現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

『郷土研究』 より 「鳥追い」

2014-11-27 21:03:43 | 虚無僧日記

『郷土研究』 愛知県郷土資料刊行会編 より  

p.58  高力猿猴庵 「文政日記」

文政4年 鳥追い 初めて三味線、胡弓のひき語りとなる。

又、新版「役者づくし」という鳥追い始まる。

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「鳥追い」とは、新年に 門口で、扇で手をたたきながら祝言を述べ、

米銭の施しを得た門付けの一種。江戸初期、京都悲田院の与次郎が

始めたという。 本来 の 業だった。

江戸中期以降、新年に女太夫たちが、新しい着物に日和下駄・

編み笠姿で三味線などを弾きながら、鳥追い歌を歌って家々を

回ったもの。

猿猴庵 「文政日記」でも、「文政4年、はじめて 三味線・胡弓の

ひき語りとなる」 と

 

さらに、三味線の伴奏で門付(かどづけ)しながら踊る者が現れ、

これも鳥追いという。正月元日から中旬まで、粋(いき)な編笠(あみがさ)に

縞(しま)の着物、水色脚絆(きゃはん)に日和下駄(ひよりげた)の

2人連れの女が、艶歌(えんか)を三味線の伴奏で門付をした。

 

ちなみに、阿波踊りの女性は「鳥追い」の姿。被っている笠を

「鳥追い笠」という。

 


『郷土研究』 より 「小栗重吉」

2014-11-27 20:45:31 | 虚無僧日記

『郷土研究』 愛知県郷土資料刊行会編 より  

p.58  高力猿猴庵 「文政日記」


「文政3年 10月 オロシヤへ流された半田の船乗り (小栗重吉)

長者町 三味線屋 喜蔵方で 持ち帰った品々を見せる。

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小栗 重吉1785-1853年))は、1813年文化10年)、尾張藩

小嶋屋庄右衛門の船「督乗丸(約120トン)」の船頭として、乗組員
13名と共に師崎から江戸へ出航。帰路、遠州灘で暴風雨に遭い
舵を失って漂流。
 
督乗丸は、海流に乗って太平洋を渡り、1815年(文化12年)に、
ホーストン号に救助されるまで、484日間にわたって漂流した。これは
世界最長の記録。生存者は、重吉以下 音吉、半兵衛の3名であった。
 
その後、ロシア船に乗って、アラスカ、択捉(えとろふ)経由で、日本に帰還。
尾張藩で苗字帯刀を許され「小栗」姓を名乗る。
 
重吉は、亡くなった仲間に対し「なんといっても供養塔を建てる。
建てるまで俺は死ねない」と固く心に誓い、名古屋の熱田笠寺観音の
境内に供養塔を建てます。(現在は熱田区の成福寺に移設)。
 
アメリカ、ロシアから持ち帰った品を見せ、見料を取ったのは、供養塔の
資金集めだったようです。

 


「関」って 見所満載の 超スポット 

2014-11-27 20:13:51 | 虚無僧日記

ネットで「関宿」を調べてみたら、地蔵院の向かいに 会津屋という

旅籠がある由。昔は「山田屋」という大旅籠だったのが、今は「会津屋」と。

なぜ「会津屋」になったのか、今度行って聞いてみるべい。

 

その「会津屋」。「女の仇討ち」で有名とか。 知らんかった。

 【関の小万】

小万の父は、九州久留米有馬氏の家来で、剣道指南役「牧 藤左衛門」と言ったが、

同輩の小林軍太夫に殺された。牧 藤左衛門の妻は、身重の身体で 夫の仇を

討つため旅に出たが、鈴鹿峠を越え「関宿」についた頃には旅の疲れが重なって、

地蔵院前の旅籠{山田屋(現、会津屋)の前 まで来たときには 行き倒れ同様の

有様であった。

親切な山田屋の主人と女将に助けられ、手厚く看病され、女はそこで女児を産んだ。

それが小万である。女はまもなく、子供の将来を宿の主人に託して、死んだ。

小万は成長して 養父母から両親のことを聞かされ、女の身ながら亡き母の志を継いで

亡父の仇討ちをする決心をする。 山田屋の主人は、亀山藩家老 加毛寛斎に頼んで

武芸を習わせた。小万は、幾多の困難と苦労に耐え、武道に励んだ。

天明三年八月、運良く仇と巡り会うことができた小万は、馬子姿に変装して 亀山城

大手前の辻で仇のくるのを待ち受け、見事本懐を遂げることができた。

これにより、関の小万の名は一躍高まったが、その後も山田屋にとどまって、

養父母に仕え、享和三年36歳の若さで死んだ。 

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「仇討ち」と言えば「日本三代仇討ち」のひとつ、「荒木又右衛門の鍵屋の辻の決闘」。

あれは、鈴鹿のすぐお隣の 伊賀上野、鍵屋の (現三重県伊賀市小田町)」でした。

 

