〝機会の平等〟という観点から権威主義社会を見る
芸は身を助ける、ではないが、権威主義、天下りを助けるである。
6月17日(06年)に『ニッポン情報解読』にブログした『安倍「再チャレンジ」は機会平等獲得の機会足り得るのか』で、『旧大蔵・財務幹部ら23人、消費者金融5社に天下り』
(06.10.15.『朝日』朝刊)の記事から「大手消費者金融の元幹部は大蔵OBを受け入れた効果について『「銀行向けの看板」の威力が大きかった。銀行の融資が増えるとともに、銀行の役員が派遣されるようになり、資本面の不安が消えた』」との箇所と同じ日付けの(『消費者金融天下り 「大蔵なら誰でも」 業界「官の看板期待」』)という記事から「大手の元幹部は『当時は、銀行からいつ融資を引き揚げられるか気が気でなかった。大蔵省の役人を受け入れることで、「大蔵省は消費者金融をつぶさない」との認識を銀行に与えることができる。誰でもいいから大蔵を取れ、という雰囲気だった』」の箇所を紹介したが、天下りにこのような〝威力〟を発揮可能させている原動力は日本型権威主義に他ならない。
現在の日本が地方の時代だ、三位一体改革だと言いながら、中央は地方に対して上に位置し、地方は中央に対して下に位置する関係を今以て色濃く築いている中央集権型の国家機構となっている事実自体が権威主義社会そのものであることの証明に他ならない。
権威主義社会とは相互の関係を上下に分け、上は下を従わせ、下は上に従う関係力学なのは言うまでもない。官・民の関係に於いては官機構とそれが持つ国家権力を背景とした官僚は民間に対して上に位置し、民間という下を従わせる権威主義を自らの権威としている。と同時に官僚は官機構の中にあって、身分・地位(=役職)の上下に応じて上は下を従わせ、下は上に従う権威主義の力関係を組織運営の力学としているが、それがそのまま日常的な人間関係の力学にまで及んでいる。
いわば一旦上下の関係が出来上がると、その上下関係は一般生活に於いても例外を除いて恒久化し、そこから抜け出れない社会化を生み出す。
このことを証明する非常に象徴的な事例が新聞記事に出ている。1997年8月24日付けの『朝日』記事で、書いてある内容は1970年代の出来事だからいささか時間が経っているが、「その傾向はいまも変わらない」と1997年当時も変わらないことを説明しているから、その継続性からしても、今日的状況からしても2006年の現在もさして変化のない状況にあると見て間違いない。
見出しは『「塀の中」でも部長は部長 会社人間 育たぬ自我』
1970年代に「中野刑務所で法務心理技官をしていた」昭和女子大の新田健一教授が囚人と「面接し、その後の更生方針を立てる仕事」を通して知った観察事実であるが、「サラリーマンの受刑者は、刑務所内で経理関係の仕事に就くことが多い。所内でつくった木工品などの管理を、経験を生かしてこなしていく。
不思議なことにここでも受刑者が会社にいたころの肩書きに応じた仲間内の序列ができるという。『塀の外』で部長だった人は『部長待遇』になり『課長待遇』の受刑者はお伺いをたてる。一部上場企業と二部上場企業とでは、前者の方が格上になるという」――
同じ会社にいた囚人同士なら、会社にいた頃の肩書を引きずるということは理解できるが、上下関係が社会化しているからこそ、関係のない会社にいた者たちであっても、それぞれの肩書を引きずる。場所がどこであっても、会社から離れた場所であっても、勿論刑務所の中であっても、上の地位の者は地位に応じた自尊心を発揮し、下の者は上の地位の者に対して自分が下であることを弁えた態度で接する。
同じ〝腐っても鯛〟であっても、何とも哀しい権威主義に縛られた〝腐っても鯛〟状況ではないだろうか。一旦獲得した権威が自己人格化し、組織を離れても自己人格化した権威を通してしか自己を表現できない。自ら気づいていないからいいものの、権威主義の奴隷となっている。
尤も日本の社会ではこのような権威が重要な有効成分となっていて、大いに力を発揮する。天下りはこのような権威を最高の生存武器とする。
天下っていく官僚にしても政府の役人として獲得した民に対する上の権威や、さらに官機構の中で地位・身分が上の者・上司として培った部下に対する権威がその人間に備わった自己人格と見なされ、民間会社やその他政府関係機関に天下った後も生きていて、官・民双方に水戸黄門の葵の印籠よろしく威光を発揮するというわけである。
