平成の虚無僧一路の日記

平成の世を虚無僧で生きる一路の日記


8月23日は先祖の命日

2019-08-23 09:19:25 | わが家のこと

わが家の先祖は、本家(300石)と分家(150石)の2家ありました。

戊辰戦争当時、本家の牧原一郎は64歳、分家は弟の奇平は61歳、

さらに弟が数人おり、私の直接の先祖は末の弟牧原でした。

 

分家の方が血脈が途絶え、本家(一郎)の弟「牧原奇平」が分家を

継ぎました。は61歳で郡(こおり)奉行。

農民、僧侶、神官、相撲取りを集めて戸の口に向かい、白虎隊他

藩兵たちの食料調達に、付近の部落を回りました。白河口から引き上げて

きた部隊が、西軍に獲られるよりはと、村々を焼き払ったため、

村人の反感をかい、食料調達ができず。その責任を負ってか、

強清水で自刃して果てました。

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強清水の戦い

2019-08-23 09:16:56 | わが家のこと

テレビドラマでは、白虎隊も官軍と派手に斬り合いを

しているが、実際には刀槍を交えての白兵戦は行われていない。

実は、私の先祖「牧原源八郎」は、嫡男ではないから

「石(ごく)つぶし」。北会津村の名主「新田」家に居候し、

村人に読み書きソロバンを教え、医術なども施していた。

「官軍、会津に迫る」との知らせに、槍をもって城に向かった。

会津藩の成人はみな四方の国境に出払っていたから、城下に

残っていたのは老人と少年だけ。わが家の本家「牧原一郎」は

65歳で殿様を警護して滝沢本陣まで出陣。その弟の「奇平」は

63歳で「敢死隊」を率いて強清水(こはしみず)まで出向いた。

牧原源八郎は44歳、叔父の奇平に従っていた。

急遽 駆りめられたのは 郷頭、肝煎、僧侶、神主、相撲取り。

「士分に取り立てる」という俄かしのぎの口約束でかり集められたが

鉄砲も刀も扱ったことが無い。もっとも「牧原奇平」は郡奉行で

付近の村々を回っての食料調達が任務だった。

しかし迫りくる大砲、鉄砲の音に驚いて、隊員はみな逃げ出して

しまった。その責任をとって奇平は強清水で自決。

源八郎は、左腕に鉄砲玉が当たって負傷し、城の南を廻って、

北会津の新田家まで戻った。そこで手当てを受け、一命を

取り留めたことで、子孫が存続し、私がいる。。




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牧原一郎の家系

2019-08-23 09:14:39 | わが家のこと

本家の「牧原一郎」について

隊長格。再編第一大隊参謀。「慶応年間人名録」及び
「戦死殉難人名録」では、「牧原一郎(御供番頭) 8/23 
甲賀口の自邸前で没(65才)。

長男か?「牧原源六郎(勘太夫か?)」が家督を継ぐ。(三百石)


次男「源次郎(京都で「大砲組御雇」)23日 戸の口原で戦死(37才)

三男「源蔵」も「源次郎」と共に 京都で「大砲組御雇」。

四男?「牧原豊四郎」。9/23 甲賀町口の自邸で父「一郎」を介錯する。

五男?「牧原文吾」は「松井九郎」と改名し、幕臣となり、大鳥圭介に従う。
「別伝習隊参謀」隊長格。「再編第一大隊」参謀。
尾瀬の守備隊長となり足利藩と戦い、会津へ、8月23日、戸の口原
または大野原で戦死(34才)。宮氏岩太郎の「函館脱走海陸軍惣人名」では、
8月24日若松城下で戦死。「天極記」でも「七日町で戦死」とある。

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美化された白虎隊

2019-08-23 09:10:00 | わが家のこと

8月23日を我々会津人は生涯忘れない。この日は白虎隊自刃の日なのだ。
一人蘇生した飯沼貞吉は「会津戦争のことを我が子にも語らなかった」と。

この日、薩長土の西軍は、母成峠を破って怒涛の如く会津に迫った。
この時会津藩は、藩兵の大半を日光、長岡方面の国境に派遣していたから、
城には老人と子供しか残っていなかった。そこで白虎隊と老人組が藩侯に
お供して滝沢口へと向かった。我が家の先祖も、牧原一郎67歳と弟の奇兵
62歳が老躯をかって殿の御前に伺候した。そして奇平は、僧侶、山伏、力士
を駆り集めて戸の口が原に出陣した。兵力は白虎隊50名を含めても2、3百人
ではなかったか。これで3万の西軍に敵うわけがない。しかも相手は大砲を
撃ち込んでくる。白虎隊のヤーゲール銃では太刀打ちできない。まして、
テレビ、ドラマで見るような刀を抜いての白兵戦などなかったのだ。


