安倍首相の単細胞反応な履修不足問題

2006-10-28 02:27:17 | Weblog

 世界史科目は必修、日本史か地理のいずれか1科目の合計2科目が必修、それが規定の学習指導要領を無視して選択制としたために、必修の世界史の授業を受けない実質的には単位不足状態の生徒の存在が富山県の県立高岡南高校で明るみに出て、それが出発点となって全国的な問題へと発展して、新聞・テレビが盛んに取り上げている。

 必修無視の発端は、例え必修であっても、受験に必要のない科目は生徒の受験勉強の負担を軽くするために学習指導要領の規定には目をつぶって免除していたということらしい。生徒側の要望から始めたということだが、負担を軽くすることで、生徒が希望の大学に合格する確率が高くなれば、生徒側の利益となり、同時にそのような合格実績が優秀な高校であることの証明となって学校側の利害とも一致する。校長たちは次のように弁解している。
 
 「生徒のためを考えてしたことが、結果としてこんなふうになって大変申し訳ない」
 「生徒の負担を軽くしてやりたかった」
 「受験に必要な勉強だけしたいという生徒の要望を受け入れた」

 全国的な広がりを見せていると言うことは暗黙の了解のもと、広く制度化していたということだろう。政治家が日常的に行っている政治資金規正法をかいくぐった迂回献金みたいなものである。そう、ただ単に学習指導要領をかいくぐってお互いの便宜を図っていたに過ぎない。自分だけ利益を得る迂回献金と違って、ずっと罪は軽いのではないか。
 
 誰も不利益を蒙る者がいないのだから、メデタシ、メデタシで結構なことだと思うのだが。元々日本の教育は暗記教育を制度としているのである。必要としない知識は暗記の対象から外すムダの省略は今の時代の価値観に合致する必然的な推移であって、必要とする知識のみを暗記する、そのような構造に相互対応し合って、必要としない科目は例え必修であっても排除の対象とされ、必要とする科目のみが受容される。適者生存の法則が適用されただけのことでもある。

 学習指導要領無視の発覚は外部の指摘があってということらしいが、誰がそんな余計な指摘をしたのだろう。単位不足を挽回するために卒業までの間に不足時間を集中的に受けなければならないと言うことだが、テレビで生徒の一人が「東大を受ける者として、無駄な時間を費やさなければならないのは辛い」といったようなことを言っていたが、正直な気持ちだろう。

 10月26日早朝5時半からのTBSテレビ「みのもんた朝ズバッ」で、次のようなやりとりがあった。

 みのもんた「教育する方も教育される方も、学問という道をどういうふうに考えているのか。お粗末極まりない。21世紀の日本を担う若者たちがこういうことでもって、例え受験に合格したとしても、人間性失格だねえ」
 アンカーマン嶌信彦「必要な勉強だけしたいってねえ、そんなことやって人間が成長できるかって。逆ですよ。(学校は)人間が成長するためには受験に必要なための勉強だけしてちゃあダメだよって言わなければいけないんですよねえ」
 みのもんた「学ぶってどういうことか考え直さなければならない」とか「昔は学問に王道なしと言って、みんな平等に学問が受けられた」
 同じく嶌信彦「知識って、たくさんあって、初めてね、物事の本質を見る構成力、分析力とかが出てくるんですよ。知識つけなかったら、物事の本質見えないんですよ」
 アンカーマン木元教子「誰が考えたんだろう。こんなシステム」

 社会の現実を知らずに、公共の電波を使って、その資格もないのに偉そうな口を叩く。社会の現実を知らないとは言っている本人からして「物事の本質見」る目を持たないからであって、当然間違った情報を垂れ流しているに過ぎない。

 みのもんたは日本の学校が大学でさえも、学問を教える機関とはなっていないことを知らないのだろうか。精々大学院の一部が学問機関となっているに過ぎない。高校までは進学のための勉強をする場であり、大学は卒業してより良い企業に就職することを目的として、そのための単位を取る場となっているに過ぎない。

 また、いくら知識を身につけたとしても、考える力がなければ、与えられた知識は与えられたままの知識で終わる。考える力を持ってこそ、与えられた知識は自分の知識となっていく。教えられた知識であることから自分自身の知識への発展・獲得へと進む。当然、知識をたくさんつけたからと言って、「物事の本質を見る構成力、分析力」を自動的に獲得できるわけではない。