ところで 「せきのやま」 の語源が、この「関の山車」のこととか。

ネットで語源を調べると、「京都の八坂神社の祇園祭に出される 関の山車(だし)は 

超豪華でこれ以上立派なものはないという意味」と。 でも なんか変。

関から京都の祇園祭りに 山車なんか出ていません。移動できないでしょう。

それに、「せきのやま」とは 「一生懸命やってできる可能な限度。精いっぱい」

というニュアンスです。

いろいろ調べてわかりました。 関には 今 4台の山車が現存しています。

そんなに たいしたものではありません。つまり 「豪華で大きいものを

作りたいが、道幅を考えると、この大きさが限度一杯」という意味でした。 

 

 

『郷土研究』 より 三重県の「関」

2014-11-27 19:00:35 | 虚無僧日記

『郷土研究』 愛知県郷土資料刊行会編 より  

「東海道の文学探訪」 桑名-~ 大津編 

「逢坂の関、不破の関」とともに “天下の三関“ と言われた三重県の「関」。

(岐阜県にも刀剣で有名な「関市」があります。 千葉県にも「関宿」)

こちらは「三重県 鈴鹿の関 」。

「関」で有名なのは「関の地蔵」。

【一休禅師の関 地蔵開眼ばなし】

「関の村人が、地蔵の開眼供養をしようとしていると、たまたまそこに

一休が通りかかった。そこで、村人が一休に開眼供養を頼む。

すると一休は地蔵にむかって「釈迦は過ぎ、弥勒は未だ出でぬ間の、

かかる 浮世に 眼を開け 地蔵!」と 三遍唱え、前をまくって小便を

かけて立ち去った。

里人は大いに怒って、地蔵を洗い、別の僧に頼んで開眼供養をやりなおした。

ところが、その夜、世話人に高熱が出、夢枕に 地蔵が立ち、「せっかく名僧の

供養で開眼したのに」と、供養のやりなおしを命じた。

そこで、あわてて一休の後を追い、桑名の宿にいた一休に再度供養を

求めると、一休は古びた 褌 をはずして 地蔵の首に かけるよう 手渡した。

人々は半信半疑で 言われた通りにすると、世話人の高熱はたちまち

下がったという。

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関の地蔵といえば、この一休のションベンを思い出すが、これは

事実ではない。江戸の人たちは、一休に名を借りて、こうした仏教への

信心を ちゃかしているのである。

 


『郷土研究』 より 「三昧」って火葬場!?

2014-11-27 18:41:44 | 虚無僧日記

『郷土研究』 愛知県郷土資料刊行会編 より

75-9 No.7 P20 「百曲街道」

「百曲街道」とは、熱田新田の干拓により、自然にできた道。

かつて東海道は、熱田の「七里の渡し」から桑名まで 海上を

舟で渡るしかなかったのである。

 

明治天皇が伊勢神宮参拝の折り、この百曲街道を通られた。

道が狭く、馬車が通れないので、両側の田畑を崩し、蜆(しじみ)を

敷いて道路を広げた。今の昭和橋近くに “三昧” があり、見苦しいから

幕を張った。

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と古老の話。さて “三昧” って何ぞや。

wikipedia で調べたらなんと

「僧が中にこもって死者の冥福(めいふく)を祈るため、墓の近くに設ける堂。転じて、墓所・葬場」。

 

いやはや、おどろき。毎日 尺八三昧の私。 尺八を吹くは死者の霊を安んずるため。

なんか、意味 遠からず。

 

 


『郷土研究』 より 「名古屋の平曲」

2014-11-27 13:56:36 | 虚無僧日記

『郷土研究』 愛知県郷土資料刊行会編 より

75-9 No.7 P2 

「近世における名古屋平曲」(7)

宝永2年(1705) 桑名町の宿屋が、美濃の関から遊女を入れ、

盲女(ごぜ)を扶持し、座頭を呼び、米屋の手代共の遊び場に

していた廉(かど)で捕えられた。

「その裏で操っていたのが代官だった」(鸚鵡篭中記)という。

 

「水戸黄門」に出てくるような話ですな。さて、「ごぜ」は北陸から

東北だけと思っていたら、東海地方にも居たことが判る。

 

P.5 に「尾張藩の重臣(千石)の横井也有が平曲を習っていた」との記事

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名古屋には、平家琵琶の伝承者として人間国宝の「今井勉」検校がいる。

「今井勉」の話では、「一曲習うのに8年もかかり、『平家物語』の数曲しか

習っていない。これは盲人にしか伝えないから、自分が最後で、途絶える」と。

 

 

 

 


来年の話 NHK「邦楽のひととき」に

2014-11-27 13:55:34 | 虚無僧日記

「来年の話をすると 鬼が笑う」なんて言っておられない。

正月元旦から 仕事が 来ています。

そして3月3日、NHK FM ラジオ 『邦楽のひととき』 の話が・・・・。

『邦楽のひととき』の出演は、これで10回目。

ありがたいことです。光栄です。これも “運” ですね。

お箏の先生の引き立てで、出演させていただくのですから、

まさに、“出会い” ひとつです。

 

来年の10月3日は「能楽堂公演」。その前に「宗次ホール」での

公演を実現したい。今 パートナーを探しています。

 

 


