平成の虚無僧一路の日記

平成の世を虚無僧で生きる一路の日記


孤独死 3万人、予備軍1千万人?!

2019-07-31 21:19:31 | 虚無僧日記

私の知人の父親が広島で孤独死した。区役所の公報に

「遺族を探しています」とのポスターがあり、わかった。

知人曰く。小学生の頃 父親は愛人と駆け落ちし、

行へ不明になっていた。5年目に連絡があって、母とは

離婚手続きをし、それきり。孤独死したということは、

愛人にも見捨てられたかと。

ドキッ。私もそうなりかねない

 

誰にも看取られず、一人部屋で亡くなる孤独死は年間約3万人。

毎日約80人が孤独死していることになる。

平成29年 東京23区内で 65歳以上で一人暮らしの自宅での死亡者数は、

3333人。過去最多を記録した。

平成15年の1451件から右肩上がりで上昇を続け、2倍以上になっている。

 

平成27(2015)年版「高齢社会白書」によると、60歳以上の高齢者のうち

一人暮らしの男性は約3割、女性は約2割が、会話するのは2~3日に一度以下

となっている。

また、一人暮らしで「つきあいがほとんどない」と回答した女性は

わずか6.6%であるのに対して、男性は17.4%と高い。

ゆとり世代が66万人、団塊ジュニア世代で105万人、団塊世代で33万人、

75+世代(75歳~79歳)で36万人が、社会的孤立が疑われる状況に

あるというのである。

その予備軍まで含めると、約1000万人が さまざまな縁から絶たれ、

孤立していると推測されるそうな。

 

私もその一人だ。私が今住んでいる1kマンションには 12人が

住んでいるが、独居老人が私を含めて4人。その内 顔と名前が

わかり、時々言葉を交わす人は一人のみ。

また、独身女性が数人、若い独身男性も数人いるようだが、

その内、顔を見たことがあるのは3人だけ。あとは全く

わからない。

 

孤独死しても誰もわからない。新聞をとっているのは私だけ。

 先日、北海道に2泊3日で出かけていた時、三日目に新聞店から

携帯に電話がはいった。配達員から「新聞受けに新聞がたまっている」と

連絡があったので、とのこと。ありがたいことです。

 

 

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「仲代達矢」の祖父はスパイと旅役者

2019-07-30 03:12:46 | 虚無僧日記

昨日(7/29)NHK「ファミリー・ヒストリー」で俳優の「仲代達也」。

そのためか、私のブログで 2015/6/3に 書いた記事がアクセス100件ほど

あった。2015年の記事は 次のように書いている。再掲

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読売新聞 6/2 「時代の証言者」に「役者の条件」というタイトルで

俳優の「仲代達矢」氏の生い立ちが書かれている。

父親の「仲代忠雄」は、茨城県長竿村の豪農の長男だったが、

なんと、祖母が旅役者と道ならぬ恋をして生まれた不倫の子。

だから「仲代達矢」は役者の血を引いていたことになる。

その父は、長男なのに家を飛び出して東京に出た。

そして二度目の妻「愛子」の祖父の秘密。なんと中国で

スパイ活動をしていた、愛子が生まれてすぐの時に銃殺された

とのこと。

その後が驚いた。仲代達矢は1932年(昭和7年)に、目黒区の

五本木で生まれたとのこと。私の実家のすぐそば。私は1948年

戦後の生まれ。

「仲代達矢」氏は、私のもっとも好きな俳優です。

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昨晩のNHKでは、祖父が「祖母が旅役者と道ならぬ恋をして生まれた不倫の子」

という話は出なかった。叔父がバンドでアコーディオンを弾いていて、若い時

その荷物持ちを手伝っていたという話はあった。ストリップ劇場にも出入りしていたとか。

 

