菅内閣及びその閣僚たちの言葉の軽さは目に余るものがある。尤も親分の菅首相自身の言葉が軽くできているのだから、類は友を呼ぶの共通項としてある言葉の軽さかもしれない。一箇所に落ち着くことはなく、風に揺れる優先のように定まりがない。
菅首相が演説で発する言葉は国会答弁で四苦八苦するときとは違って、力強く響く低い声とメリハリを持った言い回しが幸いして言葉の重み――軽々に変えるとは思えない信頼性ある言葉の印象を与えるが、それは自身が一旦口にした発言を責任を持って実現する立場にはなかった、いわば口で威勢のいいことを言っているだけで済んだ野党時代だけのことで、常に実現能力を試される与党に席を置いてからはたちどころに言葉の重みも信頼性もそのメッキを剥がすこととなって、いとも軽い言葉の政治家の姿を曝け出すこととなっている。
多くがその例として挙げていることだが、野党時代の沖縄米海兵隊に関わる発言が典型例であろう。
《「撤退論」だった 海兵隊 いま「抑止力」》(2010年6月16日(水)「しんぶん赤旗」)
菅民主党幹事長「(沖縄の米軍基地について)すべての基地を最終的になくす大きな目標を持ちながら、まずは相当部分を占める海兵隊は即座に米国内に戻ってもらっていい。民主党が政権を取れば、しっかりと米国に提示することを約束する」(2001年7月21日の那覇市での演説、「朝日」同22日付)
菅直人「(戦後の日本外交は)『米国のイエスマン』と世界中から笑われようが、冷戦構造が崩壊した後も、政権が変わるたびに新しい首相は真っ先に首相官邸のホットラインで米国大統領に電話し、日米首脳会談の予定を入れるという『現代の参勤交代』ともいうべき慣行が続いている」
「民主党中心の政権では、沖縄の基地の相当部分を占める海兵隊の沖縄からの撤退を真剣に検討するよう米国にはっきり求めていく。沖縄の海兵隊基地の大半は新兵の訓練基地として使用されており、ハワイやサイパンなどに移転してもアジアの軍事バランスには影響しないはずだ」(『GENDAI』02年9月号)
菅民主党代表「私たちは沖縄の第三海兵遠征軍のかなりの部分を国内、国外問わず、沖縄から移転すべきだと主張している。米国の動きは現在、冷戦後のさらに後という位置付けで、兵力構成の考えが変わっている。ある意味で沖縄の基地を見直す大きな機会だ。国内移転よりハワイなど米国領内への移転が考えやすいはずだ」(03年7月21日、琉球新報インタビュー)代表
菅民主党代表代行「よく、あそこ(沖縄)から海兵隊がいなくなると抑止力が落ちるという人がいますが、海兵隊は守る部隊ではありません。地球の裏側まで飛んでいって、攻める部隊なのです」「良い悪いは別にして、先制攻撃的な体制を考えた時には、沖縄にいようがグアムにいようが大差はないわけです」「私は、沖縄の負担軽減ということで言えば、海兵隊全部をグアムでも、あるいはハワイ州では是非(ぜひ)来てくれといっていたのですから、そっちに戻って貰(もら)えばいいと思っています」「沖縄に海兵隊がいるかいないかは、日本にとっての抑止力とあまり関係のないことなのです」「(米軍再編で)沖縄の海兵隊は思い切って全部移ってくださいと言うべきでした」(06年6月1日の講演、『マスコミ市民』同7月号)
菅首相は自身の《公式サイト》で、沖縄に関する発言を「その場の思いつきでもリップサービスでもなく、民主党の基本政策と矛盾してはいない」と断言している。しかし与党を担う立場に立つと、野党時代に自身が発した、少なくとも沖縄の基地問題に関する言葉のすべてを軽くしている。
沖縄の基地に関わる数々の発言で少なくない国民の支持を得て、政治家としての自らの存在性をその言葉によって成り立たせていたはずだが、かつての言葉を軽くするということはその言葉によって打ち立てた自身の存在性そのものを裏切り、軽くすることでもあろう。
