臨界事故隠しを石原DNA論で読み解く

2007-03-25 04:55:57 | Weblog

 北陸電力が志賀原発1号機(石川県志賀町)で1999年6月18日に臨界事故を起こしながら、発電所長以下の会社ぐるみの組織的臨界事故隠し。東京電力の福島第1原発の臨界事故隠しの可能性と福島第2原発3号機(1993.6)と柏崎刈羽原発1号機(2000.4)の定期検査中の制御棒脱落トラブル。東北電力女川原発1号機(1988)の同じく定期検査中の制御棒脱落トラブル。静岡県の中部電力浜岡原発3号機の1991年のこれも検査中の制御棒脱落トラブル。

 制御棒脱落のみで臨界には至らなっかたケースは国への報告義務対象外で、報告していなかったと言うことだが、臨界には至らなかったと言うことは逆に臨界に至るケースも起こり得るわけで、制御棒の脱落自体を重大事故と位置づけなければならなかったのではないだろうか。

 このことは東京電力の福島第1原発での臨界事故を起こしていた可能性が制御棒脱落が原因となっていることが証明している。

 2007年3月23日の『読売新聞』インターネット記事によると、<東京電力は22日、福島第1原子力発電所3号機(福島県)で1978年の定期検査中に臨界事故が起きていた可能性が非常に高いと発表した。
 停止中の原子炉から、出力を抑える制御棒137本のうち5本が脱落した。臨界は最長7時間半も続いたとみられている。
 国には報告しておらず、法令違反だった疑いがある。本店への報告の有無は不明だが、運転日誌に記録はなく、隠ぺいした可能性が高い。国内初の臨界事故だったとみられる。
 この後にも、5号機で79年に、2号機で80年に制御棒1本が脱落するトラブルが起きていたことが判明。福島第2原発3号機と柏崎刈羽原発1号機と合わせ、東電の制御棒脱落トラブルは計5件となった。いずれも北陸電力志賀原発1号機の臨界事故を受けた社内調査で判明した。(後略)>

 上記例は制御棒脱落が臨界事故に発展しない危険性は決してゼロとは言えないどころか、逆に臨界事故と隣り合わせることとなる重大事故、あるいは臨界事故一歩手前の局面と見るべきで、電力各会社はそうと知っていながら、制御棒脱落までは国への報告義務の項目に入っていないからと積極的には報告しない一種の隠蔽を行った、隠蔽とまではいかなくても、偽装もどきのことをしたと受け取られても仕方がないのではないだろうか。

 少なくとも東京電力は福島第1原発3号機で臨界事故の可能性を把握しながら、制御棒脱落までは報告義務の項目に入っていいないからと「臨界事故の可能性」を隠して、事故を制御棒脱落までとする隠蔽を行い、国に報告しなかったと十分に疑うことができる。

 いくら国への報告義務がないからと言って、臨界事故に至る危険性を抱えた制御棒脱落を知らされない周辺住民は、耐震偽装された建物であることを知らされずに住み続けているマンションの住民と同じ状態に置かれていると言えるのではないだろうか。一般世間にしても何も知らされないことによって、原子力発電は安全であるという思いを無意識下に植えつけれらることになる。このことを裏返すと、電力会社は何も知らせない隠蔽を行うことによって、一般社会に対して仮想の安全をつくり上げる偽装を働いていたと言えるのではないだろうか。

 我々は重大な臨界事故を過去に経験していることを常に記憶しておかなければならない。その一つは1999年の放射能被爆によって2名の死者まで出した茨城県東海村JCO臨界事故である。「現地では事故現場から半径350m以内の住民約40世帯への避難要請、500m以内の住民への避難勧告、10km以内の住民への屋内退避/換気装置停止を呼びかけ、現場周辺の県道、国道の閉鎖、JR東日本の常磐線水戸 - 日立間、水郡線.水戸-常陸大子・常陸太田間の運転見合わせ、常磐自動車道東海パーキングエリアの閉鎖、陸上自衛隊への災害派遣要請といった措置がとられた。(以上の措置は全て日本で初めて)」(東海村JCO事故――Wikipedia)