妻「愛子」の祖父の話は、仲代氏は「中国でスパイ活動をしていて銃殺された」と

聞いていたようだが、NHKの調査では「測量技師として送り込まれ、

川に橋を架けるいざこざに、たまたま通りかかって、村の人たちの誤解から

襲われたとのこと。

仲代氏の「日本人は顔を洗う時、手を動かすが、中国人は顔の方を動かすので

日本人とバレてつかまった」という話は以前にも聞いたことがある。

なるほど確かに、中国人は顔を動かす。

私の父の遺品の中に、中国の戦闘の時の詳細な地図がある。このような地図が

日露戦争当時から多くの日本人が極秘に派遣され、徒歩で歩いて測量して

作られていたことに驚き。

 

さて、仲代氏が生まれた場所の当時の地図もNHKで写しだされた。

なんと「目黒区五本木の五本木稲荷(十日森神社)のすぐ近く。

私の生家と100mも離れていないところだった。

 

NHKでは話されなかったが、祖父が中国で不業の死を遂げたことと

仲代氏の代表作、映画の「人間の条件」の最後のシーンが重なる。

「人間はどう生きるべきか」を役者として貫いてきたテーマという

言葉の意味を重く感じられた。

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奈良少年刑務所の取り組み

2019-07-25 03:36:05 | 虚無僧日記

実戦倫理宏正会の会報「倫風」8月号に掲載

汐見稔幸氏の寄稿「少年刑務所の若者たちのやさしさ」から

奈良の少年刑務所は明治41年の建設。赤レンガ造りの

“美しすぎる刑務所”として知られる。なんと山下洋輔の祖父

山下啓次郎の設計。国の重要文化財。2017年に閉鎖され

このほど「監獄ホテル」として利用されることになり、

最近もテレビで紹介されるなど話題となった。

 

その少年刑務所で、受刑者たちに作詩を指導した寮美智千さんの話。

詩人である寮美千子さんは、この刑務所の美しさに惚れ込んで

奈良に移住。そこで出会った刑務所の職員から「少年たちに

詩を作ることを教えてくれないか」と依頼されて、引き受けることに。

刑務所に入っている少年たちだから殺人や窃盗の罪を犯した人たち。

家族に見放され、社会に背を向け、心を閉ざしている少年たちに

詩を作ることを教える。詩を作ることで一人の子が心を開くと

仲間たちも次から次へと、心を開いて、思いの丈を詩に託す。

その作品は、もう涙無しでは読めない。

「彼らはみなやさしかった」と寮美千子さん。

彼らは加害者である前に被害者だった。

家庭が、親が、社会が彼らを犯罪者に仕立て、そして出所後も

彼らを暖かく迎える社会はない。

寮美千子さんは「あふれ出たのはやさしさだった」「空が青いから

白をえらんだのです」他、何冊も本を出版している。

さっそく買い求めた。もう涙無しでは読めない。

刑務所から出所しても半数が再犯を犯して、刑務所に戻ってくるという。

ネットで検索すると、YouTubeで 奈良少年刑務所の少年たちが

寺社建築の技術を学んで、全員一体となって東大寺の精巧な

レプリカを作り上げた話も乗っていた。中の大仏まで再現している

その技術力と、共同作業の成果は驚くべきもの。こんなにすばらしい

能力をもった少年たちが社会に出てまた犯罪を犯すはずがない。

もし犯罪を犯させるならば、それは社会の冷たい目だとつくづく思う。

 

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寮美千子「あふれ出たのはやさしさだった」

2019-07-25 03:35:45 | 虚無僧日記

奈良少年刑務所の受刑者たちに詩を作ることを教えた寮美千子さんの著書

『あふれ出たのは やさしさだった』から 転載させていただきます。

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題 「くも」 「空が青いから 白をえらんだのです」

たった1行だけの詩。これを作ったのは、父親から虐待され

薬物中毒で言語も不明瞭なD君。その彼がたどたどしく語った。

「ボク の おかあさんは 今年で 7回忌です」

どもりながら つっかえながら

「おかあさんは からだか弱かった。けれども おとうさんは

いつも おかあさんを なぐっていた。ぼくは まだ 小さかったから

おかあさんを 守ってあげることが できませんでした。

おかあさんは 亡くなるまえに ぼくにこう言ってくれました。

『つらくなったら、空を見てね。わたしは きっと そこにいるから』。

ぼくは おかあさんの 気持になって この詩を 書きました」

 

