ロイヤルモータースとその仲間たち

車と釣、ハイキング、トライアスロン、神戸、三田の歴史や情報を発信します。 

令和6年能登半島地震の寄付のお願い

2024-02-11 10:24:18 | 阪神・淡路大震災 私の体験記

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令和6年能登半島地震の寄付をお願い致します

寄付金を募り赤十字を通して石川県に寄付をしたいと思います。

 

寄付を頂いた方に本を差し上げます。

ご自由にお持ち帰りください。 社員へのお声がけは無用です。

 

朝ドラ「まれ」の最初に必ず写されていた狼煙の灯台の近く「農家民宿おおつぼ」

が全壊しました。 左端が民宿の奥様です。 

狼煙地区は全壊し全員避難しました。

ご協力をよろしくお願い致します。

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阪神・淡路大震災 私の体験記・・・NO,19

2014-01-16 16:53:17 | 阪神・淡路大震災 私の体験記
               
阪神淡路大震災で亡くなった方々の鎮魂「ルミナリエ」 存続が危ぶまれている。・・・・・2013年の「ルミナリエ」


          
祇園祭、隅田川の花火など日本各地に残っている祭礼の多くが、いろいろな災難の鎮魂、厄除けとして行われてきました。 生き残った人々を明るく力強い未来志向に導く祭典です。 末永く続く事を祈って・・・・     


阪神・淡路大震災から19年、東日本大震災から約3年たち、私たちが体験した事


将来間違いなく起こる東南海地震に備える準備に何が役立つかを考える事が震災で亡くなられた方々の供養にもなり願いでもあり、又生きている私たちの使命でもあると思います。

阪神・淡路大震災の経験が東日本大震災にどれほど役立ったか?

大震災が起こった直後は全く役にたたなかったし、どうしようもなく大自然のエネルギーの大きさになすすべがなかったのが現状です。

莫大なお金をかけて護岸工事をしても、ほとんど役にたたなかった事を証明しました。
昔の人達の体験や考え方を再度検討し、自然の力には勝てないという前提で、日本の美しい景観を考慮し護岸工事は最小限にして速やかに非難する方法を計画する事が一番重要である事を改めて示しました。

この度の震災の規模の大きさにハード面ではどうしようもないな~と思いながらも人命を守る面でもう少し何とかならないか(例:非難タワーの設置・普段は多目的に使用できるもので)など検討の余地はあると思います。

震災後のソフトの面では阪神・淡路大震災の体験が多いに役立ったと感じました。
ボランティアの活躍や復旧でのインフラ整備でもソフト面が生かされました。
でも規模が大きい事に加え福島の原発事故が発生し更に別の問題が発生しました。
これは今回の東京都都知事選の焦点にもなりつつあります。
この問題は別に取り上げるとして、最後はやはり人間の精神面の事です。
この事は、人それぞれにあり人類が生き続ける限り永久に解決できる問題ではありませんが、少しでも心穏やかな精神状態になれる努力はお互いしなければならないと思います。


***始めての方は左のカテゴリーの「阪神・淡路大震災・・・私の体験」をクリックしNO1から読んでいただければと思います。  ご意見があればコメント下さい***


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阪神・淡路大震災・・・私の体験記  18 地震とエネルギー問題

2013-01-16 20:35:35 | 阪神・淡路大震災 私の体験記
阪神・淡路大震災から今年で18年になります。
その間に東日本大震災が発生し私たちの体験からニュースを見てその現場の状況が推察できその後のまた、どうしなければならないかもわかってきました。
ただ原発事故だけは別で私たちの体験外の事でこれから先どの様に対処していいかわかりません。
福島の原発の被害を受けた方たちの事を思うと特に私たち(ハイおじさん)年配の方々の気持ちは如何ばかりかと思います。

さて、東日本第震災が発生する前、民主党の元鳩山総理は国際会議においてCO2排出ガスを25%削減すると発表しました。
各国から大歓迎をうけたのですが、ここにきて多くの原発が停止し代わりに火力発電に頼っています。
ですから25%削減目標は大変厳しい状況にあります。
そして更にここにきて現在の原発の上を活断層が通っていることが各地で確認されてきました。
電力会社は否定していますが、刑事事件の「疑わしきは罰せず」の逆で原発に限り「疑わしきは稼働しない」でお願いしたいものです。
福島原発はあのような津波は来ないだろうの予測であの悲劇が発生したのだから。