尺八大名 島原に死す

2014-11-26 18:59:18 | 虚無僧日記

江戸城で「殿様踊り」に合わせて尺八を吹いたという「板倉重昌」は

天正16年(1588年板倉勝重の次男として駿河駿府にて誕生。

松平正綱秋元泰朝とともに徳川家康の近習出頭人と呼ばれた。

寛永14年(1637年)11月、島原の乱鎮圧の上使となり出陣。

しかし、一揆の抵抗は強く、西国の諸侯は 小禄[の重昌の命に

従わず、乱は長引いた。 そこで、幕府は老中松平信綱を改めて

大将として、島原に援軍を送ることとした。これでは “武士の面目が

立たない”。板倉重昌は 寛永15年(1638年)1月1日に総攻撃を

命じるが、4,000人ともいう大損害を出す。そして重昌も突撃を敢行し、

眉間に鉄砲の直撃弾を受け、戦死した。享年51。

板倉重昌の嫡子「重矩」は、後に 老中や京都所司代を務め、

5万石にまで加増される。子孫はその後、下野烏山藩武蔵岩槻藩

信濃坂木藩、そして最後は陸奥福島藩主となり、明治まで続いた。

 

 


『名古屋叢書』 第24巻 「昔咄」に「殿様おどり」に尺八

2014-11-26 18:20:00 | 虚無僧日記

『名古屋叢書』 第24巻 「昔咄」 近松茂矩 

P.124 

寛永の頃、公方様へ御三家様、諸大名より「小姓踊り」を仕組まれ

あげられし事有り。御家(尾張徳川家)より御あげの踊りの章歌

多かりしが、その内、専ら後々まで残りしあり。これを御国(尾張)

にては「殿様おどり」と言ひならわしぬ。

この歌は「堀正意」作にて、当初は三味線は無く、小鼓、太鼓ばかりの

お囃子なり。・後日、盲女座頭の琴三味線を加え用いる。

(前歌) 雲のよそなる もろこしまでも なびけばなびく君が代の

   いく千代 いく千代と かぎりなのきみ 

(踊り歌 第一)

   さすが あづまの みやことて、春はにしきを さらすかと

   花も色いろ 咲き染めて つらさも 憂さも忘るる御世は

(間の手) 

  知るも 知らぬも おもしろや 知るも 知らぬも おもしろや

【以下省略】

  紀州様よりは 「吉野の山を 雪かと見れば、雪ではあらで 花の吹雪よ」と。

  これを 「紀の国おどり」 といへり。

この踊り、江戸御屋敷にて、毎日七ツ頃より稽古ありし。

「板倉内膳正重昌殿」 御心安く出入りされ、尺八上手なりしが

稽古の時に参られて、尺八を吹きて合わされしが、いと面白かりし。

間もなく、島原の城にて討ち死にされる。

 

 これは、大名も尺八を吹いたという 珍しい記録です。

その尺八は、虚無僧尺八ではなく、歌舞音曲に合わせる

短い「三節切(みよぎり)」だったと思われます。   

 


『名古屋叢書』続編 16 天海和尚のこと

2014-11-26 15:59:16 | 虚無僧日記

『名古屋叢書』 続編 16 「金城温古録」 

第60之冊 「三之丸」の3 東照宮の部

P.249 神君御在世の時、天台の宗旨を御聴聞。

天海和尚御師たりしかば、御身の後までを仰せ置かせられし。

敬公(尾張藩 初代藩主・徳川義直) 御宮御造立の初め、

また、天海和尚へ請はせ給うひしかば、まず申し上げられし也。

この時、敬公 御年20歳に成られる。

P.252 「開基天海僧正略伝」

「両部神道口訣鈔」に、「南光公坊天海、慈眼大師」

「釈了意記」に曰、「天海は 室町幕府 11代将軍 足利義澄

(在位 1495-1508年)の庶流に足利伝助義近と言ふ者あり。

奥州会津の人なり。摂州難波に寄居住す。或る夜、夢の知らせあり、

門前の桐の下に捨て子あり。拾ってこれを養育す。若年にして

和州長谷寺に出家す。中年に及びて叡山に居住し、「南光坊

天海」と号す。

「塩尻」に「天海は足利義澄の子。一説には奥州会津の芦名氏成り」

とも云えり。

「寛永覚書」に「寛永20年、大僧正天海 病危急。この人の歳、知る者なし、

百十歳と云う。三卿(尾張、紀州、水戸の各徳川) 御見舞いあり。

その時、「芦名甚三郎を召し出して欲しい。このこと一つ心に懸かる」と、

三卿に頼まる。 

 

(私注) 鎌倉から室町にかけて、会津の支配は、三浦一族の「芦名氏」。

「盛隆」の後、常陸佐竹義重の弟「義弘」を迎えて跡を継がすが、

伊達政宗に攻められ、常陸に帰る。関が原の後、佐竹氏は秋田に転封。

芦名は角館に居住す。「義広」は 寛永8年(1631年)病死、享年57。

角館の芦名氏は三代続いて、1653年承応2年)の蘆名千鶴丸の死に

より断絶。

寛永20年(1643) 「甚三郎」は尾張公に召しだされて対面したと

あるが、「甚三郎」とは誰か、芦名の系図には見られない。