現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

郡長正割腹の真相

2021-06-26 19:44:26 | 虚無僧日記

郡 長正(こおり ながまさ)を知っていますか?

郡 長正は会津藩家老 萱野 長修の次男として生まれるが、明治2年父が会津戦争の責任を負って自害すると、お家断絶。郡姓に改姓した。

明治3年豊前豊津藩(旧小倉藩)の藩校 育徳館に留学する。
ところが、翌明治4年5月、郡 長正は育徳館の寮で自害して果てた。遺書はなく、戦前の書物では「母親に寮の食事の不満を述べた手紙を同輩に見られたことを恥じての自害」とされてきた。
 
数年前ですが、小倉から行橋、そして豊津(現 みやこ町)へと虚無僧で旅してきました。目的地は、みやこ町にある郡長正の墓参り。そして旧豊津中学(現育徳館)内にあるという郡長正の碑を訪ねたのですが、在校生に訪ねても誰も知らないというのでがっかり。失望して帰ってきました。
 
「郡長正」の話は、私も幼い頃から母に聞かされており「食べ物の不足はいってはならない」と教えられてきました。
昭和16年に亜細亜書房から出された狭間祐行著「維新秘史 会津戦争」も読んで感銘を受けました。
 
 
しかし、子供心に「長正が食べ物の不足を母に愚痴るはずはない、そんな事で腹を斬るわけがない」と疑問に思っていました。
 
ところが平成15年宇都宮泰長氏によって「会津少年郡長正自刃の真相」という本がだされ、納得です。
 
その場に居合わせた豊津藩・育徳館の人たちの子孫たちが語り伝えていた真相です。「母親への手紙」というのは作家の創作。当時明治4年郵便制度はまだ未発達で、母親との手紙の往還などあり得ないということです。
 
育徳館に留学した仲間に「神保修理の子神保岩之助(長正とは従兄)がおり、長正が鳥羽伏見の敗因を作った神保修理を責めたたりして留学生同士の喧嘩が始まった。その仲裁にあたった豊津藩の生徒に対して、長正は「小倉(後に豊津)藩は長州に攻められた時、城を捨てていち早く逃げたではないか」とやじった。これに対して、豊津藩の中川三郎が「いや逃げたのではない。町人たちが戦火に巻き込まれるのを避けるため、ここ豊津まで移動して、長州を相手によく戦い、持ちこたえた」と説明した。そして「会津藩も山間部で戦えば、冬までの持久戦になって被害も少なかったであろう」と。長正の父萱野長修はまさに、越後口の山間部で戦っていた。長正は「それみろ、父は正しかった」といってまた仲間内の争いがはじまった。また、中川三郎は「豊津藩は会津戦争後、猪苗代から数百名の会津藩士を東京までの護送の任にあたった。その苦労は筆舌に尽くし難い。豊津藩としては会津に同情して厚遇したが、脱走する者が後を絶たず、当藩は責任を問われた。諸君らは戦争の勝ち負けを今更論じても始まらない。学業にいそしみ、会津藩を再興すべきだ」と諭した。その言葉に長正は深く反省し「豊津藩に暴言を吐いたことを詫び、殿様にあやまらなくてはいけない」と神妙になった。それを心配して、長正を一時家老宅に預けたが、寮に帰したところで、また仲間同士言い争いとなり、その晩、長正は腹を切ったというもの。
 
「食事がまずい」と母に送った手紙を読まれて「会津の死に損ない」とやじられ腹を切ったというのは、後世の作家の作り話。私はこうした作為に憤りを感じます。
今、復元された日新館内にこのような展示があるそうな。真相が分かった今、このような展示はやめるか、真相を書くべき。それを頑固に変えようとしないのが会津人の気質か。
だから私は、復元された会津武家屋敷も日新館も飯盛山も行きません。崇高なる武士道が、嘘でかためたお涙頂戴の観光売り物にされることに、私は辟易します。
 

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1 コメント

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若者の命 ()
2022-07-21 21:28:03
長政の話は、今までの人生で、あえて聞くことは無かった。
郡長政の名前は、石碑が立っていたので知っていた。
時あれば誰にも知られず知りたいと思っていた、長政は食事がまずく藩の面汚しと、ののしられて自刃したと、今まで思っていた。
幸いにも運よく、ここまで読めて、この欄を読む機会があり、真相を読めた事を嬉しく思います。
自決真相と原因が確信に入った気がします。
途中は干し柿を送ってくれとも、書いている記事も有った。
会津に旅行に行って、バスガイドの説明で飯盛山の自決の説明がありました。
色々と知識が豊富なバスガイドでした。
ガイドに郡長政の話をしましたが、全く知りませんでした。
地元では不祥事での自決で、あえて伏せているのだろうか?
会津と豊津の、お互いの交流の記事は目にします。
会津藩の教訓を見ると伏せているのが推察される。
昨今、若者は何かあれば自殺します。
こういった教育がなされていないのか、故意に伏せているのか知りませんが、全国にまたがる数々の出来事や世間を知らない若者は、今の環境や自分の持っている知識だけで誰にも相談もできず自殺に走る。
自分勝手の出来事と判断知識で喧嘩した行為は、自分だけの考えで思考停止して、相手の出方で誤解を生む事も判断できない。
その結果の自殺行為に繋がった物だろう。
中川三郎が若者に諭した豊富な知識の中で討論して、お互いが理解し合えれば、こんな結果にならずに済んでいたと思う。
現在社会に入り、未だ隠し通しても良い結果に繋がらない。
この出来事を直面して真摯に向かい合い、事の真意を多くの人に広め、今の若者の教育の場に取り入れてほしい。
自分も今までは、この出来事をあえて聞こうとしないで見過ごして来た人生に恥を感じる。
豊津町に行って聞いても、誰も知らないと書いていますが、この出来事は一人の作家の意図が強く地元に根付いて昔から伏せる風習が伺える。
これからは教育方針が変わるが、若者の自殺の議題として是非取り入れてほしい。
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