これからのエネルギーは当面絶対安心な原発?のみをテロの攻撃に備えて稼働するのが現実的な状況と思う。
当面(短期的)であってやはり自然エネルギーを活用すべきで特に地熱・風力・ソーラーなどの研究と建設をしなければなりません。

そして原発は極力減らしていきます。
ただ原発の研究は必要です。
太陽や地熱のようなクリーンな原発を開発しなければ、現状の原発では廃炉にしても莫大なお金と時間がかかります。

いずれにしても行政が国民のコンセンサスをとりながらこの難局を乗り切るしか方法はありません。

安部自民党政権の行方に不安と期待が入り混じっているのが今の心境です。
私たちは注意深く見て次の参議院選挙に反映したいです。
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阪神・淡路大震災・・・私の体験記  17 東日本大震災   天災と人災

2012-03-11 17:53:17 | 阪神・淡路大震災 私の体験記
3月11日 テレビから地震の情報が伝えられた瞬間、阪神大震災を経験した私はその数倍の被害が出るだろうと直感した。
テレビから流れる情報は全体のほんの一部分で直感は悪い方になってしまった。

被災された方に改めてお見舞い申し上げます。

震災は天災であるがその後の政治と東電の対応に怒りと失望をおぼえます。

なぜ党利党略を超えて与野党一緒になって被災者の事だけ考えて災害に取り組まないのか、国民の総べての人がそう感じていると思います。
外国の首相が「この非常事態になぜ与野党を超えて一緒にやらないのか?。」と言われて恥ずかしくないのか?
「和をもって尊しとなす」国であるはずなのに情けないです。

原発事故前の「原発賛歌」のコマーシャルを電力会社が今流したら、いかに我々に嘘をついていたかよくわかると思う。
安全な、安い、クリーンな、石油に頼らない唯一のエネルギー・・・「私達も本当にそうかな。」と思ってしまいました。
チェルノブイリ原発事故から30年たった今も完全に廃炉になっていません。
福島原発も100年以上かかるそうです。

今の技術では燃料が燃え尽きても放射性物質が半永久的に残る訳でマイナスの部分ももっと述べて欲しい。
政府も東電も真実を述べるべきです。

ただただ反対意見を封じる為に電力料金や税金を使うべきではない。

現在は原発が二基しか稼働していないのに何とかやっていけている。

多少の不便や苦痛があっても必ず乗り越えられる。

今回の津波の大きさは1000年に一度の大きさで一部の学者はこのような事態を予想し政府に進言していました。

お金もかかるしそんな事は起きないだろうとタカをくくったふしがある。

ある地位域では、11箇所の避難場所のうち10箇所も被災しました。
大丈夫だろうと言って被災したかたが多かったのも間違った情報(甘い情報)が被害を大きくした。

私達は過去の「最悪の災害」を教訓としなければなりません。

国会議員の先生方「もうこれ以上の人災は勘弁してください。」








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阪神・淡路大震災・・・私の体験記  16

2012-01-17 01:30:41 | 阪神・淡路大震災 私の体験記
***カテゴリーで「阪神・淡路大震災 私の体験記」(1~15)をクリックして見てください。 何かの参考になればと思います***

3月11日の東日本大震災は私達の想像をはるかに超えていました。
ちょうどその日は私の高校の同窓生のゴルフ大会の日(約80名)でレストランでそのテレビ(午後3時ごろ)を見て、大変な事が起きている、阪神・淡路大震災の亡くなっている数よりかなり多くなると直感しました。 その時点で皆はそれは無いと言っていましたが事実3倍以上の方々が亡くなりました。 
この直感は阪神・淡路大震災の私の体験からきています。
実際、直後の神戸の家屋の倒壊している現場を見て半年後に東京に行った時、ビルや家屋を見てこの家は倒壊するな、このビルの一階は危ないなと判断できました。
同じ大震災が東京で発生すると大変な事になるだろうと想像できます。

