江田五月「霞ヶ関の不十分な情報提供がマニフェスト実現の障害」だと言う無責任と説明責任不履行

2011-01-20 07:44:07 | Weblog

 
 江田五月が昨年9月の民主党代表選で菅側の選挙対策本部長を務めていたから、菅首相みたいな指導力ゼロ、合理的判断能力ゼロの人間を担ぐには同じく指導力ゼロ、合理的判断能力ゼロの相互反映としてある神輿(みこし)でなければできないことだ、類は友を呼ぶと思っていたが、この判断に一部の狂いもないことが分かって一安心した。と同時に、激しい怒りが湧いてきた。こんな手合いが国会議員を務めて何様顔を曝している。

 《法相 政権公約修正に柔軟姿勢》(NHK/2011年1月18日 13時30分)

 一昨日1月18日の閣議後の記者会見。民主党の政権公約=マニフェストについて。先ずは後半の発言から。

 江田五月「政権を担当してまもなく2年になるが、いろいろな経験や知識のほか、世の中の状況の変化を踏まえて、マニフェストについて一度きちんと点検し、より成熟させていく部分があればそういうことにして、国民の皆さんにしっかりと説明すればいい」

 記事はこの発言を、マニフェスト〈修正に柔軟な考えを示しました。〉と書いている。

 菅首相を始め枝野、仙谷、岡田、前原、玄葉と既にマニフェスト修正で共同歩調を取っている。いわば企業ぐるみならぬ内閣ぐるみの修正陰謀となっている。江田五月が新たに執行部に加わった一員として共同歩調に参加、その共同歩調の補強・陰謀に動いたと言ったところだろう。閣議で内閣全員で共同歩調を取るようにとの申し合わせがあったのかもしれない。一人修正に反対するような異質者が存在しては困る。閣内不一致だ何だとマスコミが騒いで、国民が閣内不一致を情報としないとも限らない。いつ何時支持率が再下降線を辿りかねない危機的状況にあるのである。

 「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と同じで、内閣一体で全員して修正の声を上げれば、それがいつしか正論となって国民にも伝わると考えていたのかもしれない。

 江田は法務大臣の肩書きを持った執行部の新参者として同じマニフェスト修正の共同歩調を取るにしても特別に気の利いた議論を展開しなければならないと考えたのかもしれない。合理的判断能力ゼロの人間が往々にして陥る落とし穴である。

 江田五月「霞ヶ関から民主党に十分な情報を提供していただいていないなかで、『こうじゃないか』ということで作った部分がある。そのまま実現させるには隠れた障害があったのではないか」

 合理的判断能力を全く欠いた、ゼロに等しい見事なご都合主義の詭弁となっている。菅首相を筆頭に枝野、岡田、仙谷、与謝野、玄葉、そして江田と、詭弁家がこうまでも雁首を揃えるのは珍しい現象だ。まさしく類は友を呼んで、詭弁好きの同好会をなすの様相となっている。

 これまでも菅首相以下、様々にマニフェスト修正の自己都合な詭弁を繰返して来ているが、江田の場合はいかがわしいばかりのマニフェスト不完成度自己容認の新説の披露となっている。

 この男が民主党最高顧問兼倫理委員長の肩書きを持っている。「倫理」とは人として守るべき道、道徳を言い、倫理観は強固な責任意識によって支えられる。政権党の倫理委員長を名乗っている以上、ダイアモンド以上の強固さを備えた、如何なる状況に於いてもびくともしない責任意識を備えていなければならない。

 マニフェストとは政権を取れば、国民との契約(書)となる。また、契約とは約束したことを一言一句違えてはならない制約を受ける。一言一句でも違えたなら、契約としての体裁を失う。契約行為はそれ程までにも厳しい約束事となる。江田五月も元弁護士だそうだから、このことぐらい承知していたはずだ。

 マニフェストに掲げた各政策を政権を取った場合に備えて国民との契約(書)とするためには何としてでも十分な情報を確保して、その情報を精査・検証の上に精査・検証を重ねて万全を期して政策構築を行い、これで十分だと、対立政党の各政策に優越する政策だと国民に胸を張って約束できる、あるいは国民との契約(書)足り得ると自信を持った上で国民に提示するのが政治の責任、各政党の責任であるはずである。

 当然、十分な情報提供を怠った霞ヶ関に責任があるのではなく、十分な情報提供を遂行させる努力を怠った、あるいはその能力を発揮できなかった民主党側に責任があることになる。