 日本の教育が暗記教育となっている関係上、必要としない知識は暗記の対象とせず、必要とする知識のみを暗記対象とすると既に指摘した構造を自然な形式としている、そのような学校教育知識がそもそもからして生徒それぞれの思考能力を刺激し、創造性を否応もなしに高めていく、それ相応のインパクトを持っていると言えるのだろうか。

 考えさせることをしないから、生徒は発展もない同じ知識を鵜呑み状態で持つことになり、違いは鵜呑みした量(暗記量)でしか現れない。同じ知識だから、誰にとっても質問が同じで鵜呑みした知識をそのまま吐き出せば片が付くような構造のペーパーテストは成績を測るには公平・最適の方法となり、そのことが生徒の能力を測る方法としてペーパーテスト偏重の現象を生み出し、そのようなペーパ-テスト偏重が逆にペーパーテストの質問に合わせた知識獲得を学校教育とする悪循環な相互作用を引き起こしている。

 「物事の本質を見る構成力、分析力」を引き出すことができるような「知識」が学校教育の場で遣り取りされていると思い込んでいること自体が既に滑稽な妄想に過ぎない。火のない所に煙は立たずの譬えどおり、議論のない所に「構成力、分析力」は立たずである。嶌信彦は何様みたいに身振りよろしく得々と喋っていたが、空理空論を述べたに過ぎない。

 またマスコミは学校教育が受験予備校化しているとか、塾化しているとか学校を盛んに批判するが、その種の批判を口にする資格はマスコミにはない。東大とか京大といった有名大学(ブランド大学)への高校別合格数を大々的に発表するなどして、国立では東大・京大等を、私大では慶応・早稲田等を絶対とする風潮の補強・強化に率先垂範して関与し、大学の優劣ばかりか、有名大学合格者数に応じて高校をも優劣に序列づけ、受験競争を煽り立ててきたのはマスコミ自身である。

 断るまでもなく学校社会とは日本社会に数々ある社会の内の一つであって、いわば全体社会の下位に位置する、重要ではあるが、一つの社会に過ぎない。日本という全体社会の空気・風潮、あるいは考え方を受け、その影響を免れることはできない制約下にある。いわば学校社会は全体社会を反映し、必然的にそのヒナ型として存在することになる。

 となれば、答えは既にお分かりだろう。学校の受験予備校化も塾化も学校社会が自分たちだけでつくり出した現象・制度ではなく、全体社会自体が学歴社会化している現実があって、その風潮・学歴主義が当然学校社会にそれを下支えする圧力を生み、形を取ったのが受験予備校化であり、塾化であるということである。このような社会づくりにマスコミだけではなく、政治の力も大きく関与している。

 全体社会が学歴や卒業大学で人間を差別化(=優劣化)することがなかったなら、高校以下の学校教育が学歴教育化、あるいは受験教育化することはなかったろう。全体社会との暗黙的な相互連携による学歴教育化・受験教育化の過熱した姿が、あるいは合理化が全国的な必修無視の制度となって現れているということだろう。

 マスコミは出身校別の大学合格者報道、あるいは有名大学卒の人間を人生の勝者と扱うような持ち上げ報道で社会全体の学歴主義を煽り立て、その正当化、あるいは絶対化に努めてきた。戦前、軍部に阿諛追従の同調で戦意高揚、軍国主義鼓吹に率先協力し、軍部国家権力の正当化・絶対化に努めたようにである。対象は違えても、本質的には同じことをしている。戦前も戦後も何も変わっていないと言うことである。

 アンカーマンの木元教子は単細胞にも嶌信彦が偉そうに言った「物事の本質見」る目がないらしく、「誰が考えたんだろう。こんなシステム」と無邪気そうに言っていたが、日本の社会全体、日本人全体が考え出した「システム」であり、学歴主義の蔓延化・徹底化に積極的に手を貸しているという点で特にマスコミはその罪は重い。木元教子も嶌信彦もマスコミ人として戦犯の位置にいる。

