現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「虚無僧」修行再開 26/7/5 名古屋駅前 外国人に囲まれて

2014-07-07 21:28:46 | 虚無僧日記
ようやく、部屋も片付き、10/26の能楽堂に向けての
準備も整った。今日から毎日、チケットを売り歩こうと
虚無僧を再開。町に出て、出会った人に、公演の案内を
しようという魂胆。

虚無僧でのお布施は二の次なので、どうも、尺八に身が
入らない。そのせいか、お布施はサッパリ。消費税8%の
せいか、一円玉ばかり。やはり 自分の心の有り方なのだろうか。
それとも、世の中が急激に虚無僧から離れていっているのだろうか。

外人でさえ、虚無僧に関心を示さない。と思いきや、今日は
名古屋駅前で、少々、いやだいぶ色の黒い一団に取り囲まれ、
交代で私の側らに立って、記念撮影とあいなった。


最後に、大きなカメラを抱えた男性が、私に近寄ってきた。
聞くと「スリランカ」からという。小乗仏教の国だ。

ぎっしりお札が詰まった財布から、よいしょよいしょと
千円札を取り出して、私のげ箱に入れてくれた・・・・?
「しめた、これで帰れる」と、ウキウキ、家に帰って
げ箱をひっくりかえしたら、お札は見当たらず。
出てきたのは10円玉だけ。

なんや、狐につままれたか。小判が葉っぱだったという
感じ。今日も夕飯抜き。最近 3kgも痩せました。


「ないていください」?

2014-07-07 20:54:54 | 虚無僧日記
名古屋駅前の、いつもの私(虚無僧)の立ち居地に、最近
毎日、若者がプラカードを掲げて立っている。

「ないて~いくださ~い」の声に「泣いてください」かと
思ったら「内定 下さい」。つまり就活中で、なかなか
決まらないので、街頭にたってのパフォーマンスのようだ。

こんな所に昼日中立ってたって、企業の人事部の人は
通らないだろう。「もっと することあるだろうに」と
思ってしまう。

さて、5時以降は、私がそこに立つ。
若い女性が 私を見て、にらみつけるような顔で
「他に やることあるでしょうに」と、吐き捨てていった。

ゲゲゲ、昼間の学生と一緒かぁ。

なるほど、私の目の前でせっせとティッシュ配りをしている
お姉さん。日当は6時間で6千円にもなるそうだ。

同じ時間、尺八吹いて200円がやっと。善意の喜捨に
すがるより、ティッシュ配りのアルバイトでもした方が
たしかに金にはなる。

でも世の中、金の価値では計れないものがあるのよねぇ。
「泣いてぇぇ くだせぇぇぇ」。就活中の学生の方が
切実だねぇ。

誰も知らなかった一休の真実

2014-07-07 01:21:17 | 一休と虚無僧
不思議な女性に逢った。MARUさん。

伏見の地下街。人通りのないシャッター街。そこに
一軒明かりが灯る。「夢画廊」。そこで絵の個展と
唄のパフォーマンスを行うというので行ってみた。

彼女の唄は 独特の世界観。目を閉じて歌う姿から
「森女(しんにょ)」のことを思い浮かべていて、
突如ひらめいた。今まで解けなかった「一休と森女」の謎。

一休は77歳で「森女」という盲目の女性にめぐりあい、
88歳臨終まで、溺愛する。一休の弟子たちによって
書かれた『一休和尚年譜』には、なぜか「森女」の
ことは書かれていない。妻帯を禁じられている禅宗の
僧である。大徳寺の住持となった一休が女と同棲して
いたことは隠すべきことと思ったのか。

しかし、一休は自著『狂雲集』で、「森女」への愛を
赤裸々に歌っている。

さてそこで、水上勉などは、一休を単なる「エロ坊主」
と描いている。大方の書は、「森女」は貧しい生まれの
辻女、旅芸人。一休は彼女の境涯を哀れんで、庵に
招きよせて同棲したとする。「森女」を「琵琶法師」
だの「三味線を弾くゴゼ」だのとするものまであり
ビックリである。女の琵琶法師なんて存在しない。
三味線なんて、一休の時代には無い。ゴゼは明治の
ものだ。