水戸黄門のテレビドラマでは印籠を向けられた側が、へへーと頭を下げてひれ伏し、上の人間の要求に従うシーンをよく見かけるが、それが表面には見えないだけで、本質のところでは似た姿を見せている。
すべては権威主義のメカニズムが可能としている生存形式であり、威力形式であろう。例え官僚の地位を離れても、一度手に入れた権威主義の威力(=権威)が水戸黄門の葵の印籠並みに失わなわれない、その永続性が社会全体の人間関係に権威主義の網の目が隅々にまで張り巡らされている社会化を証拠立てている。上と下が相互不可欠の関係(=非独立の関係)にあって、上に従う下と下を従わせる上の関係力学のどちらが欠けても、権威主義は成立不可能となり、社会化は消滅してしまう、その反状況にある。
今年(06年)の6月1日から民間企業が駐車違反の取締を行うようになったが、「警察から任務を委託される全国74法人に朝日新聞がアンケートしたところ、回答を寄せた法人の7割が警察の再就職先だったことが分かった。14法人は、今回の業務にあたり54人を新規採用していた。小泉内閣の『官から民へ』の掛け声とは裏腹の実情が浮かび上がった」と06年5月 31日の『朝日』朝刊(『駐禁取り締まり委託先 警察OB 36法人に 74法人本社調査 新規採用14法人』)が報じている。
日本は権威主義社会であるのだから、警察という〝官〟が警備会社という〝民〟の上に位置した権威主義の関係にあると見なければならない。警備会社がこのように警察からの天下りを受け入れることの最大のメリットは天下った警察官、もしくは警察官僚が民の上に位置する官組織で自分のものとし、天下っても元の職場である官組織に対してもなお生き続けることとなる権威を企業活動に利用することであろう。そのこと以外にどのようなメリットがあると言うのだろうか。
同記事は次のような解説も載せている。「違法駐車が横行する大阪市の繁華街で取り締まりを担うのは、財団法人『大阪府交通安全協会』。200人以上の警察OBを抱える全国屈指の『警察の天下り先』だ。府警は『協会はレッカーの移動やパーキングメーターの管理をしており、知識やノウハウ、信用性に優れている』と話す。
東京・新宿では、警備会社『ジェイ・エス・エス』が取り締まる。警察官僚出身の亀井静香衆院議員が自ら『生みの親』と公言し、設立当初、亀井氏が顧問、元警視総監が代表取締役についた。今回、新たに5人の警察OBを採用した。『交通にからむ業務なので、経験者が必要だ。幹部としてではなくて、全員現場で働く』(担当者)」――
「幹部としてではなくて、全員現場で働く」「警察OBを採用」とは、言っていることが事実としたら、高卒で地方公務員として採用されて巡査の階級から勤務し、巡査のままで退職することになったか、長年の勤務に与えられる巡査長の地位で退職した「警察OB 」であろう。昇任試験で巡査部長、警部補、警部と地位・身分を獲得していき、地位・身分に応じてそれ相応の権威を自分のものとしていった警察官が退職して駐車違反取締といった現場仕事に就くのは自己の権威・プライドに反するからだ。
いわば地位・身分が低いまま退職した「警察OBを採用」は地位・身分を獲得した警察官が持つ〝権威〟は期待したくても期待できないのだから、〝権威〟を必要としたわけではなく、地位・身分が低いまま退職した「警察OB」にはなかなか見つけにくい再就職先の提供という便宜を図ることで、警察組織そのものと「採用OB」の上司に対する恩着せを目的とし、それがもたらすであろう見返りを期待した「採用」ということもあり、そのようなお膳立てはそれ相応の権威を携えて既に天下っていてその会社の幹部に納まっている元警察官、もしくは元警察官僚によって為されるだろう。
「違法駐車が横行する大阪市の繁華街で取り締まりを担う」「財団法人『大阪府交通安全協会』」の場合は、警察向けだけではなく、地域の顔としての権威の必要から幹部OBの採用とと一般退職者の再就職先となることの二つの必要からの天下り採用を担っているのではないだろうか。そのことが「200人以上の警察OBを抱える全国屈指の『警察の天下り先』」となって現れているのだろう。「府警は『協会はレッカーの移動やパーキングメーターの管理をしており、知識やノウハウ、信用性に優れている』と話」しているが、「レッカーの移動」は日常的にある業務ではないのだから、必要に応じて自動車修理会社に依頼するか、「パーキングメーターの管理」は、エレベーター事故で分かったように、エレベータの保守点検は専門の管理会社が請け負っているもので、「パーキングメーターの管理」にしても同じということもあり得る。