常日頃から地震がよく発生する東日本では地震対策が出来ていたとおもわれますが、揺れによる倒壊より津波による倒壊がほとんどでした。
いままでの「日本の安全神話」覆されました。 阪神・淡路大震災の時もアメリカロスアンゼルス・ノースリッジ地震で高速道路が倒壊した時、日本は震災対策が出来ているので、そのようにならないと豪語していたのが実際は簡単に倒壊しました。
新幹線も線路が倒壊しました。 電車が走っていたらと想像すると・・・。

安全な堤防、安全な原発など総てが覆されました。
特に原発は震災に大きな問題を提議しました。
使用済み燃料の処理が確立できていない原発を増やすのだけはやめなければなりません。
そして現在使用されている原発の安全を(実際100%は無理)テロも含めて再点検し、できれば電力事情を考慮したうえで廃止すべきです。
天災は必ず発生するがそれに伴う人災は避けなければなりません。
過去の最大の地震の規模を検証しこれから確実に発生する東南海地震に対する備えをしなければならないと思います。


平成23年3月14日のブログ

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阪神・淡路大震災・・私の体験記 15

2011-01-17 20:40:22 | 阪神・淡路大震災 私の体験記
今日で震災から16年になります。

タイガーマスクの「伊達直人」の匿名でランドセルやお金などの寄付が全国運動のように広がっています。
ハイおじさんの学生時代・・・・学生運動が盛んな頃、寄付は政府の怠慢を助長すろものでやるものではない。「やるなら政府を倒してもっと平等な幸せのある国家を目指すべきだ。」など今から考えれば子供っぽい(ある意味純粋な)事で、実際われわれが立ち上がればできる、と信じていました。
そうゆう意味では今の若い人達より政治に感心を持っていたと思います。
困っている人たちに自分でやれる範囲で援助する事は純粋に「博愛精神」から出たもので、政治とは全く関係のない事です。
勿論、党派を超えて政治(行政)として福祉・災害対策はできる限りの事はやらなければならないのは当然であるが、政治や行政ではできないことがある。

それが阪神淡路大震災でのボランティア活動になったと思う。
家の前の人達が家に埋まって助けを求めているのに自衛隊や警察が総てにまかせる事は無理で(実際多すぎてできない)、当然近くの方達が救助します。 実際そんな場面をあちこちで見かけました。 その時はボランティアなどと考えずに純粋に埋もれている人達を助けようと必死で行動する。 どこの災害でもみかけます。

緊急時の後、行政とボランティアが一緒になって被災者の援護ができるか?

たとえばその後、座礁した船のオイルの回収や新潟地震など行政では出来ない事、きめの細かな事を行政とボランティアが連携して行なわなければならない。

今、ボランティアの方々の活躍を手助け組織を模索している段階とおもいます。

それにはボランティアと行政のルール作りをしなければと、阪神大震災から16年、いろいろ学ぶが多かったし又、生かしていかなければと思います。




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阪神・淡路大震災・・私の体験記 14

2010-01-25 22:56:31 | 阪神・淡路大震災 私の体験記
阪神・淡路大震災・・私の体験記を「1」からご覧になりたい方は、カテゴリーから「阪神・淡路大震災・・私の体験記」をクリックして下さい。 すべて出てきます。


西宮の私の実家は無事でしたが100m先のS叔母さんの家は全壊し10ヶ月ほど実家に避難し、甲東園のH伯母さんと従姉の家も全壊して実家の50m先の家(マタ従兄弟)に避難していました。

S叔母さんの息子たちは、長男は岡山に住み、次男は東京に住んでいましたが、全壊の家は一年以内に解体すると解体費用は無料になることが決まり、すぐに解体しました。
そして兄弟(従兄弟)は更地になったところに半分づつ費用を出し合って叔母さんのために家を建てました。

甲東園のH伯母さんと従姉(従姉)は10ヶ月後、従姉の勤務している武中工務店で設計の仕事をしている関係上すぐに家を建てました。

2年後西宮市は全壊した家を建て換えると100万円の補助が出ることが決まり従兄弟・従姉たちに連絡しました。
そして西宮市役所に請求に行くと「なんと」一年以内に建てた方は出ないと言う返事でした。

これを聞いて行政の対応に「呆れて」ものも言えません。

親が家が無く困っているから、まだ子供たちが大学や高校に通っていて、さらに家のローンもあるのに無理をして家を建てて上げたら「あなた達は恵まれているので出せない。」と言う理屈だそうです。
「早く親孝行しすぎた。」と悔やみました。
一番に褒めるべき人たちに行政はなにを考えているのか?