しかし、一休があそこまで赤裸々に男女の交わりを
語るということは、何か裏があるとしか思えない。
また「森女」は、“無学な乞食女”とは 思えぬ
気高さと気品が感じられる。

それが「一休と森女」の謎だった。それが解けたのだ。

一休の『狂雲集』によれば、「森女」は、かつて、
薪村の酬恩庵まで、一休を訪ねてきている。「森侍者」は
「余の風采を聞いて」訪ねてきたとある。そして
「森女」は[王孫」であり、その「美誉」を聞いて、
二人である約束事を交わしたというのである。
その約束とは、今までは、男女の契りと考えられてきた。
しかし、一休は忘れていたという。男女の契りを忘れる
とは、なんとつれない。


一休はその約束事を忘れていたが、住吉の薬師堂で
再会して、そのことを思い出した。「森女」の方は
約束を覚えていて、また相思う関係となったというのだ。

一休は「森女」のことを「一代の風流美人」といい、
「森女の深恩を もし忘れるようなことがあったら、
あの世で畜生の身に落ちるだろう」と詠じている。

一休は森女に頭が上がらないほどの深い恩愛を感じている。
「三世を約束する」ほどのそ深い恩とは、単なる男女の
情交とは思えない。

そこで、もうひとつ、住吉神宮について、大変な事実が
隠されていたことがわかった。

住吉神宮は、かつて南朝の後村上天皇の行在所であり、
南朝の遺臣の拠り所だった。また、住吉神宮は当時
神仏習合で、神宮寺は大徳寺の一世「徹翁」の弟子
「卓然宗立」の創建であった。つまり、住吉は大徳寺と
深い関係があったのである。

住吉の神主は「津守」氏である。「森女」はまさに
「津守(もり)の女(娘)」であり、「王孫」と
いうのだから「後村上天皇」の子「後亀山天皇」の
孫娘ではなかったか。その系統は山伏の本山、京都の
「聖護院」や熊野の「天河神社」と深く関わっており、
双方とも「森御殿」と呼ばれているのだ。

一休と森女は、ともに、天皇の血筋であり、また
南朝方ということで結ばれていた。そして、住吉神宮は
芸能が盛んで、舞楽を伝えていた。であるから「森女」は
住吉神宮の宮司の娘で、巫女として舞楽を演ずる女性
だったのである。

「森女」はある目的をもって、薪村に一休を訪ねた。
その約束を一休は忘れていたが、住吉神宮で偶然再会
したことで、約束を思い出した。その約束とは。

一休を大徳寺の住持として入山させることだった。
一休は、大徳寺の「華叟」から印可を認められたが、
それを受け取らなかった。つまり大徳寺の住持になる
資格を得たが、それを拒否した。それで、大徳寺の
住持は兄弟子の「養叟」がなったが、この「養叟」と
一休は犬猿の仲で、はげしく対立した。

大徳寺の開祖「大燈国師」は賀茂の河原で20年
乞食の行をした。一休と養叟の師、華叟は大徳寺から
離れ、堅田で厳しい禅の修行一筋だった。しかるに
なんぞ、養叟は、大徳寺の奥に居座り、裕福な商人たちに
禅を金で売って、私腹を肥やし、安逸に暮らしている。
それが許せんと怒りをぶつけていた。

「森女」は住吉の神宮寺の津守氏の使いで、大徳寺に
はいることを打診してきた。しかし「住持」という
肩書きや権威を一切否定してきた一休である。最初は
そんな気は全く無かった。だから、そんな約束は
忘れていたのだ。

それが、住吉薬師堂で「森女」と偶然に再会して、
大徳寺入山のことが、現実になっていった。

養叟亡き後も養叟の流れが大徳寺の法脈を継いでいた。
敵対する養叟一派を大徳寺から追い出すには、自分が
大徳寺の住持になるしかない。それには「卓然」の
法脈につながる住吉神宮の後押しが必要だったのである。

一休は「森女」に導かれて住吉神宮との縁ができ、
そのバックアップで大徳寺に入山し、長年の養叟一派への
恨みを晴らすことができたのである。


「平成の虚無僧一路、一休を語る」のブログも開いています。こちらにもアップしました。