 このことは官僚を使いこなす能力にも関係していくことにもなる。政権党という権力の虎の威を借りなければ官僚を使いこなせないでは、その指導力は時と場所と立場を選ぶこととなって、元々の指導力は確固とした姿を取っていない甚だ頼りないものとなる。

 それをあとになって、 「霞ヶ関から民主党に十分な情報を提供していただいていないなかで、『こうじゃないか』ということで作った部分がある」では、マニフェストを国民との契約(書)に持っていく責任遂行の使命からして、余りにも杜撰、余りにも無責任ではないか。

 不十分な情報提供のもとでマニフェストを作成されることが許されるとしたら、国民との契約意識を欠いていたときでなければならない。いわば江田五月は、国民との契約意識を欠いていた状況下で民主党のマニフェストを作成したと言っているに等しい。何といういかがわしいばかりの責任意識なのだろうか。

 これが民主党の最高顧問兼倫理委員長の責任意識である。人間自体がいかがわしくできているから、いくらでもいかがわしいばかりに無責任になれる。

 実際にマニフェストを「霞ヶ関から民主党に十分な情報を提供していただいていないなかで、『こうじゃないか』ということで作った部分がある」としたら、マニフェストの修正部分を「国民の皆さんにしっかりと説明」する前に、不十分な情報に基づいて国民との契約(書)となるマニフェストを作成した無責任を先ず最初に謝罪すべきであろう。

 だが、江田は無責任の謝罪には一切触れずに、修正を国民に説明すればいいとのみしている。この責任感もさすが民主党の最高顧問兼倫理委員長だけのことはあると感心しないではいられない。

 勿論謝罪するに関しては、提供を必要としながら、どの政策にどのような情報が提供されなかった、さらに「霞ヶ関から民主党に十分な情報を提供」がなかったことでどの政策にどのような障害が生じたか、国民に対する具体的且つ懇切丁寧な説明責任を負うことになったのだから、その説明責任を果たした上での謝罪でなければならない。

 いわばマニフェスト修正を国民に認めさせるために「霞ヶ関から民主党に十分な情報を提供していただいていないなかで、『こうじゃないか』ということで作った部分がある」と発言するだけではなくて、どの政策にどのような情報が提供されなかったかの説明責任を果たした中での修正発言でなければ、政権党としての責任を果たしたことにはならないということである。

 だが、江田は民主党の最高顧問兼倫理委員長を勤めているだけあって、修正の説明だけで政権党の責任を果たせると思っている。さすが菅首相のお追従子分にふさわしい責任意識ゼロ、合理的判断能力ゼロと言える。

 江田五月の名言は《江田法相「マニフェストは(野党時に)心眼で作った」見直しへ》(MSN産経/2011.1.18 12:38)が伝える名言と少し違っている。

 江田五月「マニフェストは、われわれが政権にいないときに、霞が関(の官僚)が民主党には十分な情報を提供していただいていない中で、『心眼で見るとこうじゃないか』ということで作った部分がある。実現するには、いろんな隠れた障害があった。実際に政権を担当して、いろんなことが分かってきている。世の中の状況の変化もあり、マニフェストについて一度きっちりと点検をし、より成熟させる部分があればそうしていく」

 責任意識ゼロ・合理的判断能力ゼロの政治家が「心眼」とは恐れ入る。

 【心眼】「物事の真実の姿をはっきり見抜くことができるような心の働きを目に見立てた語」(『大辞林』三省堂)

 心眼を獲得できるような人間はそうザラにはいないはずだ。私などはどちらかと言うと、鈍眼人間に出来上がっている。ましてや責任意識ゼロ・合理的判断能力ゼロの政治家である江田五月が心眼など獲得しようがない。

 それを「心眼」なる言葉を使う。責任意識ゼロ・合理的判断能力ゼロだけあって、傲岸不遜そのものである。何様と思い上がったのか。

 法務大臣に就任した途端、急に偉い人間になったとでも過信したのだろうか。

 いずれにしても先ずは江田五月に、提供を必要としながら、どの政策にどのような情報が提供されなかった、さらに「霞ヶ関から民主党に十分な情報を提供」がなかったことでどの政策にどのような障害が生じたか、国民に対する具体的且つ懇切丁寧な説明責任を果たしてもらおう。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 菅首相は「政権をとればカネ... | トップ | 小沢一郎「新報道2001」出演... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Weblog」カテゴリの最新記事