 危機管理とは常に最悪の事態を想定して、そのことに万全の体制で備えることを言うとするなら、臨界事故に至る危険性を抱えている制御棒脱落を国への報告義務なしとした国の姿勢、及びその危険性を常時認識していなければならない電力各社が危険性を無視、あるいは過小評価して国の決定に無条件に追従していた怠慢とも言える姿勢は国民に対してある意味隠蔽行為を働いていた、先程の例で言い換えるなら、仮想の安全をつくり上げる偽装を働いていたとすることができるのではないだろうか。

 JCO事故では国家が憲法で国民の生命・財産の保障を約束していながら、政府の事故対策本部の設置が報告を受けてから約4時間後という遅すぎる危機管理対応も〝約束〟を偽装に貶める国家による国民に対する重大犯罪ではなかったろうか。

 このような国の偽装は一つや二つにとどまらない。1999年のJCO事故に2年を遡る1995年1月17日の阪神大震災では自衛隊の出動遅れや政府の危機管理対応のまずさは代表的な〝約束〟の偽装と言えよう。

 原子力発電所に関わる過去に於ける記憶しておかなければならない直接的な隠蔽・偽装を例に挙げるとしたら、敦賀市にある当時の動力炉・核燃料開発事業団(動燃)の高速増殖炉「もんじゅ」の1995年12月8日のナトリウム漏れ火災・爆発事故では、撮影した事故現場ビデオを編集して公開する悪質な隠蔽・偽装工作を行っている。

 さらに性懲りもなくというべきか、動燃は1997年3月11日に起きた茨城県東海村の東海再処理工場の火災・爆発、放射能被爆112人の大事故でも、保存すべき事故現場を一人の担当責任者が飛散物の回収と清掃を作業員に指示し、それを知った別の担当者責任者が<現場保存の必要性があると判断、作業中止と現場状況を元に戻すよう指示した>(「朝日」1997.5.1)、証拠隠滅とまでいかなくても、事故の物凄さを和らげようとしたのではないのか、隠蔽・偽装に相当する行為を働き、その上現場を写真撮影しながら、そういった写真はないと報告した後、写真とネガを裁断機にかけて処分する度重なる偽装・隠蔽を行っている。

 作業員に撮影を指示した<主査は「爆発物対応に追い回され、この写真の存在を忘れていた。今さら出すと隠していたと思われると、とっさに考え、なかったことにしようと思った」と話している>(同「朝日」記事)。

 「爆発物対応に追い回され、この写真の存在を忘れていた」ことが100%事実だとしたとしても、思い出した時点で提出せずに、その逆の「なかったことにしようと」裁断機にかけた行為は隠蔽・偽装に相当する無責任行為以外の何ものでもない。

 このような過去の隠蔽・偽装の歴史を受け継いでいで伝統・文化としているかのような今回の各電力会社の隠蔽・偽装を石原慎太郎がいみじくも言った「民族的DNA」論から解くとすると、「民族的DNAを表示するような隠蔽・偽装の蔓延」と言えないこともない。

 隠蔽・偽装が電力会社だけの専売特許ではないことが、「民族的DNA」化していることを証明しているとも言える。耐震偽装あり、食品の産地偽装あり、カネボウの巨額粉飾や日興コーディアルグループの粉飾決算に於ける偽装、古くは旧日本債券信用銀行(現あおぞら銀行)の粉飾決算偽装、政治家の収賄や政治資金虚偽報告といった隠蔽・偽装、官僚のカラ出張・カラ手当・経費水増し・キックバック等の隠蔽・偽装etc. etc、枚挙に暇がないとはこのことを言うのではないか。

 石原慎太郎が「民族的DNA」論を展開したのは産経新聞の隔日連載エッセー「日本よ【内なる防衛を】」の中でのことだが、同じ文章の中で、日本の「失われつつある美風の一つに、かつては外国人が称賛していた治安の良さがあるが――」と言っているように、日本は犯罪の少ない国と思われていたが、その〝犯罪〟とは殺人とか強盗といった身に危険が及ぶ強力犯罪のことで、会社や組織の中で地位や立場を利用して不正な利益を上げたり、会社、あるいは組織自体の利益を談合や虚偽によって図る、あるいは過失や不始末によって生じた会社・組織の不利益や責任を隠蔽・偽装する知能犯罪、いわゆるモラルハザード(倫理欠如)犯罪は強力犯罪を上回って社会に蔓延し、日本の歴史・伝統・文化としてきた。身の危険を受けることは少なかったが、その陰で好き勝手な不正を横行させてきたのである。 


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