D君のたった1行の詩に こんなに重い背景があったなんて。

仲間たちも 胸打たれ、みなが次々に 心を開いた。

いろいろな思いを 口にし、D君に慰めや励ましの声を。

そして最後に、今まで全く口を開かなかったE君が

「ぼ、・・ぼ・・・ぼくは」必死に何か言おうともがいている。

「ぼ、ぼくは おかあさんを 知りません。でも この詩を読んで

空を みあげたら おかあさんに 会える気が してきました」

 

もう皆 わっと泣き崩れてしまった。教官たちも涙を隠せない。

この子たちは どうして ここにいるのだろう?と思った。

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その言葉が 社会の理解を得られる最大の力になりそう

 

 

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「クリスマスプレゼント」 ほんとうに欲しいものは

2019-07-25 03:08:09 | 虚無僧日記

寮美千子『奈良少年刑務所詩集 空が青いから白をえらんだのです』から

 

「クリスマスプレゼント」

五十二人のクリスマス。

ごちそう食べて、ケーキも食べて

ゲームをやって 思い切り笑って

プレゼントだってもらえるんだ

(中略)

でも ほんとうにほしいものは

ごめんね これじゃない ちがうんだ

サンタさん お願い

ふとっちょで怒りん坊の

へんちくりんなママでいいから

ぼくにちょうだい

世界のどっかに きっとそんなママが

余っているでしょう

そのママを ぼくにちょうだい

そしたら ぼく うんと大事にするよ

(中略)

サンタさん 

ぼくは 余った子どもなんだ

どこかに さみしいママがいたら

ぼくが プレゼントになるから 連れていってよ

これからは ケンカもしない ウソもつかない

いい子にするからさぁ!

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もう 涙がとまらない。

 

もう何年も前、ある養護院の所長の講演を聞いた。

親に捨てられた子、親を失った子を養育する かつての孤児院。

 

「親が事故や病気で亡くなってしまった子はまだいい。

お母さんやお父さんは 星になって、空から自分のことを

見守ってくれている」と思う。あきらめられる。

でも、親に捨てられた子は、一番かわいそう。

この世の中で、一番自分を守ってくれるはずの親から捨てられたのだ。

人間への不信感はたいへんなもの。人を信用しない、信用できない

親への憎悪は、社会に向けられる。

彼らがこの養護院を出て、半数は刑務所か精神病院行き。

彼らに必要なのは、自分を理解してくれる人、愛してくれる人

“愛” だ。

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と。あの話を忘れたことはない。

 

 

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まほうの消しゴム

2019-07-25 02:50:15 | 虚無僧日記

寮美千子『奈良少年刑務所詩集 空が青いから白をえらんだのです』から

「まほうの消しゴム」

なんでもかんでも 消せる消しゴム

いやなことや

いろんな人に迷惑かけたこと

こんな自分を 消せる消しゴム

そんな消しゴムが あったらいいな

 

(寮美千子さんのコメント)

あるわけないだろう! と言いたくなりましたが

L君だって そんなことわかっているはずです。

被害者や被害者の家族、自分の家族まで傷つけたということ。

消すことのできない過去を背負って生きていくのだと思うからこそ

祈りのような思いでつぶやいた言葉。

その重さが、ずっしりと伝わってきました。

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私だって同じ思いだ。

親の期待を裏切り、反抗し、妻子も裏切り、何人もの人を裏切り

随分多くの人に迷惑をかけてきた。

すぐ カァ-ッとなってキレる。人前で騒ぎ、暴れてきた。

そんな過去を、消せるものなら消したい。私の心の傷。

 

 

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秀吉の出自

2019-07-20 22:46:04 | 戦国武将と城

私が今住んでいる所は「中村区中村中町」。秀吉は
「中村ナカ」で生まれたというのが通説になっています。
まさに、私の住んでいる所は、秀吉の生まれた土地
のはずですが・・・・。

