さて、森女と交わした「旧約」とは何か、その約束を果たすことが
でき、「森女の深い恩に感謝する」という、その中身。
結論的に云えば、「大徳寺の住持になれたこと」である。
謎解きは、森女の素性。森女こそ、一休を大徳寺の住持に
導いた女性だった。それが一旅芸人のできることではない。
森女のことを、一休は詩の中で「上苑」「上郎」「輿に乗る」
「王孫」と詠じている。これまで「王孫の美誉を聴いて相思う」は、
「一休が天皇の子であることを森女が聞いて、慕ってきた」と
解説されてきたが、一休は「王の孫」ではない。「天皇の子」
である。「王の孫」は「森女」のことであり、特定すれば、
後醍醐天皇の王子「義良王」の孫。「義良」は南朝二代、
「後村上天皇」で、住吉神宮を行在所とし、住吉で亡くなって
いる。「森女」は「後村上天皇」と住吉の宮司「津守」氏の
一族の女性の間に生まれた孫。
そして住吉神宮は古来 舞楽が盛んであったから、「森女」は
その楽師の一人として鼓を打ち歌を歌っていた。
「後村上天皇」の王子の一人「説成王」は、山伏の修験道の
本山「聖護院」の開祖となっている。「聖護院」も「住吉宮」も
「杜=森」と呼ばれていた。「森女」とは「森の女」という通称。
「森女」の法号は、一休の死後、13回忌、33回忌の「香銭帳」から
「慈柏」と判った。さてさて、実は住吉神宮は、当事は神仏習合で
神宮寺として「慈恩寺」があった。「慈恩寺」ゆかりで「慈柏」である。
その「慈恩寺」の開祖は、住吉の宮司「津守」氏の一族で「卓然
(たくねん)」という。「卓然宗立」は、なんと大徳寺の二世住持
だったのである。
住吉神宮は「卓然」以来、大徳寺とは深い関係にあり、大徳寺は
住吉神宮を通じて、明との交易を図り、莫大な利益を得ていた。
堺の町の繁栄は「大徳寺と住吉神宮」によってもたらされていた。
その大徳寺が応仁の乱で消失してしまった。大徳寺に冨をもたらした
「一休」の兄弟子「養隻」もすでに亡くなっている。「一休」は兄弟子
「養隻」を毛嫌いし、「禅を金で売っている」と激しく批難していたが、
今や大徳寺を再建できるのは、「養隻」の弟弟子で、先に師の
「華隻」から印可状を下された「一休」しかいない。
「森女」は以前、薪村に「一休」を訪ねている。盲目の旅芸人が
戦乱のさなか、一人で薪村に行けるわけがない。近世以降の
越後のゴゼは、何人か集団で移動し、目の見える人がその
先導を務めていた。「森女」も住吉の津守氏に守られて「輿」に
乗っての来訪だったはずである。その目的は何だったのか。
「大徳寺の再建」である。それが[旧約」。その約束を一休は
聞き流して忘れていた。しかし81歳で住吉を訪れた時、
森女に再会し、彼女は忘れていなかった。そして「旧約」を
「新たにした」というのである。
「一休」としては、あれほど毛嫌いしていた大徳寺であるが、
開祖「大燈」の禅を本当に継ぐのは自分しかいないという
自負があった。森女と住吉の津守氏の後押しで、一休は
大徳寺の住持になったのである。
とは云っても、大徳寺は焼失して無いのであるから、名前
だけの住持。晋山式が行われたかは疑問。それで一休は
「入室の偈」と「出室の偈」を『狂雲集』に同時に残している。
それが、普化の偈「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打」。
そして「尺八を弄して云う」の一文である。
ここで一休は「普化」と[尺八」を結びつけているのである。
その後、一休は、住吉に滞在し、堺の商人から20億とも云われる
建設資金を集め、6年かけて大徳寺を再建したのである。
「森女」の「深恩」とは、「大徳寺」の再建でもある。