野党時代とは異なるこの言行不一致を北東アジアの情勢の変化と内閣という責任ある立場への変化を挙げているが、内閣を担ったんだから違うとする態度自体が既に実現能力を試されることはない野党時代であることをいいことに口で威勢のいいことを言っていただけだったことを証明している。
政治家は野党時代であろうと与党時代だろうと、一旦あるべき国の姿・社会の姿を自らの言葉で発信したなら、そのあるべき姿の実現に向けて最大限の努力を払う使命を担っているはずである。言葉で国民の支持を得て政治家としての自らの存在性を成り立たせている以上、言葉が国民と政治家を結びつけている政治家の存在性の証明書、存在証明となっているはずだからである。
だが、菅首相とその閣僚たちは野党時代の言葉を軽くするだけではなく、内閣発足以後も国民との間の契約として交わしたマニフェストに関わる発言を変更する、あるいは以前国会や記者会見といった公の場で口にすることで政治家の姿として国民に認知させた発言を変更する自らの言葉を軽くする挙に出ることが多く見受けられるようになっている。
重いはずの政治家の言葉を軽くするということは言葉によって国民との間に成り立たせた政治家の存在証明の価値を自ら貶めることに他ならない。
例えばたちあがれ日本を離党、菅内閣に入閣した与謝野馨、自民党で財務大臣を務めていた頃、民主党のマニフェストを批判、「殆んど犯罪に近い」と言っておきながら、2月1日に衆院予算委で言っていたことと入閣という行動の不一致を追及させると、「やや言い過ぎでございます」と言葉を変えているが、09年8月の総選挙では民主党が全国的に勢いがあり、その劣勢を跳ね返すためにも「殆んど犯罪に近い」という民主党マニフェスト批判の言葉で以て自らの政治家としての存在性をより際立たせたはずであり、選挙区では落選したが、比例区で返り咲くことができる投票数を獲得できて、政治家としての存在性を維持できた原動力ともなって議席を失わずに済んだのも「殆んど犯罪に近い」、あるいはその他の民主党批判の言葉であったはずだ。
いわば現在国会議員としての身分はこのときの批判の言葉も保証した与謝野自身の政治家としての存在性だったと言えるはずだが、その発言を軽くすることで、獲得した議席の資格を失わせているばかりか、自らの政治家としての存在性をも軽くしている。
また、与謝野馨は2月1日の衆院予算委員会質疑で自民党の稲田朋美議員の、無駄削減と予算組み替えで16.8兆円の財源が捻出可能とした民主党衆院選マニフェストについての質問に、「同情して言えば(民主党は財政の仕組みを)知らなかった。厳しく言えば無知であった」(時事ドットコム)と答えたにも関わらず、次の日の2月2日には一旦口にしたこの言葉自体を、「やや礼を欠く表現になり、大変申し訳ないと思っている」(MSN産経)と早々に変えて自らの言葉を軽くしている。さらに――
与謝野馨「マニフェストを作成した当時、民主党は野党だったため、政策を作る場合の情報量はどうしても少なかった。その当時、私は財務相だったが、財源問題は民主党が政策を行っていくうえで、最大の関門になるとすぐわかった。これからさらに厳しい壁があるだろう、と申し上げたかった」(同MSN産経)
マニフェストは国・社会の諸制度を整える政策として国民と交わす契約である。他と比較にならないその重要性から言ったなら、野党だったために情報量が少なかったでは国民に対して決して許されない当初からの裏切りとなる。情報量が少なかったために欠陥品として仕上がったマニフェストを散々に宣伝して選挙を戦い、国民の支持を得て政権交代を果たし、政権を担当することになった。
当然、無知であったという弁解も許されない。
与謝野が言っていることは菅内閣に入って立場を同じくしたための薄汚い庇い立てに過ぎない。もし事実無知であった、情報量が少なくてマニフェストを欠陥商品に仕上げることしかできなかったと言うことなら、そもそもの政権担当能力が疑われることになり、政権担当の資格を失う。民主党政権は早々に退場すべきだろう。