 履修科目不足は27日(06年10月)午後7時からのNHKテレビで全国で39都道県380校にも及んでいると報道していたから、全国的に制度化していることの補強証明でしかないが、相変わらず学校の問題とのみ把えた内容の報道となっていた。日本の全体社会が学歴主義に侵されていることを受けた全国的な制度化であって、全体社会と学校社会が学歴主義を響き合わせた当然の結果としてある社会全体の問題と把えることができない。

 但し、全体社会の学歴主義を受けたからと言って学校社会自体がいきなり制度化に走るわけではなく、学校社会に於いてその成員である生徒の間で一種制度化していた(=慣習化していた)ことと全体社会の学歴主義の進行(とってい悪ければ暗黙の要望)の二つの圧力と、そして自己利害を受けて学校自体の制度としていったという経緯を踏んでの今回の事態であろう。

 これは私自身の経験からの判断である。1958(昭和34)年3月に高校を卒業したのだが、高校3年のとき何の授業を受けていたのか忘れたが、東大を現役一発で合格した、その当時から優等生の誉れ高い同級生が机の上に斜めに立てかけて開いたその授業の教科書にペーパーブック様の英語の本を載せて読んでいたのを見かけたことがある。東大を目指しているような優秀な人間でも先生に隠れてそんなことをするのかということと、英語の教科書でさえ読み解釈するのに四苦八苦している私と比較して、英語の本を辞書も使わずに読むことのできる能力に驚いたが、ある授業中に別の教科の勉強をすること自体は私自身もしていたことだが、大抵の生徒がしていたことで、別に驚くことではなかった。そのような仲間に東大を目指す人間が加わっていたことの驚きでしかない。

 人間は利害の生きものである。受験を控えていて、目指す大学の試験科目に入っていない授業を履修しなければならない状況に立たされたとき、その授業を真面目に一生懸命受けるだろうか。「必要な勉強だけしたってねえ、そんなことやって人間が成長できるかって」などと言う嶌信彦センセイなら間違いなく真面目に一生懸命に授業を受けて、現在のように人間的成長を遂げた姿を見せているわけだが、自己に有利・不利の感情に動かされて、有利な方向に動こうとするのが人間である。特に中間試験とか期末試験とかの前は、受験勉強に必要のない授業は受験科目に入っている科目のテストで少しでもいい点を取るべく、その勉強・暗記に利用するだろう。

今から48年も前から、多分その前からだろう、生徒の間では必要のない科目の履修は形式で済ませ、実質的には無視を制度としていたのである。受験科目にない必修授業のテストは一夜漬けでそこそこの合格点を取りさえすればいいとしていた。そのような実態の上に、学力向上だ、何だと社会の要望・圧力の進行、大学と高校の選別化・差別化、さらに学歴主義の強化・徹底が生徒が制度化・慣習化していた履修無視を学校自体が実体的な制度とするに至った。そういうことだろう。これを進歩と呼ばずに、何と呼んだらいいのか。

 それをさらに「教育バウチャー制度」とかで新たなより強力な競争原理を取り入れ、学歴主義を強めようとしている。

 小泉首相「それで具体的にどう変わる」
 安倍官房長官「人気のない小学校、中学校は生徒が集まりにく
       くなる」
 二階経済産業相「廃校になってしまう」
 小泉首相「それで反対があるわけか」
 牛尾氏「競争になって困るところは反対、歓迎のところは賛
    成する」
 (『分裂にっぽん3 揺らぐ「約束」』06.9.17.『朝日』朝刊)

 嶌信彦センセイの口調を借りて言うなら、「学校として生存できるかできないかの瀬戸際に立たされてねえ、学習指導要領どおりなんてやってられるかって」ということになり、背に腹は変えられないとなれば、学校側は新たな学習指導要領破りを考え出さなければならなくなる。

 学歴の上下で人間を優劣に判断する学歴社会となっている以上、合格実績で学校の優劣は評価される。その評価も合格大学の優劣・人数が基準となる。二流・三流大学に100人合格させた高校よりも、東大・京大に10人現役で合格させた高校の方が優秀とされ、高い評価を受ける。マスコミが大々的に報道することによってその価値を全国的に知られた高校に優秀な生徒が俺も私も東大・京大と全国から集まり、結果として東大・京大入学率がさらに上がる好循環を生み出し、勝ち組か固定することとなる。

