安倍晋三では日本の教育は取り戻すことはできない/自立(自律)した児童・生徒は育成できない

2012-12-09 12:34:37 | Weblog

 自民党は選挙公約で、「日本を取り戻す」をテーマとしている。選挙コマーシャルでも、「日本を取り戻す、教育を取り戻す」と自信たっぷりに断言している。

 だが、安倍晋三はその自信たっぷりの断言に反して「取り戻す」ことはできないだろう。

 少なくとも教育に関しては取り戻すことはできないと断言することができる。

 安倍側近が2006年11月16日に安倍晋三が成立させた改正教育基本法の具体化に関して安倍自身の思いを代弁しているのだろう、「民主党政権になってから、改正教育基本法の理念が教育現場で生かされていない」(毎日jp)と言っているそうだが、教育の責任は民主党政権のみならず、自民党政権にもあり、共同責任であるはずである。

 そのことを自覚せずに民主党政権のみに責任転嫁、特に民主党の有力な支持母体の一つである日教組を日本の教育荒廃の元凶、もしくはA級戦犯に位置づけ、憎悪の対象としているが、大いなる心得違いと言わざるを得ない。

 《安倍自民総裁、日教組を批判 「学校サボって民主支援」》47NEWS/2012/11/25 12:51 【共同通信】)

 11月25日のテレビ朝日番組。

 安倍晋三「今でも恐らく、学校をサボって民主党議員のポスターを張っているのは日教組の先生だと思う」

 記事解説。〈北海道教職員組合による小林千代美元衆院議員陣営への不正資金提供事件で、教職員の勤務実態が問題になったことを踏まえて日教組による民主党支援の在り方に疑問を呈した発言だが、民主党側から反発が出そうだ。〉――

 安倍晋三(輿石民主党幹事長を念頭に)「幹事長が日本の教育をゆがめてきた日教組のドンだ。民主党の本質がそこにある」――

 安倍改正教育基本法が、「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」云々と、いわゆる愛国心教育を眼目の一つとしたことについて、安倍晋三は当時次のように国会答弁しているそうだ。

 安倍晋三「心は評価することはできない。だが日本の伝統と文化を学ぶ姿勢や態度は評価の対象にする」(Wikipedia

 ここに安倍晋三の精神性が現れている。「日本の伝統と文化」を学ばさせることが愛国心涵養につながるとする価値観は「日本の伝統と文化」を日本人精神の主たる権威とする権威主義に立っていることによって成り立つ精神性であろう。

 思想・信条の自由を保障されている民主国家日本に於いて何を精神の権威としようと自由であるはずだが、戦前からつながる「日本の伝統と文化」に限定して日本人精神の主たる権威だと国家権力を以って上から強制する権威主義は国家主義そのもので、こういったことが安倍晋三をして国家主義者足らしめている。

 また愛国心評価であるが、親切な人間であるか、そうでないか、辛抱強い人間であるか、そうでないか、あるいは粗暴かそうでないかといった人間の内面は日常行動に於いて自然と現れる。だが、愛国心に関しては戦前とは違って愛国心表現の対象が乏しい現在、日常行動での表現は限られることになる。

 戦前に於いては、「鬼畜米英」と叫べば、それが愛国心表現となった。町内会一丸となって、竹槍を天に向けて突き刺せば、それが愛国心表現となった。

 戦後の現在、愛国心表現は「日本の伝統と文化を学ぶ姿勢」を見せること、さらには国旗掲揚時に国旗に向かって直立不動の姿勢で敬意を込めて正対するとか、国歌斉唱のときも直立不動の姿勢でしっかりと歌うとかに限られる。

 だが、こういったことはその場限りの形式で演ずることもできる愛国心である。

 「心は評価することはできない」と言いながら、愛国心という「心」を「日本の伝統と文化」を日本人精神の主たる権威とする権威主義や形式で演ずることができる愛国心表現で評価しようとした。

 ここに矛盾が存在しないと言えるだろうか。

 よりよい評価を得ることを目的とした愛国心表現の蔓延を招くことは戦前の非国民というレッテル貼りを恐れて、それを避けるためだけを目的とした愛国心表現の蔓延が証明してくれる。

 こういったことを考えることのできない安倍晋三の合理性を欠いた判断能力からはどのような教育改革も望むことはできまい。

 安倍晋三の思いを代弁しているだろう安倍側近の「民主党政権になってから、改正教育基本法の理念が教育現場で生かされていない」と言っていることについて、安倍内閣は2006年10月10日、教育改革政策策定の教育再生会議を設置している。

 この教育再生会議は小渕内閣2000年3月設置の教育改革国民会議を受け継ぐ組織であり、その焼き直しである。

 小渕内閣を引き継いだ森喜朗内閣教育改革国民会議の2000年12月22日最終報告は「教育を変える17の提案」を内容とし、「教育の原点は家庭」だとか、道徳教育や奉仕活動の導入、「伝統文化や社会規範」の尊重、「郷土や国を愛する心や態度」の育成を謳っている。

 安倍晋三教育再生会議も、「家庭は教育の原点」だと謳っているし、「学校は、『道徳の時間』について十分な授業時数を確保し、体験的活動や心に響く教材を取り入れる。また、地域や企業の有識者を招いた授業を実施するなど、道徳教育を形骸化させない」と道徳教育の強化を求めているし、奉仕活動に至っては、高校での奉仕活動の必修化ヘと一歩踏み込んでいる。

 伝統・文化に関しては既に触れたように安倍晋三改正教育基本法で「伝統と文化」の尊重を、さらに教育改革国民会議「郷土や国を愛する心や態度」自体が同じく改正教育基本法で、「我が国と郷土を愛する」へと引き継がれている。