実際は、白虎隊は一晩中雨の中で砲声を聞きながら、寒さと空腹にふるえて
いた。夜が明けると、街道を進軍する官軍を見つけて、山中を逃げまどった。
僧侶や力士も砲声に驚き、戦わずして逃げてしまったので、牧原奇平は責任を
とって自刃した。一郎も殿様が城に逃げ帰る途中、「足でまといになっては
申し訳ない」と、自宅に帰り自刃している。牧原邸は甲賀口門前にあり、
西軍を喰い止めるための激戦地となった。

そして白虎隊も本隊は皆急ぎ帰城しているのだが、一部はぐれた者20名が
飯盛山で自刃した。彼らはほとんど戦っていないのだが、それでは話になら
ない。明治、大正、昭和と軍国主義の高揚の過程で、自刃した白虎隊士19名
だけが異様に賛美され、「国難に殉じること」が美化、喧伝された。まともに
戦って城に帰り、さらに籠城戦を戦い抜いた他の隊士たちは、生き恥を晒し、
肩身の狭い生活を余儀なくされた。我が一族にも生き残りの隊士がいたが、
戦後東京に護送され謹慎の後、行くへ不明である。川崎市鶴見の牧原一郎氏が
本家であるが交流も面識も無い。一郎氏は故人となられた由。

というわけで、会津人には、不快を感じるかと思われるが、白虎隊の賛美が、
太平洋戦争の玉砕、特攻の悲劇へとつながっていったと思えてならない。
白虎隊が悪いのではなく、それを喧伝材料にした軍の参謀本部が悪い。


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運輸秘書官の見た終戦秘話

2019-08-15 08:29:57 | わが家のこと

この時節、毎年アップさせていただいております。再掲です。

私の叔父牧原源一郎は、終戦時国会議員で小日山運輸大臣の
秘書官だった。小日山直登氏は、戦局不利となった昭和20年
5月、東条英機の後を受けて組閣された鈴木貫太郎内閣で、
満鉄総裁から運輸大臣に登用された。小日山氏は会津出身で、
大臣就任とともに、同郷の代議士牧原源一郎を秘書官とした
のである。その牧原源一郎が『小日山直登を偲ぶ』という本を
遺している。それによると、

「小日山運輸大臣は、秘書官(牧原源一郎)を伴って、九州各県の
慰問のため、7/18 東京を発ち、佐賀、長崎、熊本、鹿児島、宮崎、
大分と1週間かけて巡回。帰途、広島に立ち寄った。西部司令官の
畑俊六元帥、広島県知事の高野源進氏もともに同郷人(会津出身)
であったから、その夜、会食を共にした。この晩も多数の敵機が
上空を飛んでいたが、一発の焼夷弾も落とさない。市民は「広島には
爆撃は無し」と考えていたようにも見受けられた。ところが、その
日から10日たった8月6日には、原子爆弾を投下され、高野知事の
夫人も死亡された。畑元帥と高野知事は幸いに難を免れた。

翌日は、大阪で当時大阪鉄道局長をされていた佐藤栄作氏(後の
総理大臣)が出迎えてくれ、この日は、佐藤局長の案内で京都に
遊んだ。その夜、東海道大垣付近でB29の大空襲に遭遇した。
そんなことがあったため、予定は随分遅れて、29日に漸く東京に
帰ることができた」と記されている。

東条英機にも面会している。東条は「もう自分でも、どうしたら                                   よいか判らない」と弱気だったとのこと。