 塩崎官房長官はテレビで「ルールはルールで、守ってもらわなきゃ困るということです」と言っていたが、では自分たちは常にルールを守っているのかと言うと、一般社会の人間よりも自己利害中心で動く政治の世界である、偉そうなことを言う資格はない。安倍首相の自らの歴史認識をゴマカすルール破り、来年夏の参院選で敗北しないための一度除名した郵政造反議員の復党を図るなりふり構わないルール破りなどから比べたら、合格実績を今ひとつ上げ切れない高校、あるいは今の合格実績を維持か向上させようとしている高校が必修だ何だとなりふり構ってはいられないルール破りなど、どちらが無節操かという点で軍配は政治家に上げなければならない。

 安倍首相は首相官邸での記者会見で「そういうことが起こるとは考えられなかった。子供たちの将来に支障をきたさないよう対応してもらいたい。こういうことがないよう、各学校は緊張感を持って当たってもらいたい」などと単細胞にも自分たち政治、あるいは政治家が何ら関与していない、マスコミと同様に学校の問題とのみ把えていた。

 それはそうだろう、「教育バウチャー制度」を採用して、社会・学校の学歴主義の尻をさらに叩こうとしているのである。そのことに気づきさえしない客観的認識性不足の近視眼だから、「そういうことが起こるとは考えられなかった」は当然な単細胞反応としてあるものだろう。

 但し、「子供たちの将来に支障をきたさないよう対応してもらいたい」と学校の生徒の肩を持つように思わせる正義の味方風の態度は見事である。マスコミと並んで日本社会を学歴社会としてきた重罪犯は政治家と官僚なのである。自分たちでそのようにしてきながら、「子供たちの将来に支障をきたさないよう」とか、「緊張感を持って当たってもらいたい」とか、学校の問題とのみ把えて、自分たちの問題でもあると把えないこと自体が鉄面皮な責任転嫁でしかない。勝ち組固定化の格差社会つくりの張本人の一人でありながら、ハイ、勝ち組を固定化させない「再チャレンジ政策」ですとマッチポンプをやらかしているように、学歴社会化に重要な立場で貢献しておいて、ハイ、自分たちは関与していませんといった態度を取る。

 ゆとり教育政策による授業時間の減数化、学校土曜休日化が受験学力の低下を招いて合格実績を悪化させ、その反動が履修無視がかりか、〝ゼロ校時〟とか言って、始業の一時限前に授業時間を設けて勉強させる制度としたり、〝勉強合宿〟とかで、生徒を缶詰にして朝から夜まで勉強漬けにする隠れ制度を用意したりして、逆に学歴主義・テスト教育を強化・加速する現実を招いている。

 しかし問題はそこにあるのではない。日本の学校教育が暗記教育となっていること自体を問題としなければならなかったのである。暗記教育は従う形式の教育であって、生徒自らが働きかける構造になっていないから、時間をかけることで成り立つ制度である。暗記量に比例して授業時間を多く必要とする関係式を当然持つ。そのことに気づかずにゆとり教育と称して授業時間だけを削ったり、土曜日を休みとした。その結果の〝ゼロ校時〟、〝勉強合宿〟という時間増加設定の反動があり、少なくなった授業時間を有効に使い回しする方策としての履修無視でもあったろう。そういった方策自体が同時並行的に学歴教育への加速化・受験予備校化ともなっていったに違いない。

、ゆとり教育を推し進めるなら、暗記教育をやめることから出発させなければならない。安倍首相にしても、日本の教育を暗記教育から脱却させて、考え、創造性を育む教育とするのか、このまま暗記教育を続けて暗記学力を底上げしていく教育を日本の教育とするのか、どちらの道を選択すのかはっきりさせなければならない。はっきりさせないで改革を試みるから、学校・生徒を戸惑わせるだけとなる。

 暗記教育の道を取り続けるなら、必修無視を容認することが「子供たちの将来に支障をきたさないよう対応」することになるだろう。何を必修とするのか、文科省が決めるのではなく、それぞれの学校の決定事項とする。そうしたとき初めて「教育バウチャー制度」を導入・推進する資格を得る。学校はさらに受験予備校化・塾化で応えるだろう。

 そこまで考えるのは近視眼・単細胞では無理な話か。


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