明治以来若い日本が行政指導できたのは間違いではないが、その制度が今日に適用する訳が無く、その末期的症状が出てきているところに、このような阪神・淡路大震災の非常事態に直面したところに不幸があったとおもう。

当時の村山政権の初期対応のまずさ、自衛隊の出動の遅れ、末端の行政の鈍さ、それはマニュアルがなければ又過去の経験がなければ臨機応変に動かれない、そして指示が出なければ自分の判断で動けない体質が又保身のみで例外的な事はしない・・・・例えば伊丹の自衛隊は近くにいたわけで回りの状況が一番わかるはずで、そこから指示を出すのが的確な行動ができるはずで、指示を待つのは本末転倒している。

これはほんの一例、このような事態こそ行政の力を最大限発揮するところである。

いかに早く現場から情報の発信し指示出せるかが今後の課題になると思う。
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阪神・淡路大震災・・私の体験記 13

2010-01-20 22:09:07 | 阪神・淡路大震災 私の体験記
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話が飛び又時間的な記憶が「づれて」いることがありますがお許し下さい。 以後は当時の友人、知人の話も加えます。 
これからの震災の参考になれば幸いです。

長田区を担当していた関係上、そちらの話になりますが、難波会長(当時日本中古自動車連盟会長・現朝日オートセンター社長)が避難している会員に激励と見舞金をもって避難所(学校など)をまわりました。 
年配の方たちは(65歳以上)会社や周りの現状を考慮すると年齢などのことも考え悲観的になり再建を断念する方向で考えている旨を話されていたそうですが、ほとんどの方たちが現在も商売をされています。
整備業者の50%が廃業したのと比較しますと、中古車車業者の方たちの努力と幸運に感謝したいです。

友人のY君は地震当日(17日)始発電車で大阪に行こうとJR三宮で電車を待っているとあの地震になり家族が車ですぐ引き返してY君を乗せて灘の自宅に帰る途中車の明かりを見て助けをよぶ声があちこちから聞こえたそうです。 
でも余震がありビルや家が崩れて道をふさぎそうなのと自宅の家族が心配になり自宅を目指したそうです。、

西宮市仁川に住んでいるI君は自宅の前のアパートが倒壊し近所の人たちと約10人救出したそうです。

長田区の友人の話です。家の下敷きになった母を助けようとしたが火がせまってきて母から「危ないから逃げなさい。」といわれたがなんとか努力し助け出そうとしたがだめだったそうです。

なぜ、この話をするかといえば、長田区の火災の件ですが、社員T君の話を聞くと消防局のヘリコプターは水をかけると埋まっている人たちが窒息するので水をかけなかったそうです。
おそらくマニュアルがそうなっていたのだと思います。
その場にいた人たちは火事を初期の段階で消せたら、窒息の死者がでるより火災の死者の方がはるかに多かったと思います。
声が聞こえていて助けられないほど辛い事はありません。

その人たちの心のケアを考えると火災はなんとか食い止めなければなりません。
神戸市、芦屋市、西宮市など海の近くなので海水を利用する方法はなかったのか?
道が寸断されているのでヘリコプターの消火が威力を発揮します。
できるだけ多く作る必要がある。
そして取材のヘリコプターの風が火災を広げている可能性があるので、ヘリコプターは少なくして共同で取材されることを希望します。
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阪神・淡路大震災・・私の体験記 12

2010-01-17 01:23:38 | 阪神・淡路大震災 私の体験記
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六甲山を挟んで海側と裏側では有野川をはさんで六甲山側と藤原台側(三田市より)とは被害状況が全く違いました。
藤原台側はひどい揺れはあったけれども家が倒壊するほどまでではありませんでした。
しかし有野川よりは北区大池に住んでいた社員のS君の家も全壊し、お客様で有野台に住んでいたO様も家が全壊でした。
残念なのはロイヤルモータースを有野川をはさんで向かい側の神戸市の文化財になっていた中さんの家が倒壊した事です。
「中さんは元庄屋で明治維新後苗字を付けるのに中さんの家を中心に前を中前、東を中東、南を中南、西を中西、北を中北、とつけたので有野町にはそのような苗字が多いのです。」