菅首相は1月13日(2011年)の民主党大会の挨拶で、国会で与野党を超えた議論が為されないなら、それは「歴史に対する反逆行為だ」と強い口調で野党を挑戦、真剣な議論を求めた、その言葉によって自らの政治家としての存在性を示したが、昨2月2日の衆院予算委員会でその発言をいとも簡単に撤回している。
先ずは1が13日の発言から。
菅首相「これまで先送りされてきた大きな課題に取り組むことができるのかが問われている。経済、社会保障の財源、そして地域主権の問題、国民が参加した外交のあり方、これらのことについてわが党の責任である、従来政権を持っていた自民の責任であるということを超え、われわれ世代の責任、今政治に携わっている私たちの責任という認識で党派を超えた議論が必要だということも言うまでもありません。もし、野党の皆さんが積極的に参加しないならば、私はそのこと自体が歴史に対する反逆行為であります。そのように言っても決して言いすぎでない。逆に言えば、そうではないことを期待をして参りたい」(MSN産経)
自身を歴史の主宰者であるかのように何様に置いて大仰に挑戦した。2日の衆院予算委。《菅首相、「反逆行為」発言を陳謝》(TBS/2011年2月2日16:48)
石井公明党政調会長「総理が1月13日の民主党大会で、野党が協議に応じないなら歴史に対する反逆。こういうふうに発言されました。しかし、これまで社会保障の具体的な改革案を示さずに逃げてきたのは野党ではなく、むしろ民主党の方じゃないでしょうか」
菅首相「若干の言い過ぎがあったら、それは謝りたいとこう思っております」
石井公明党政調会長「かつて民主党は、野党時代に与野党協議を呼びかけられたら参加しなかった」
菅首相「やや、やっぱり野党という立場では、政局的に物事を考えがちであったなと思う」
野党時代の与野党協議とは「毎日jp」記事に福田政権が呼びかけた年金制度の与野党協議に野党の民主党が拒否したことだと書いてある。
同様の遣り取りを《予算委、公明が菅政権への攻勢強める》(TBS/2011年2月2日11:11)から見てみる。
石井公明党政調会長「かつて民主党は野党時代に、与野党協議を呼びかけられたら参加しなかった。与党になったら、今度は逆に与野党協議に参加しないということで、野党を批判している。これはもう、完全にご都合主義じゃないですか」
菅首相「確かにいろいろな場面について思い起こすと、反省が必要なところもあったと思います。やっぱり野党という立場では、政局的に物事を考えがちであったなと思う」
野党時代は与野党協議に応じなかったくせに、与党の立場になると、逆に野党に対して与野党協議に参加しなければ「歴史に対する反逆行為」だと居丈高な態度に出る。
これも野党時代の言葉を首尾一貫して守ることができずに軽くする一例であろう。「野党という立場では、政局的に物事を考えがち」だと言うなら、自民党や公明党、その他の野党が「野党という立場では、政局的に物事を考えがちであった」としても野党の一般的な姿だと許すべきであり、許されるべきことになる。自分たち野党時代は許され、与党となった現在、野党には許さないとするのは余りに身勝手、不公平であり、自らの言葉を著しく軽くする発言となる。
繰返しになるが、政治家は自らが発する言葉によって国民の支持を得て政治家としての自らの存在性を成り立たせる。言葉がそのような手段となっていて、言葉によって国民はその政治家のありようを知り、信頼を置いたり、不信を抱いたりする。いわば政治家の言葉は国民との間に成り立せる政治家の存在証明となる。
その言葉を菅首相やその他の閣僚が競うようにして軽くし合っている。一度確立した存在証明への裏切りであることは断るまでもない。
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