但し、そのパーキングメーターの管理会社自体が警察OBによって経営されていて、利益をやり取りしているといったことは十分にあり得る。管理費の元のカネは税金から捻出されるのだから、随意契約ということになれば、かなり好きなように利益のキャッチボールを行うことも可能である。
以上の勘繰りは社保庁やその他の官庁が天下った官僚OBの民間会社、あるいは政府系の公益法人や所管法人との間で既にゴマンと前科を演じている公費・税金を利用した私利・私益交換からの連想なのは言うまでもない。
さらに日本が如何に権威主義社会となっているかの例として挙げなければならないのは、『小泉チルドレン懐に格差 自民初当選組の資金力 比例単独組 交付金頼み 世襲組 際立つ集金力』(06.9.8.『朝日』朝刊)といった状況であろう。
記事の内容を掲載する必要はない。見出しを見るだけで父親の権威がその傘を2世の頭にまで差しかけて、光り輝かせている権威主義的状況が見て取れる。父親は父親、2世は2世と別人格・別才能とする可能性に対する権威主義意識から自由であったなら生じない「集金力」格差であろう。今に始まったことではないだろうが、〝格差〟は所得格差、地域格差だけではなく、政治家の「懐」にまで幅広く及んでいる。
2世は親の権威とその重要な恩恵である「集金力」で得たカネを自らの力として、いわば一般議員には得がたい機会を親から与えられて、大物政治家へとのし上がっていく。安倍首相はその最大級の完成形であろう。
こういった権威主義的状況からの〝格差〟が国会議員に占める2世議員を異常なまでに多くしている。
日本が学歴社会であることも、権威主義を母体として社会的な人間関係を成り立たせていることからの必然形としてあるものだろう。学歴を上下=優劣に権威づけて、上は下を従わせる権威として自己人格化させることができ、地位・身分・収入獲得に威力を発揮させることを可能とする生存武器となっている。
このように見てくると、権威主義社会は本質的には〝機会の平等〟を排除する社会でもあることが分かる。権威主義社会を〝機会の平等〟という観点から定義づけると、「機会の不平等を母とし、結果の不平等を子とした社会」とも言える。、
日本が権威主義社会となっていることに目を向けないで、「機会の平等を求め、結果の平等は求めない」などと言っているようでは、安倍首相の社会観は相当にズレていると言わざるを得ない。当然安倍首相の「再チャレンジ政策」もズレることになる。
参考までに前出の『「塀の中」でも部長は部長 会社人間 育たぬ自我』という記事の他の部分を紹介してみると、「会社犯罪にかかわったサラリーマンたちは、捕まっても罪悪感より、被害者意識の方が強い。その結果、『会社のため』と言い訳をする。再犯率は低いが、心から反省する人は少ないという。
一方で自我が弱い分、取り調べでの自供率は高いと言われる。『一人にされると弱いんですねえ』。新田さんの分析だ」
終戦直後、国民の多くは〝国のため〟に戦ったにも関わらず敗戦を贈り物とされて、国に騙された、騙されたと、騙された自分の責任は問わないで、戦争責任を国だけのものとした。日本兵は「生きて俘虜の辱めを受くることなかれ」と捕虜となるよりも名誉の戦死を義務づけられ、捕虜となることはあり得ないこととして、そうなった場合を想定した訓練を受けていなかったために米軍の捕虜となると、取調に軍の重要な機密まで率先して喋り「自供率は高」かったと言うことだが、自分で考えて、その考えに従って自らの責任で行動する自律的主体性の欠如は終戦当時と何ら変わらないまま引き継ぎ、そのような態度が日本の美しい歴史・伝統・文化となっていることを示している。
このことも上に縛られて上に従う権威主義の行動様式から来ているものであろう。権威主義は〝機会不平等〟の創出だけではなく、自律性や主体性の欠如維持にも深く関わっている。
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