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小日山運輸大臣の終戦

2019-08-15 08:19:50 | わが家のこと

私の叔父(父の兄)「牧原源一郎」は、終戦時、衆議院議員で、同郷(会津)の

「小日山 直登・運輸大臣」の秘書官だった。『小日山直登氏を偲ぶ』

という本を上梓している。それによると・・・・・

「小日山」氏は 満鉄総裁から関東軍の推薦で、昭和20年5月1日、

「鈴木貫太郎」内閣に入閣した。7月18日から、西部方面の鉄道輸送路の

視察に赴き、佐賀、長崎、熊本、鹿児島、宮崎、大分と一周して、

一週間後というから7月26日、広島に立ち寄っている。

ここで「畑 俊六・西部方面第二軍司令官」「高野源進・広島県知事」

「大塚惟精・中国地方総監」と懇親している。その後は、大阪で

「佐藤栄作(後の総理大臣)・大阪鉄道局長」の案内で 京都に遊び、

29日に帰京している。

どこの都市も空襲が激しくなり、大分と大垣で列車が襲撃され、

危険な旅ではあったが、京都と広島は空爆されないと知って

いたようだ。

さて、帰京してから8月15日終戦までの、一日一日が緊迫の途。

極秘のうちに終戦工作がなされ、近衛文麿をソ連に派遣して

終戦の仲介を頼もうということになった。もう“溺れるもの藁をも

掴む” なりふり構わずである。モスクワ駐在日本大使は、小日山

大臣の義兄「佐藤尚武」氏で、小日山大臣の娘婿の「湯川盛夫」

(外務省の若手外交官)が、 近衛公より先に行くことになったが、

出発が幾度か変更された。

 

そうこうしているうちに、6日、広島に原爆。9日には長崎にも

落とされ、ソ連が国境を越えてきたとの情報。

「小日山」氏は満鉄の総裁で「関東軍」の推薦で入閣したから、

陸軍の人気も高く、会津人であり「徹底交戦派」かと思われていたが

さにあらず。「鈴木貫太郎・総理」に心服し、その意向を受けて、

終戦に向けてのさまざまな道を模索されていた。

8月9日、総理官邸で臨時閣議が開かれた。各大臣の意見は

まちまちで、真夜中の11時、総理は宮中に参内して、閣議の

模様を陛下に御報告。ただちに「戦争最高指導者会議」が開かれた。

この会議は「内閣総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、

陸軍参謀総長、海軍軍令部長」の6人で構成。時間は容赦なく

経過して、10日の午前3時。総理が戻られ、再び閣議。

この時、「終戦」派が7、「徹底抗戦」派が3、「条件付き終戦」が

5のようだった。

11日、「ポツダム宣言受諾の用意あり」と、アメリカに打電。

12日に「バーンズ米国国務長官」の回答が、米国から放送され、

その内容について閣議を開いて検討。

14日、「閣僚全員即刻宮内に参内せよ」との思し召し。

異例のことで「平服のままでよろしい」とのお達しだったが、

豊田軍需、太田文部大臣は、開襟シャツだったため、

「いくらなんでも、陛下の前にこのままでは出れない」と

いうので、私(牧原)のYシャツとネクタイを貸した。

 

聖断がくだり、阿南陸軍大臣が、閣議のあと、真っ赤に

血走った顔で巾広の軍刀をガチャつかせて、総理の部屋に

入っていかれた。定めて、最後のお別れの挨拶であったと

思われる。それから まもなくして、割腹自殺された。

 

終戦の動きを察知した過激派将校たちが不穏な動きとの

知らせ。案の定、その夜、総理官邸が暴徒に襲われた。

下村情報局総裁が拉致されたとか、近衛師団長が射殺

されたとか、青年将校たちが野砲を宮城内に据え置いた

とか、放送局が占拠されたと、さまざまな情報が乱れ飛んだ。

(中略)

そして 8月15日の「玉音放送」。省員を大講堂に集めて、

玉音を拝聴。泣かぬものはない。悲しいというか、悔しいと

いうのか、力が抜けて、ただ涙が出るばかり。広い講堂の

床には、一面に涙の跡が残っていた。

 

翌日には「鈴木貫太郎内閣」は総辞職。「東久邇宮内閣」が組閣。

前閣僚で残留したのは「小日山運輸大臣」ひとり。しかし、

翌年には「小日山」氏も 私 (牧原) も 「公職追放」。議員を辞し

閑居する。

 

私の叔父「牧原源一郎」は、一代で田畑を買いあさって大地主と成り、

福島県一の多額納税者として、衆議院議員に推され トップ当選。

同郷の小日山氏の秘書官として仕えたが、戦後の「農地解放」では、

進んで田畑を小作人に分け与えた。その時のショックからだろうか、

妻(私の叔母)は自殺しているが、叔父は、その後、長らく 「北会津村

村長」を勤めた。 叔父の生涯は、NHK TVでも 特集された。

 

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父の終戦

2019-08-15 08:17:33 | わが家のこと

私の父「牧原五郎」は、昭和16年春、慶応大学を卒業して

東京電力に入社。 勤務わずか4ヶ月で徴兵。8月に故郷の

会津若松連隊に入隊し、12月に支那へ。満州から中支、南支まで、

ひたすら行軍。 「徐州 徐州と 軍馬は なびく~」の歌の通り。

 