ここから1kmほど北の「上中村」に、「秀吉誕生の地」
「豊太閤産湯の井戸」を掲げる「常泉寺」があります。
秀吉亡き後、加藤清正によって建てられたとのこと。
山号は「太閤山」です。

その寺の案内パンフレットに、驚くことが書いてありました。

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太閤のご母堂「大政所」は、藤原保通の娘。「保通」は
朝廷に仕え、後柏原天皇の重鎮でしたが、永正10年(1513)
失脚して 一時、尾張国中村に隠居。この時娘「仲(後の
大政所)」が生まれる。後許されて京都に戻り、娘の仲は
容姿端麗な娘に成長し、後奈良天皇に寵愛されて懐妊。
周囲の姫たちの嫉妬を恐れ、名古屋に逃れ、筑阿弥の
家に寄寓し、男児を産む。これ即ち後の「豊太閤」。
そして、筑阿弥との間にも「秀長、旭姫」をもうける。

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じゃん!。つまり秀吉は、なんと「後奈良天皇の御落胤」
とうことらしい。(「一休さん」の話しと似ている)

そのような話、聞いたことがない。出典も明らかにして
いない。ネットで見ると「関白に任ぜられた時に書かれた
『関白任官記』に「母親(大政所)の父は萩の中納言で
あり、大政所が宮仕えをした後に生まれた」とあり、
「出自を由緒正しくするために書かれた」とされる。
明らかに、系図詐称です。

一般的には「秀吉の母親は、尾張国愛知郡御器所村に
生まれた」とされる。「御器所(ごきそ)」は私が以前
住んでいた所です。私も「御器所」から「中村」に
引越してきました。

誰が読んでも“嘘”とバレる話を堂々と、寺伝に
掲げるのは、さすが「日蓮宗」の寺。ごリッパ。

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秀吉の出自 2

2019-07-20 22:43:35 | 戦国武将と城

服部英雄の『河原ノ者・非人・秀吉』(山川出版)は、
秀吉の出自について書かれた史料を網羅しています。
それには「後奈良天皇の御落胤」説は出てきません。

これによると「秀吉の出生地」は諸説あって「中中村
(現中村中町)」説も怪しいようです。「秀吉誕生地」と
される「常泉寺」は「上中村」にあります。

さて、本書によれば、どうやら「秀吉は清洲で生まれ、
母の再婚により中村に移り住むことになったが、養父と
折り合いが悪く、秀吉は家を飛び出し、ストリート・
チルドレン(乞食)になった」と。

当時、信長の城は清洲であって、秀吉の叔父や周辺の
者は、清洲の「乞食村(非人村)」に関係している者が
多いといいます。秀吉の出自は、乞食(薦=こも)で
あった。

現名古屋市の中村区は、当時は畑ばかりの土地でした
から、秀吉の育ちは「中村」で「農民の子」となります。

秀吉が小田原北条攻めに向かう途中、中村を通った時、
供をしていた小早川隆景に語ったという話に、「自分は
この中村で育ち、わやく(無茶・非道)なることをして
遠江に落行し・・・・」と。

「生まれ」ではなく「育った」と語っています。

秀吉は、矢作川の河原(橋?)で薦を被って寝ていた
ところを 盗賊の頭だった蜂須賀小六に拾われた話は
有名で、乞食同然の生活だったのは明らかです。

この「小早川隆景」に語った話は「中村の農民には
年貢を免除してやろう」。そしてまた「仁王という
わっぱがいて、いじめられた。あの遺恨は忘れられない。
まだ生きていたら、捕らえて斬り殺してやろう」と、
かなり具体的な内容になっており、信頼できます。

服部英雄の『河原ノ者・非人・秀吉』では、戦には
荷駄の輸送、馬、馬具、牛皮製品は必需で、散所民
(無戸籍)、非人、穢多の役割は重要だった。彼等の
協力なくしては戦はできなかった。秀吉の親類、縁者、
仲間にはそのような民が多いと結論づけています。

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徳川家康も非人の出だった?