六甲山の海側は死者が多数出てそちらの状況が注目されていましたが、有馬温泉も月光園、兵衛、グランドホテルなどが倒壊しました。 しかし火災もなく死者もほとんどいなかったのが不幸中の幸いでした。

水不足は洗濯も出来ない状態になりましたが、幸いロイヤルモータースの水道が無事で会社で洗濯が出来ました。
そこで二週間後洗濯機を展示場側の水道の近くに移動して一般の方が使えるようにし、お客様には手紙が届くか判らないが水道の復旧していない地区(神戸市、西宮市)に「洗濯や飲料水に水道と洗濯機を使用して下さい。夜間は入り口のチェーンを越えて入って下さい。」と手紙を送りました。
実際、灘区、東灘区のお客様が夜間洗濯している姿をよく見かけました。

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阪神・淡路大震災・・私の体験記 11

2010-01-16 23:58:22 | 阪神・淡路大震災 私の体験記
阪神・淡路大震災・・私の体験記を「1」からご覧になりたい方は、カテゴリーから「阪神・淡路大震災・・私の体験記」をクリックして下さい。 総て出てきます。


当時、兵庫県中古自動車協会の副理事長をしていた私は長田区の担当で連絡の取れない会員を探すのにどうすることも出来ませんでした。

長田区に住んでいた当社のオートプッラツ ロイヤル店(灘区)の店長T君も震災が起きて3週間後に電話があり無事と聞き安心しましたが、それまではテレビの死亡欄に名前が載らなければいいがなあと思いながら見るだけでした。
理由は震災の後の火災です。
家などの建物が倒壊して道がふさがり自動車は勿論のこと、自転車でも入りにくくまた救助の妨げになるのでなるべく長田区へ入らないようにと連絡が入り動けなかったからです。
一ヵ月後本社に出社したT君にその事情を聞くと二階建ての彼の家は一階が全壊し二階に居た彼と奥さんと子供二人は、真っ暗な状態で家から脱出しようとしたがドアが開かず偶然あったゴルフクラブで壁に穴を開けると先に又壁があり結局3つ壁に穴を開けてやっと外に出る事ができたが一階が倒壊し低くなった二階から道路の空地に家族を下ろすと、明るくなってきたので一階にいたお祖母さんを助けようとしたが、回りの家も同じ状態でどうしようもなかったそうです。 そのうちあちこちで火事が発生し自分たち家族が逃げるのがやっとだったそうです。
何軒もの家の上を越えて避難したが、途中助けを呼ぶ声があちこちからしたそうですがどうしようもなかったそうです。
人に言えない大変悲しい目にあったのでしょう。

地震に続く火災で相当精神的に参っていたみたいで、明るい性格の彼が以後3ヶ月ぐらい無口になっていました。

家が無いので会社(北区)の回りを探しましたが、すべて入居してありませんでしたが偶然有馬にアパートの一階が空いているので照会すると、奥様が一階は怖いと拒否されました。 震災の体験がそうさせたのでしょう。 空いている理由もそのことかもしれません。
結局、彼は長田区のお父さんの家に家族で行くことになりました。

震災から一週間は電話が混んでなかなか連絡がつかない状態の中、震災の翌日家は無事だった弟から500mはなれたガスタンクにヒビがはいり爆発の恐れがあるので、今から近くの学校に避難すると 連絡がありました。 義兄の会社に勤めている弟は土木関係の仕事をしている為、神戸市に協力して飛び回っていたそうで大変なことになったが体だけは大事にしろと言うのがやっとでした。

我が家の方は電気は2~3日でついたのですが、水が約一ヶ月出なかったのとガスが回復するのに二ヶ月かかりました。
飲み水と洗濯は会社が無事だったので助かりましたがお風呂は三田市の銭湯に行きましたが
神戸市内からたくさんの人たちが殺到してお湯が足りなく浴槽からお湯を汲んで体を洗うだけでした。 一ヶ月ぐらいして近くのゴルフ場や有馬温泉などお風呂を無料開放していました。 ただ残念なのは情報不足で知らない人が多かったです。
私も近くの五社温泉(今は無い)によく行きました。
ふだんアベック専用ホテルが家族歓迎と家族で入る光景もありました。

震災も1週間経つとお風呂の事も重要な課題になります。
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