父は「主計少尉」だったので、食料や衣類の手配が職務だから

直接戦闘に加わることはなかったが、何度も敵の襲撃を

受けて、死に目に遭っている。多くの部下、戦友を失ったが、

「自分は、一人も人を殺すことはなかった。そのおかげで、

無事 帰還できたのでは」という。

昭和21年の5月に引き揚げてくるまで、4年と半年、

戦争という未曾有の世界の中で 戦ってきた。

その思いを東電を定年退職してから 『従軍記』 として

ノート2冊に書き残していた。 「終戦」の項は

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新寧を出てから数日後、昨日までは日に何度となく

ブンブン襲ってきていた敵機が、今日は朝から全然

姿を見せない。「おかしいなァ。変だァ」と思った。

そのうち「広島に 今までにない ものすごい爆弾が

落とされたそうだ」「日本は降伏したらしい」との口コミが

流れてきた。噂は通信隊から出たようだった。

半信半疑でいたら「将校集合!」の指令があり、

大隊長のもとに全員集まった。大隊長から 「只今、

軍旗を奉焼し奉れ」との命令があったと発表された。

これで降伏は決定的。噂は本当だったと思った。

涙がとめどなく流れ、田んぼの中に入って泣いた。

ショックが収まると、今度は、「遺骨になってでなければ

帰れないと思っていた内地に、これで生きて還れる」と、

うれしさがこみ上げてきた。

しかし、一つの不安が沸いた。徹底抗戦に凝り固まっている

連中が「我々は降伏を認めない。最後まで戦いを続けよう」

と言い出しはしまいか、と心配になった。

それは杞憂だった。皆 案外素直だった。

 

それからは、我々は全く意気消沈。敗軍の将兵はただ黙々と

武漢まで歩き続けた。

漸く武昌に到達し宿営していた時、「貴部隊は 湘桂作戦の時、

多数の良民を連行して行ったが、その者たちをその後どうしたか

報告せよ」と、支那軍から言ってきた。あわや「戦犯」かと思った。

たしかに、物資の輸送のための要員として、多数の良民を連行

した。然し、彼らは途中でポロポロ逃亡した。後まで残っていた者も

「湖南省から先は絶対に行きたくない」と言うので、衝陽攻略戦が

終わった頃、皆解散した。もちろん、それまでの賃金は払ってやった。

その旨、回答したら、その後  支那軍からは何も言ってこなかった。

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この後、九江近くの部落で 10ヶ月もの間、抑留生活にはいる。

当初は村人たちも穏やかで、食料調達に協力してくれたりしていたが、

やがて、新四軍(共産軍)が入り込んできて、日本兵がさらわれたり、

掠奪しに襲撃してくるようになった。軍刀、拳銃は所持していたが、

抵抗することはできず、敗戦の悲哀をしみじみ感じた。

昭和21年5月20日、やっと「乗船命令」が出て、九江から揚子江を

くだり、南京に上陸。そこから貨車に詰め込まれて、上海へ。

途中、関門があって、貢物を要求され、また列車が停車するたびに

支那人が掠奪しに襲ってきた。

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その後、上海から引き揚げ船で 日本に帰還。 満州でソ連に抑留された

人たちからみれば、比較的順当な帰還だった。

しかし、その最後に、佐世保で船が座礁し、転覆。海に投げ出される。

「日本まで、無事帰ってきたのに、ここで死ぬのか」と。

その時、アメリカ兵のボートに助けられ、「つい先日まで、憎き

アメ公 と思っていたアメリカ兵に助けられるとは」と

 

感慨を述べて父の『従軍記』は終わっています。

 

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父の遺品「日の丸」の揮毫

2019-08-15 08:14:11 | わが家のこと

父の遺品の中に、軍隊の時の資料が大切に保管されていた。

その中に、出征の時「寄せ書き」をしてもらった
「日の丸」の旗が4枚ある。

①慶応の「福沢先生研究会」会員一同
②「東京電灯・浅草営業所」の社員一同

父は昭和16年4月に慶応を卒業して東京電灯(現・東電)
に就職。その年の8月に 出身地の会津若松65連隊に入営した。

そして、
③会津出身の「陸軍大将・柴 五郎」
④海軍大将「鈴木貫太郎」、
 宮中顧問官・海軍中将「川島令次郎」
 陸軍大将男爵「奈良武次」
 陸軍大将「鈴木孝雄」
 陸軍中将「井上一次」の連名