2019-07-20 22:41:01 | 戦国武将と城

明治35年 村岡素一郎が『史疑・徳川家康事跡』を
世に出して「徳川家康 替玉説」を唱えた。

家康の伝記には不可解なところが多い。まず、
三河松平の出でありながら、「徳川」に改姓し、
松平本家の「太郎左衛門家」は、江戸時代を通じて、
わずか五百石と冷遇されていたこと。
正室の「築山殿」と長男の「信康」を、あっさりと
殺害してしまったことなどである。

その謎に、初めてメスをいれた書である。

村岡説は、「松平」氏は本来、三河松平郷の豪族で
「藤原」」姓であったのに、家康が「先祖は 新田一族の
世良田某で、「源」姓であると系図を作り変えたことに
疑問を投げかけ、家康自身が、流れ者の願人坊主「世良田
二郎三郎元信」で、桶狭間の後、岡崎の「松平元康」を討ち、
元康にすり代わったというもの。

「願人坊主」とは、物乞いをする有髪の僧を指す。
(これは虚無僧と同じ)

「世良田元信」は駿府生まれの駿府育ち。永禄3年、
「桶狭間の戦い」の直前、元信は、駿府に人質として
きていた岡崎の松平元康の子「竹千代(後の松平信康)」を
誘拐して逃走した。

そして 桶狭間で義元が信長に討たれると、混乱に乗じて
浜松城を落とし、織田信長と通じて、岡崎の松平元康を
暗殺する。

「元信」の切り札は「元康」の子「竹千代(信康)」を
擁していたことだった。

村岡説では、家康の祖父「松平清康」が家臣の阿部弥七郎に
暗殺された「守山崩れ」は、実は「元康の死」を「清康の死」
としてカムフラージュして語らせたもの。「先祖が徳川郷から
流れてきて松平の養子になった」という系図は、先祖ではなく
「家康」本人の話。

そして、「松平元康」の正室「築山殿」とその子「信康」は、
邪魔な存在だから殺してしまった。

ま、これで「家康」にまつわる不可解な事件は、すっきり
納得がゆく。もちろん、歴史学者はみな「荒唐無稽」な
創作話ととりあわないが、「家康」の出自が「願人坊主」と
いうことに私は注目する。

虚無僧が「神君家康公のお墨付」を頂いていると主張し、
それが徳川200年の間、通用してきた。幕府もそれが
「偽書」とわかっていながら黙認してきた。現代なら
「公文書偽造」で即刻逮捕。江戸時代なら死罪は免れない。
それがまかり通ってきたのはと、家康の出自が「願人坊主」で
あったことに関係しているのではないかと思えるのである。

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「徳川家康公遺訓」も贋作

2019-07-20 22:36:05 | 心の問題

『徳川家康公遺訓』というのが、徳川ゆかりの地、日光や名古屋を
はじめ、あちこちの観光地で売られています。

「人の一生は重荷を負って遠き道を行くが如し 急ぐべからず
不自由を常と思えば 不足なし 心に望み起こらば 困窮したるときを思い
出すべし 堪忍は無事長久の基 怒りは敵と思え 勝つことばかり知りて
負くるることを知らざれば 害その身に至たる 己を責めて人を責めるな
及ばざるは過たるより 勝れり」

さすが「家康公!」と讃辞を送りたくなる内容です。ですが、これも
後世、誰かが作って、世に喧伝されたものと言われます。
その論拠は、

1に、東照宮に伝えられて遺墨の筆跡や花押は、家康のものと認め難い。
2に、江戸時代初期の史料には一切見いだせない。
3に、家康生存時代このような人生道徳論や人生論など例はなく、
   もっぱら軍事政治優先した時代であった。
4に、慶長年間「1595年から1614年」の文体でなく、歯切れも良く、
   口調がまとまり過ぎていて、後世の名文である。
 

実戦倫理宏正会刊行の『倫風随想』に「徳川家康の遺訓は、日光東照宮の

「言わず、見ざる、聞かざる」の猿同様、「民をして知らしむべからず」の

封建制確立後、民衆に“忍従”を強要したもの」と。さすがお目が高い。

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