安倍晋三談話「子や孫に謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」の発言に見る過去との向き合いとの矛盾

2015-08-16 06:19:56 | Weblog

 
 8月14日のゴマカシ満載の「安倍晋三70年談話」では、安倍晋三は日本の戦争に対するアジアの国々への謝罪はもういい加減にしようと提案している。
 
 「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の8割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります」――

 言っていることは、あの戦争を知らない、それゆえに何の関わりもないのだから、戦後世代以降の日本人、その子や孫、その先の世代の子どもたちに延々と謝罪を続けさせていはいけない。だが、一方で日本人は世代を超えて過去の歴史に向き合わなければならない。

 つまり、「謝罪」はこの辺で手を打ちたい、そろそろ謝罪なしで過去の歴史に謙虚に向き合うことをしようではないかとの提案である。

 大いに結構ではないか。

 断っておくが、謝罪と反省は異なる心理作用である。戦争を日本国家と日本人の誤った歴史行為とするなら、そこに反省がなければ、歴史から何かを学んで教訓とすることもなく、自身がこの世に生を受けてから以後の歴史に何ら教訓を持たずに臨むことになる。

 反省する者が謝罪の気持ちを持つ・持たないは自由である。

 いわば一国のリーダーが決める問題ではない。

 安倍晋三は談話発表後の記者会見でも、談話通りのことを口にし、全発言が終わった後の記者会見で一人の記者がこの発言を取り上げた。

 阿比留産経記者「産経の阿比留です。

 今回の談話には、未来の子供たちに謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりませんとある一方で、世代を超えて過去の歴史に真正面から向き合わなければなりませんと書かれています。

 これはドイツのヴァイツゼッカー大統領の有名な演説の、歴史から目をそらさないという一方で、自らが手を下してはいない行為について、自らの罪を告白することはできないと述べたのに通じるような気がするのですが、総理のお考えをお聞かせください」

 安倍晋三「戦後から70年が経過しました。あの戦争には何ら関わりのない私たちの子や孫、その先の世代、未来の子供たちが謝罪を続けなければいけないような状況、そうした宿命を背負わせてはならない。これは今を生きる私たちの世代の責任であると考えました。その思いを談話の中にも盛り込んだところであります。

 しかし、それでもなお私たち日本人は、世代を超えて過去の歴史に真正面から向き合わなければならないと考えます。まずは何よりも、あの戦争の後、敵であった日本に善意や支援の手を差し伸べ、国際社会に導いてくれた国々、その寛容な心に対して感謝すべきであり、その感謝の気持ちは世代を超えて忘れてはならないと考えています。

 同時に、過去を反省すべきであります。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく。アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があると思っています。

 そうした思いについても、あわせて今回の談話に盛り込んだところであります」――

 言っていることは最も至極に聞こえる。以上のことに言及している談話の一節では触れていなかった「反省」を「過去を反省すべき」と、ちゃんと入れている。

 但しである、反省に至る経緯には安倍晋三が言っているように過去の歴史に真正面から向き合うこと、向き合った過去を受け継ぎ、未来へと引き渡すという前段階が必要となる。

 しかしこの前段階を経るには過去の歴史がどのような姿を取っていたのか、日本人の誰もが意思さえあれば向き合うことができるように一般化された概念の構築という初期段階が必要になる。そしてこの必要性を満たすためには日本の戦争の検証・総括を欠かすことはできないわけで、それを以ての初期段階としなければならない。

 検証・総括した日本の戦争の個別・具体的な全体像という対象があって初めて、例え戦後生まれの日本人が人口の全てを占めることになっても過去の歴史に謙虚に真正面から向き合うことが可能となり、その過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す歴史行為ができる。

 だが、安倍晋三は戦争に関わった日本人、それ以後の日本人が日本の戦争の検証・総括を怠って今日に至るままに放置し、自らも日本の戦争を検証・総括もせず、検証・総括する気もなく、いわば向き合うべき過去の歴史の一般化された概念としての全体像を用意もせずに、「子や孫に謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」が、「謙虚な気持ちで過去の歴史に真正面から向き合え、向き合え」と言う矛盾を犯している。

 要するに口先だけで過去の歴史への真正面からの向き合いを言っているに過ぎないということである。口先だけの過去への向き合いでしかないのに戦争に関わりのない世代の日本人の謝罪はそろそろこの辺で手を打ちたい意志を露わにした。

 何という自己都合だろうか。

 「同時に、過去を反省すべきであります」とは言っているが、どこに過去への反省が生まれるだろうか。

 阿比留産経記者が、いわば安倍晋三の謝罪引き上げ宣言がドイツのヴァイツゼッカー大統領の演説に通じるものがあると言っていたが、「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる」という有名になった言葉は知っていたが、「自らの罪を告白することはできない」云々は知らなかったから、ネットを調べてみた。

  1985年5月8日、《ドイツ連邦議会演説》から関係する個所を引用してみる。 

 「今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできません。

 ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。

 罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。

 心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。

 問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」――

 戦後生まれのドイツ人が「自分が手を下してほいない行為に対して自らの罪を告白することはできない」が、如何なる世代のドイツ人であっても、「全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされている」

 それゆえに「過去に目を閉ざしてはいけない」

 但しドイツ人たちは自分たちの過去の歴史、自分たちの戦争を検証・総括している。いわばドイツにとっての向き合うべき過去の歴史、過去の戦争の個別・具体的全体像を用意済みで、このことを前提としているから、過去の歴史への向き合いを言うことができる。

 ただ単に戦後生まれのドイツ人が「自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできない」と言っているわけではない。

 もし検証・総括もしていないままにヴァイツゼッカー大統領がこのような演説をしたら、安倍晋三同様に口先だけとなるはずだ。

 安倍晋三が上記一節をヴァイツゼッカー大統領の演説を利用したのだとしたら、ドイツが戦争を検証・総括していることに鈍感にも気づかないままに用いた自身の矛盾に気づいていなかったことになる。

 安倍晋三は「70年談話」を左右前に置いたプロンプターが映し出す原稿を読みながらだからできることだが、堂々とした態度で左右に身体を向けながら、堂々とした口調で立派に聞こえる並べ立てた数々の文言を読み上げたが、中身は全て空疎な論理・空疎な認識で成り立たせていたに過ぎない。


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