「鈴木貫太郎」は、昭和20年 77歳の高齢ながら、天皇より 終戦の
幕引きを託されて首相となった。

「川島令次郎」は、1913年海軍中将となり、旅順要港部司令官、
将官会議議員などを勤め、1929(S4)年9月退役した。

「奈良武次」は、東宮武官長、侍従武官長を歴任。1924年(大正13年)
陸軍大将、1933年(昭和8年)男爵となり後備役に編入、1939年
(昭和14年)退役した。

「鈴木孝雄」は、鈴木貫太郎の弟。1935(S10)年後備役。
1938(S13)年~S21年まで「靖国神社宮司」。

「井上一次」は、1923(T12)年陸軍中将。1927(S2)年予備役編入。
1940(S15)年退役。

というわけで、柴五郎はじめ みな昭和16年当時は「退役軍人」
だった。一兵卒で入営した父のために、6人もの中将、大将が
「祈、武運長久」の「日の丸」に揮毫している。柴五郎は会津人
のつながりがあるが、他の4人はどういう縁があったのか、
誰がどのようなツテで揮毫を求めたのだろうか?。

ひとつのルートは父の叔母が「酒井勝軍」に嫁いでいる。
日露戦争にロシア語の通訳として従軍し、児玉源太郎から
ロシアの分捕り品のピアノをもらっている。だが、酒井勝軍は
1940(S15)年7月6日に亡くなっている。父が入営する1年前だ。

父の「戦記」を小説にするなら、この謎解きが序章だ。

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祖父森 治郎

2019-07-01 21:20:28 | わが家のこと

ある日、ある宗教団体のご婦人が勧誘に来られた。
霊感の強い方で、父と祖父の写真を見て、突然
ハラハラと涙を流された。

理由を尋ねると、「お父様は幸せな方でしたが、
お祖父様は、淋しい方でしたね。供養してあげて
ください」という。

言われてみれば、私は祖父の名前も顔も知らず、
墓参りもせずに過ごしてきていた。

このほど、父がの書き遺してくれた系図で、
私の祖父のことが判った。祖父は「森 治郎」。
明治3年生まれ。牧原春の二度目の婿養子で、
私の父が生まれて1年半後の大正8年に亡くなって
いる。

当家は、代々養子でつながれ、養子を迎えても
すぐ死んでしまうのだ。

森治郎は、なんと、東京で「第15銀行」と
「仁寿生命」に勤めていたことがわかった。
私も千代田生命に就職したが、祖父と同じ道を
辿ったことになる。

森治郎には連れ子がいたので、先妻がいて、
死別したのか、再婚ということになる。
その子は、障害者で、19歳で亡くなっている。
供養してあげるのは私だけ。
親、祖父母、先祖のことを思い敬うことで、
「先祖が自分を見守ってくれている」ということを
実感する。
                     

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酒井勝軍-異端の伝道者

2019-07-01 21:19:16 | わが家のこと

ヤフーショッピングでは、新刊本で『酒井勝軍-異端の
伝道者』がありました。久米晶文著で、2012年8月に
学研パブリッシングから出版。4,000円

早速注文しましたら即、翌日には送られてきました。
600ページに及ぶ分厚い本で、「酒井勝軍」の事跡に
ついて余すところなく書かれています。

「酒井勝軍」は、明治7年(1874)山形に生まれ、14歳の時、
家が没落、家族で東京に夜逃げしてきた。その直前、
山形の教会で洗礼を受け、どん底の生活の中、貧困者の
救済、伝道に目覚めた。明治31年、賛美歌を学ぶために
渡米。明治35年帰国して翌年「東京唱歌学校」を設立。

日露戦争では、留学の経験と語学力をかわれて、外国からの
「観戦将校」の接待役に任ぜられた。その従軍体験と
外国将校との折衝から、彼は「欧米崇拝」から転じて
「日本(軍人)」の優位性に確信を持つようになる。

さて、アメリカから帰国して「東京唱歌学校」を設立
した年に、「森かの(子)」と結婚したことも書かれており、
妻子の写真も掲載されていました。私の祖父の姉です。

私の祖父は、森家から牧原家に養子として入り、
私の父が4歳の時に亡くなっていますので、どこの
誰だったのか、全く解りませんでした。その姉が
「かの(子)」で病弱だったことなど、この書で
初めて解ったのです。

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