仮名
手本忠臣蔵』では、大名桃井若狭之助の家臣加古川本蔵
となる。

なぜ塩冶判官が高師直(こうの もろなお)に刃傷に及んだのか。
歌舞伎では全くの創作話になっているので、事実と混乱してしまう。

『仮名手本忠臣蔵』では、桃井若狭之助と塩谷(えんや)判官の
二人の大名が登場し、加古川本蔵は桃井若狭之助の家臣。

まず、高師直が塩冶判官の妻に懸想(けそう)する。危ない
ところを 桃井若狭之助が助ける。怒った師直は桃井をいじめる。

それに腹を立てた桃井若狭之助が師直を斬ろうとするのだが、
その家臣加古川が師直に貢ぎ物をして、師直に謝らせ、
主君の怒りを鎮め、事無きを得る。

ところが、師直の怒りが 今度は 塩谷判官に向けられ、
悪態をついたために 塩冶が師直刃傷に及ぶ、とややこしい。

この時、桃井の家臣である加古川本蔵が、たまたま居合わせて
塩冶の乱行を止める。塩冶の子力弥は、本蔵の娘の婚約者だった。
本蔵は塩冶の家がお取り潰しになったら大変と、娘のことを
思って飛び出したのだ。

そして九段目の『山科閑居の場』となる。
この時点で、大星由良之助は浪人。加古川本蔵は500石取りの
桃井の家臣。虚無僧になって山科の大星のもとを訪ねる。
自分が塩冶を止めたことを悔いて、力弥に討たれる覚悟で来た。
そこには先に妻と娘がきていた。

NHKで放映された時、解説者が「忠臣蔵は、“君に忠の忠臣”と
思われているが、実は、“君への忠より親子の情の方が大切”
ということを訴えているのではないか」と言っていた。

これには、目が洗われる思い。なるほど、歌舞伎は庶民の文化だ。
武士の世界の非情、不合理を庶民は冷ややかに揶揄していたのだ。



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「忠臣蔵」とは?

2018-09-07 19:35:46 | 虚無僧日記

赤穂浪士の吉良邸討ち入りは、さまざまに脚色され
何が真実か判らなくなっている。

そもそも「浅野内匠頭長矩」が、なぜ吉良上野介義央に
切りつけたのか。遺恨の原因が不明なのだとか。

刃傷の場所は「松の廊下」ではなかった。
吉良邸討ち入りの日、雪は降っていなかった。
山型模様の討ち入り装束も、山鹿流陣太鼓も嘘。

「天野屋利平衛」も「蕎麦屋」の話も嘘。創り話。
上杉家家老の「千坂兵部高房」も「色部又四郎安長」も嘘。


とにかく、我々の知っている「赤穂浪士」の話は
全部、芝居の創作なのだ。いつか、誰か「真実の
赤穂浪士」の姿をドラマで描いて欲しいと思うのは
私だけか?

最近、大石良夫の書状から、幕閣も「上杉家の取り潰し」を
謀って、赤穂浪士が吉良邸に討ち入るよう、「影で糸を
引いていた」という説が、俄かに真実めいてきている。
赤穂浪士は幕府に利用され、処分されてしまったのだ。


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虚無僧 加古川本蔵

2018-09-07 19:35:25 | 虚無僧日記

歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』は、赤穂浪士の話を、お上の手前、
そのままでは演じるこができないので、時代を足利時代とし、
吉良上野介を高師直。大石内蔵助を大星由良之助。その子主税
(ちから)を力弥と、名前を変え、事実には無い創作話もふんだんに
盛り込んでいる。

九段目『山科閑居』は、塩冶(えんや)判官(浅野内匠頭)刃傷の時、
後ろから抱きとめた加古川本蔵(梶川)の娘小浪(こなみ)と大星力弥が、
実は婚約していたという設定。大星由良之助、力弥親子が閑居して
いる山科に、戸無瀬と小浪の母子が訪ねてくる。婚約したのだから、
早く結婚させてくれと頼みにくるのだが、由良之助の妻お石が、
「主君判官の刃傷を止めた加古川本蔵が憎い。その娘を嫁に迎える
わけにはいかぬ」と追い返そうとする。戸無瀬が、いまさら婚約
を破棄されては「ここで母娘ともに自害するしかない」というと、
戸外で虚無僧の吹く尺八の音。

「あれは『鶴の巣籠り』。鳥類でも親は子を慈しむのに、人は
なぜ、親が娘を殺すのか」と、これは『熊谷陣屋』の話とも掛けて
いる。刀を振り上げると、「ご無用」と虚無僧の声。
「ならば、本蔵の首を差し出せ」と、お石はいう。そこへ虚無僧が
再び「ご無用」と声を発し、「本蔵の首差しあげよう」と入って
くる。虚無僧は加古川本蔵だったのだ。

ところが、本蔵は「主君の仇を討つことを忘れ、遊興にふけって
いる なまくらな大星の妻なんかに、わしの首はとれまい」と悪態を
つき、お石を組み伏せる。そこへ、力弥が飛び込んできて、母上
危うし!と 槍で本蔵の脇腹を突く。そこで、すべてを見知った大星
由良之助が登場。

ここからが涙涙だ。本蔵は「塩谷判官を止めたのは、娘の婚約者
大星力弥のお家が取り潰しになっては困る」と、娘可愛さの行動
だった。それが裏目に出たのだから、力弥に恨まれても仕方がない。
力弥の手にかかって死のうと覚悟してきたのだ。

一方の由良之助の妻、お石は、力弥と小浪を結婚させてやりたいが、
いずれは主君の仇を討ち死ぬ身。すぐに若後家になる運命が不憫と
この縁談を破棄して、帰したかったのだ。双方の思いに、観る者は
心打たれ、涙する。

ネットで検索した中に、「加古川本蔵」の「本蔵」の文字が「仮名手
“本”忠臣“蔵”」の中に隠されている。このストーリーの主役は
本当は「加古川本蔵」かもしれない。という記述があってビックリ。

「忠臣」は実は「加古川本蔵」だというのだ。「仮名手本忠臣蔵」は
フィクション(作り話)なので、私は関心が無かったが、主役が
「虚無僧」だったとなると、関心はイッキに高まる。




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『名古屋叢書』 第15巻 文学編

2018-09-02 09:45:41 | 虚無僧日記

『名古屋叢書』 第15巻 文学編 P218

「葉至茂里」 「俳諧 橋守 第一」

山本荷〇の撰 元禄10年(1697) 京都の井筒屋から上梓

(山本荷〇は 芭蕉を批判し、芭蕉門下から排斥された俳人)

巻第四 に 尺八の句

 「 尺八の下手は ねふたし かんこ鳥」

 

P244 「俳諧古渡集」 秋陽堂冬央が享保18年に撰集。

「門松や 迷途の旅の一里塚」 作者不知

 

一休の逸話として名高いこの句が「作者知らず」となって

いることが不思議。

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