4月22日 姜尚中(カン サンジュン)の母 (オモニ)をNHK BSで放送していました。
母(オモニ)は姜尚中の母の話で生まれる前の話が最初に掲載されていて驚きました。
終戦間近かの熊本市健軍の様子が詳しく出てきます。
昭和20年頃の熊本市健軍は三菱重工熊本航空製作所があり、ハイおじさんの父はそこに勤務し社宅に住んでいました。 父母は新婚ホヤホヤでした。
そして空襲があり市街地の5分の1は焦土と化し死傷者は800人を超え罹災家屋1万戸、罹災者四万人の大惨事であった。(オモニより)
ハイおじさんの父の話を聞くとグラマン(戦闘機)に追い回され辛うじて母と手を取り合って橋の下に逃げて助かったと話してました。
その時笑いながら機関銃を撃ってくるのがはっきり見えたそうです。
終戦の半年前に熊本工場の総務部に在籍していた父は爆撃の合間に死体運びが仕事になっていたそうです。
そして終戦後、三菱重工は三社に解体され米兵が銃を突きつけジュラルミン(航空機の資材)で弁当箱やら鍋を作らされたと悔しがっていたそうです。
あとの話だが、父は仕事をリタイヤし世界各地を周り、それこそアフリカからシルクロードまで行ったが、「アメリカ人が嫌いだ!」と言ってアメリカ本土にだけは行きませんでした。
母を残して(母は阿蘇に疎開しハイおじさんをお腹に抱えながら食料難なので畑をしていた。)福岡に出張に出た時、国や会社、妻やお腹の子供の行く末を考えて絶望感を漂わせていたのだろう。
肩をポンポン叩く外人が立っていて、父の話を聞くと、ポーランド人(後にTVで著名人と知る)が「心配するな!あなた達は恵まれている。 私たちの国は昔から大国に囲まれて辛い思いをしたがそのつど立ち直ってきた。 日本もあなたも必ず立ち直る。」と励まされたそうです。
ハイおじさんが生まれて5年後、姜尚中さんが熊本で生まれました。
姜尚中さんは奇しくも父の行っていた済々高等学校の後輩になります。
在日と日本人の違いはあるが二人とも「戦争を知らない子供たち」だ。
「戦争は二度としてはいけない。 徳になる戦争は絶対無い。」と父は言っていました。
姜尚中さんほどうまく書けないが又父母の事を(ルーツ)を書きたい。
2011年10月3日のロイモのブログ
「あんぽん」(ただいま愛読中)
姜尚中さんが生まれて6年後に佐賀県鳥栖市の朝鮮に在日の孫正義さんが生まれる。
似たよう境遇から近くに二人の偉人が生まれました。
次回に続く・・・・・ただし、いつになるか分からない!
*差別用語が使っていますが二つの本の趣旨を伝える為(本の中で使われている)使いました。*