ロイヤルモータースとその仲間たち

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俊徳道を行く  

2010-10-24 11:52:14 | ぶらぶら お散歩
東大阪のK様に車をご購入頂き納車をして、ハイおじさんの奥さん(大阪市生野区 ロート製薬の前・約10km)の実家まで歩いて行きました。


ぶらぶら歩くと思わぬ歴史の道を発見するものです。
なんとK様のとこから歩いて10分で見覚えのある司馬遼太郎記念館に着きびっくりしました。
タイトルを「街道を行く」をもじって「俊徳道を行く」にしました。


司馬遼太郎の家(記念館)


司馬遼太郎記念館の道標


川沿いの並木道はベンチなどあり市民の憩いの場になっている



東大阪歴史の道 発見


俊徳道

俊徳丸伝説


伝説の概略
俊徳丸は河内国高安の山畑(現在の八尾市山畑地区あたり)にいたとされる信吉長者の子で容姿が良く、頭も良い若者だった。そのため、四天王寺の稚児舞楽を演じることとなった。この舞楽を見た隣村の蔭山長者の娘は俊徳丸に魅かれた。その後、二人は恋に落ち、将来、一緒になることを願うようになった。しかし、継母は自分の産んだ子を世継ぎにしたいと願ったため、俊徳丸は継母から憎まれ、ついには継母によって失明させられてしまった。そして癩病にも侵され、家から追い出されてしまった。そして行きついたのは四天王寺であった。そこで俊徳丸は物乞いしながら何とか食いつなぐというような状態にまでなり果てた。この話を村人から伝え聞いた蔭山長者の娘は四天王寺に出かけ、ついに俊徳丸を見つけ出して再会することとなった。二人が涙ながらに観音菩薩に祈願したところ、俊徳丸の病気は治り、二人は昔の約束どおり夫婦となって蔭山長者の家を相続して幸福な人生を送ったとされる。それに引き換え、山畑の信吉長者の家は、信吉の死後、家運が急に衰退し、継母は物乞いとなり、最後には蔭山長者の施しを受けなくてはならないような状態になったという。

俊徳丸伝説の歴史
俊徳丸に関する伝説は古く、室町時代より前からすでに広く流布していたと思われることから、鎌倉時代頃の実話などを元に創作されたと推測されている[誰?]。また、山畑地区には「俊徳丸鏡塚」とよばれている横穴式の石室墳墓がある。これはこの伝説が古墳時代にまで遡る古いものであると地域の人々が感じるほど、古くから語り継がれてきたという証拠であるともいえる。

俊徳丸鏡塚
俊徳丸鏡塚(しゅんとくまるかがみづか)は、八尾市山畑地区にある6世紀ごろの横穴式の石室墳墓。高安古墳群に属する古墳のひとつであり、いつしか俊徳丸の伝説と結びついた。石室入口前には石碑と実川延若が寄進した焼香台がある。

俊徳道
俊徳丸が高安から四天王寺へ通ったといわれる道筋が、今に残る俊徳道だといわれており、近鉄俊徳道駅など沿道付近にある施設・旧跡に「俊徳」の名が冠されている。

ただし、その道筋は俊徳丸が住んでいたとされる山畑地区からは少し北に離れている

(フリー百科事典より)



国の出先機関の寮になっているが現在空き家になっている・・・勿体無い


  
ロート製薬に到着しました。
コメント
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