 これらの要求項目によって児童・生徒の規範意識、社会規範を育むということだが、小渕内閣が2000年3月に教育改革国民会議を設置、それを受け継いで森内閣が「教育を変える17の提案」を行い、安倍晋三が新たに教育再生会議を設置、安倍晋三退陣後も具体化の方法論は福田内閣に向けて第3次報告、最終報告と続いたが、理念は2006年11月16日の安倍晋三改正教育基本法で一応の結実を見たはずだ。

 小渕内閣の2000年3月から始まって、政権交代、麻生太郎首相退陣の2009年9月まで9年の年月を経ていながら、自民党政権下で日本の教育の再生は果たして成し遂げることができたのだろうか。

何ら変わらず、日本の教育の質は以前通りのまま続いた。だからこそ、安倍晋三は政権復帰を果たしたなら、マニフェストで、「教育を取り戻す」、「教育の再生」を掲げたはずだ。

 いわば9年の年月を費やしていながら、自民党政治は安倍政治をも含めて、日本の「教育を取り戻す」に力を持たなかった。

 当然、安倍晋三の思いを代弁して、「民主党政権になってから、改正教育基本法の理念が教育現場で生かされていない」は既に指摘したように責任転嫁以外の何ものでもない。

 尤も安倍晋三に日本の教育を取り戻して欲しくないという日本人は多く存在するはずだ。断るまでもなく、国家主義の支配下に置くことになる、その立場からの日本の「教育を取り戻す」を姿勢としているからだ。 

 国家主義とは「国家を全てに優先する至高の存在、あるいは目標と考え、個人の権利・自由をこれに従属させる思想」(『大辞林』)三省堂)であって、国家を上に置いて国民を下に置き、下の国民をして上の国家に従属させる最大の権威主義を意味する。

 教育政策に関してマニフェストは、〈自民党は、世界トップレベルの学力、規範意識、そして歴史や文化を尊重する態度を育むために「教育再生」を実行します。〉と謳っているが、日本の暗記教育は教師を児童・生徒に対して上に位置させ、教師に対して児童生徒を下に位置させて、上に位置する教師が与える知識・情報に対して下に位置する児童・生徒にそのままなぞる形で従属させる構造を取るゆえに兼々権威主義教育だと言ってきたが、この教師の上からの知識・情報の伝達と児童・生徒の教師からの知識・情報をそのままなぞる形の受容という権威主義的関係下の規範意識の涵養は一般授業に於ける知識・情報の授受と同じく、教師の教える規範をそのままなぞる形で自身の規範とする経緯を辿ることになる。

 暗記教育が教師と児童・生徒間の知識・情報授受の間に児童・生徒の考えるブロセスを用意していない構造となっているからに他ならない。

 児童・生徒が自身で考え、判断し、納得した上で自身の精神性とするのではなく、考えも判断もせずに教師が言う規範を暗記する構造を取るということである。

これはしてはダメだ、あれはしてはダメだと指示・命令することを、あるいはこうせよ、ああせよと指示・命令することを単に暗記して、暗記したあるべき行動を必要に応じて形に現す。

 当然、皆が皆、ほぼ同じ規範行動となって、戦前同様に 右向け右人間を作ることになる。

 いや、暗記教育は戦前で終わりを告げたのではなく、戦後も受け継いで今日に至っているゆえに横並び型人間やマニュアル人間等の右向け右人間を世に出現させることになっている。

 児童・生徒自身が考え、判断して自らが決めるという知の構造こそが、児童・生徒が知識・情報の取捨選択、判断等に関してそれぞれが独自の形を取って行くことになる自立(自律)の精神構造へと児童・生徒を向かわせるはずだが、暗記教育は常にその逆をいっている。

 日本の教育がこのような構造となっていることに思い至らなければ、いくら規範意識を植え付けようとしても、ムダな抵抗として終わるだろう。

 要するに安倍晋三の国家主義という権威主義そのものが暗記教育を体現するしているのである。

 国家主義の最悪の表現は自分たち国家に都合のいい知識・情報で国民を統一、同じ行動を取らせることである。現在の北朝鮮がそのような状況にある。

 安倍晋三は12月16日、選挙応援に駆けつけた大阪・北区の街頭演説で次のように勇ましいことを発言している。

 安倍晋三「すべての子どもたちが、高い学力や道徳心、規範意識を身につける機会を保障していく。子どもたちに、何が正しいふるまいで、正義とは何かを教える、まっとうな教育を取り戻していく」(NHK NEWS WEB

 児童・生徒に対して知識・情報の暗記を専らとさせ、自ら考え、判断して自分なりの知識・情報へと昇華させる取捨選択能力・咀嚼能力を育む教育構造とすることができない日本の教育となっているという認識を国家主義者らしく持たない安倍晋三には、暗記知識ではない真の「高い学力」、自分で判断して行動する「道徳心、規範意識」は身につくはずはなく、当然、「子どもたちに、何が正しいふるまいで、正義とは何か」は自分で判断できず、他人の判断に任せたり流されたりすることになり、自立(自律)心の育みは望みようのない「まっとうな教育を取り戻していく」ことになる。

 自ら考え、判断して自分なりの知識・情報へと昇華させる取捨選択能力・咀嚼能力を育むことを通して自立(自律)心を養う教育はゆとり教育の総合学習が目標としていたが、安倍晋三教育再生会議はゆとり教育の見直しを謳い、実現させることとなった。

 この点からも、安倍教育改革では児童・生徒が自身で考え、判断して行動する、当然そこに責任が生じる自立(自律)心に基づいた真の規範意識は身につけることができないことになる。

 要するに安倍晋三という政治家自身の認識能力・判断能力が問題だということである。

 そこを直さない以上、制度やその他、何をどういじろうとも、いじっただけで終わることになるはずだ。


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