女性差別主義者・障害者差別主義者・人種差別主義者石原新党の男性支持よりも女性支持上位の怪

2012-11-09 10:26:51 | Weblog


 共同通信社が11月3、4日実施の全国電話世論調査で見た石原新党に対する期待度。

 石原新党に「期待する」 ――40・2%
 石原新党に「期待しない」――53・2%

 都市規模別の支持・不支持を次の記事から見てみる。《女性の45%期待 石原新党、都市部に強み 共同通信世論調査》MSN産経/2012.11.4 20:39)

 都市規模別

 大都市(東京23区、政令指定都市)

 「期待する」 ――42・1%
 「期待しない」――53・2%

 中都市(有権者10万人以上)

 「期待する」 ――41・1%
 「期待しない」――52・4%

 小都市(有権者10万人未満)

 「期待する」 ――37・8%
 「期待しない」――53・6%

 郡部(町村)

 「期待する」 ――38・0%
 「期待しない」――56・5%

 都市規模が大きいい場合は10ポイント程度、小さい場合は20ポイント近く、いずれも「期待しない」が上回っている。

 男女別と支持政党別は同じ共同通信世論調査を扱った次の記事――《石原新党 都市部で強み発揮 維新支持層6割が「期待」》TOKYO Web/2012年11月5日 朝刊)から。

 男女別

 男性

 「期待する」 ――35・0%
 「期待しない」――58・3%

 女性

 「期待する」 ――45・0%
 「期待しない」――48・5%

 男性よりも女性の方が10ポイントも上回って石原新党に期待している。その分、「期待しない」が減り、支持・不支持が接近している。

 支持政党別

 「日本維新の会」支持層

 「期待する」 ――59・3%
 「期待しない」――34・9%

 民主支持層

 「期待しない」――67・0%

 自民党支持層

 「期待しない」――51・9%

 無党派層

 「期待しない」――55・2%(以上)

 男女別で「期待する」が男性の35・0%に対して女性の45・0%と10ポイントも上回っている女性上位に奇怪な印象を受けた。

 なぜなら石原慎太郎は権威主義を本質性としているからだが、その必然性としての女性差別主義者であり、障害者差別主義者、あるいは人種差別主義者だからだ。 

 権威主義の政治的極致が国家主義である。

 石原慎太郎が女性差別主義者、障害者差別主義者、人種差別主義者であることは広く知られた事実であるはずで、2006年7月3日当ブログ記事――《石原慎太郎にオリンピックを語る資格があるのか - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で女性差別主義と人種差別主義を取り上げたが、改めてその差別振りを思い起こす必要を感じて振返ってみる。

 「少子社会と東京の未来の福祉」会議(2001年10月23日)

 石原都知事「これは僕が言っているんじゃなくて、松井孝典(東大教授)が言っているんだけど、文明がもたらした最も悪しき有害なものはババアなんだそうだ。女性が生殖能力を失っても生きてるってのは、無駄で罪です、って。男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を産む力はない。そんな人間が、きんさん、ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって・・・・。なるほどとは思うけど、政治家としては言えないわね」――

 「僕が言っているんじゃなくて」と言いながら、他人の主張を借りて、「生殖能力」の有無のみで人間を価値づける自らの女性間差別・男女差別を披露している。

 差別は往々にして存在否定そのものを同義とする。

 他人の主張をなる程なと受け入れたということは自身の内面にある思想と呼応させたことを意味する。その内面性は本質的価値観として位置づけられているはずだから(そうでなければ、他人の主張に呼応しない)、11年前の発言であったとしても、世間の評判のために差別観を内深くに隠していたとしても、賞味期限を維持しているはずだ。

 如何なる差別も、人間が生き、死ぬまでそれぞれが持つ、ごく一般的な喜怒哀楽の正当性への視点を持つことができないことによって起こる。

 喜怒哀楽はまた、人間が生まれながらに備え、国家によって侵されることのない自然権としてある基本的人権に対する視点を持つことによって保証される。

 例え女性が生殖能力を失ったとしても、一般的な喜怒哀楽まで失うわけではない。石原慎太郎は生殖能力喪失の女性を否定することで、彼女たちの喜怒哀楽まで否定している。当然、生殖能力を失って以後も長生きしている女性たちの基本的人権まで否定していることになる。

 石原慎太郎は2001年5月8日「産経新聞」朝刊に『日本よ【内なる防衛を】』の一文を寄稿。2000年前後に日本国内で横行した不法入国者も混じった在日中国人の犯罪の手口を「『民族的DNA』を表示する」ものだとして、その悪質性が『民族的DNA』に起因しているが如き主張を展開している。

 犯罪を民族的DNAに基づく民族性と関連づける認識は人種差別の現れそのものであろう。民族性と関連づけることによって、何の権利もなく、僭越にも民族の存在そのもの――中国人そのものの存在を否定している。

 何という驕り高ぶった態度だろうか。

 以下は上記当ブログには書いてないが、石原慎太郎は1999年9月17日、府中市にある重度障害者施設府中療育センターを視察。翌日の9月18日に記者会見している。

 《ああいう人たちに人格あるのかね 石原知事 重度障害者の病院視察し、感想》朝日新聞)1999年9月18日)

 石原都知事「ああいう人って人格あるのかね。

 絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障害で、ああいう状況になって…。 しかし、こういうことやっているのは日本だけでしょうな。

 人から見たらすばらしいという人もいるし、 恐らく西洋人なんか切り捨てちゃうんじゃないかと思う。 そこは宗教観の違いだと思う。

 ああいう問題って 安楽死なんかにつながるんじゃないかという気がする」

 記者から安楽死の意味を問われる。

 石原都知事「そういうことにつなげて考える人も いるだろうということ。安楽死させろといっているんじゃない。

 自分の文学の問題に触れてくる。非常に大きな問題を抱えて帰ってきた」

 重度障害者であったとしても、一人ひとりが持つ喜怒哀楽に対する視点を一切欠いている。

 喜怒哀楽を持つ以上、それぞれに異なる人格を有し、基本的人権をも有する。

 例え喜怒哀楽を有しないように見えたとしても、家族にはそれが伝わるはずだ。

 重度障害者の喜怒哀楽は家族の喜怒哀楽とつながっているからだ。重度障害者の喜怒哀楽を否定することは家族の喜怒哀楽を否定することを意味する。

 他者の喜怒哀楽を否定しながら、「自分の文学の問題に触れてくる」と、自身の喜怒哀楽のみを肯定している。

 差別主義者というものは構造的に差別対象の他者存在否定・自己存在絶対肯定の人間関係を取る。

 ヒトラーがその最たる差別主義者であった。障害者も国家に役立たない存在としてガス室に送り込んだ。

 どう考えても、石原新党に対する期待度が男性よりも女性上位となっていることが理解できない。

 石原個人の差別観と石原個人が率いる政党とは無関係ということなのだろうか。

 だが、その人間性に目をつぶることはできない。


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