ロイヤルモータースとその仲間たち

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ハイキングと古道・六甲編

2007-05-31 07:22:47 | 山本店長のブログ
有馬郡南部から、兵庫、灘方面へ出る近道として、江戸時代に六甲山を横断する間道が開けてきた。 六甲越えといわれる間道で主だったものに、東から「船坂間道」「湯山間道」(湯山とは昔の有馬の呼び名で通称「ととや道」とよばれている道)「唐櫃越間道」の三ルートがあった。 兵庫,灘にいく場合、従来の街道を利用すると生瀬、小浜,昆陽、西宮など各宿駅を経て大きくう回しなければならなかった。 それにくらべ、これら間道は険しい山道であるが、はるかに道程は短くなり便利であった。 しかし正規の街道でなく、幕府によって1711年(正徳元年)間道の人馬通行を禁止された。 この時、生瀬などのこれら宿駅側は、その特権を持って間道利用の差し止めの挙に出、間道利用の在郷村と紛争を起こした。 さて唐櫃越間道であるが(有野町誌なので唐櫃越間道を中心に書かれている)、この道は上唐櫃の遠坂から山谷下を経て山道を上がり、六甲山上の前ケ辻に出た。 この道は行者道とも呼ばれた。 六甲山上からは現在アイスロードといわれる住吉道を下り、ケーブル土橋駅付近に出る。 灘方面から鮮魚や海産物、また裏六甲側から米、野菜、蒔などが運び出された。 このころ唐櫃、西尾、切畑などには米穀運送渡世人、荷継渡世人という運送業者があり繁盛していたという。
 しかし、この道も例外なく、生瀬など宿駅側から通行差し止めの訴えが大坂町奉行所に出された。 これに対し利用者側の有馬郡58ケ村が歎願書を出して対抗するなど明治維新間際まで紛争が続いた。
*村について 明治以前の村の存在は、村民の共同の力がなければ成立し得なかった。 当時は土地の開墾、かんがい工事、農耕作業などすべてが人力で、大変な労力を要する為、村民の共同体の意識が生まれ、いろいろの決め事(掟)がつくられた。 そのきまりごとを守るために自然発生的に村の自治が運営された。
約30戸が1ケ村で例えば五社から田尾寺まで八ケ村 堀越村、切畑村、西尾村、岡場村、馬場村、結場村、田尾寺村、二郎村 があった。
                        有野町誌参考
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