NHKクローズアップ現代/「言語力」(1)

2009-11-30 12:24:22 | Weblog

 11月25日の水曜日、NHK夜の7時半からの「クローズアップ現代」《“言語力”が危ない~衰える 話す書く力~》を放送していた。

 先ずNHKHPの「クローズアップ現代」の頁を覗いて内容、テーマ、背景等を見てみた。

 テーマは〈今、若者の間で、きちんと説明ができない、文章が書けない、など自分の思いや考えを伝える「言語力」の低下が大きな問題になっている。その実態と解決に向けた道筋を探る。〉というものである。

 出演者は立教大学大学院教授の鳥飼玖美子(63)、 キャスター国谷裕子(52)

 「言語力」とは論理的にモノを考え、表現する力のことだという。その低下が2000年以降進んでいて、国際学力調査"PISA"での成績下落の一因と見られているそうだ。

 進学校でも、成績は悪くないのに「話し言葉のまま作文を書く」「語彙が少なく概念が幼稚」、言葉の引き出しが極端に少ない、例えば「怒る=キレる」としか認識できないため、教師が注意すると何でも「キレた」と反発され、コミュニケーションも成立しなくなってきている等の事態が相次ぎ、教師たちは危機感を強めているそうで、背景として、センター入試の普及で「書く」「話す」が軽視されたこと、携帯メールの広がりで文章を組み立てる力が育っていないことなどが指摘されているという。

 NHKHPの案内のみで分かることは、「言語力」の低下は2000年以降のことで、それ以前は「言語力」に関して問題はなかった、教師たちはこのことに関して危機感を持っていなかったということが分かる。逆に言葉の引き出しが豊富であった。――


 キャスター国谷裕子(くにや ひろこ)の案内

 「情報が溢れ、変化が非常に激しい時代、学んだ知識がすぐに時代遅れになりかねない。そして予期しない事態、新たな課題に誰もが直面する可能性がある。こうした社会の中で一人一人に問題解決が求められるとき、問われるのが言語力と言われている。言語力と言うと、語学力と思いがちだが、言語力とは外からの情報を整理し、それを基に自分の考えを組み立て、そしてきちんと根拠を示しながら話したり書いたりする力のことを言う
 
 そしてフリップで「言語力」なるものを要約して示していた。

 ●情報を整理する
 ●考えを組み立てる
 ●根拠を示して説明する

 国谷はさらに続けて。

 「欧米各国を中心に学力を測るモノサシとして言語力が最近広く使われているが、日本では言語力が低下し、面接で話ができない、作文が書けないといった事態がおきている」

 ここでも以前は備えていたが、ここに来て低下したという把え方で「言語力」を語っている。

 今月発表された大手企業の採用教育担当573人への「若手社員の問題点」アンケート調査の結果。

 1位 読み書きや考える力   53%
 2位 主体性           51%
 3位 コミュニケーション能力  46%

 国谷「若手社員の問題点として第3位に挙げられたのが、自分の意見をうまく伝えられないなどのコミュニケーション能力の低いこと。1位に報告書が書けないなどの読み書き・考える能力の低下が挙げられている。こうした中でこの秋から教育現場からの要請を受ける形で言語力検定がスタートした」

 そして「言語力が低下している様子」の紹介に移った。
 
 公務員を目指す若者が多く学び、毎年約200人を送り出しているという岩手県盛岡市の上野法律ビジネス専門学校にご登場を願って、自分の考えを整理して伝えられない学生と、その指導に頭を悩ませている様子を伝える。

 先ずは作文の授業――

 自己アピールの課題を出されて一カ月が経過していにも関わらず作文用紙に書き出しの「私は――」以外何も書いてないままとなっている女子生徒。

 女子生徒「努力するっていうことを書きたいのですけど、どういう話の流れにしたらいいか分かんない」

 次に模擬面接会場――

 学生「本日はよろしくお願いします」(両手を体の脇にしっかりとつけ、丁寧に頭を下げる。)

 面接官「ハイ、お願いしまーす。どうぞお座りください」(気軽に応じる。)

 学生、面接官のテーブルの前の椅子に腰掛ける。

 学生「災害や事故現場の最前線に立ち、東京都民の人たちを全力で救助していきたいと思います」

 面接官「あ、そうですか」

 解説「消防官を志望しているこの学生。志望動機は予め用意していたので、スラスラ答えられます。しかし・・・・」

 面接官「今日は岩手県からいらしたんですか?」

 学生(ハキハキと)「はい、そうです」

 面接官「岩手県のどちらですか?」

 学生「盛岡市です」

 面接官「ハイ、そうですか。ここで盛岡市を紹介してください」

 学生、閉じたままの口元に苦笑いめいた表情をみせ、時折目を宙に泳がせて、何も答えることができない。

 解説「想定外の質問をされると、住み慣れた街なのに答えられない」

 学生(インタビューに)「頭の中心にはイメージして浮かんでいたんですけども、それが纏まんなくて、受け答えの方ができませんでした」
 
 作文の場面と模擬面接の二つの場面から容易に想像できる事態はそれぞれの知識、あるいは情報が深く暗記と関わっていることを示している。

 教師の教えを介して教科書の内容に添って暗記した知識、情報なりは既に頭に入っていることだから、ノートなりテストの答案用紙なりに素早く書き込むことができるし、説明を求められてスラスラと喋ることもできるが、そのことに対してどんな紙にも書き写すことができない、説明を求められても言葉にしてなかなか口にすることができないというのはそこに暗記するという作業を欠いていて、自分で考えて自分でつくり出さなければならない知識、情報だからということであろう。

 上記面接に関して言うと、志望動機は紋切り型の誰もが言っているお手本を暗記していたから、無難に消化できて解決可能となったが、暗記を知識・情報の処理解決策としている限り、暗記という要素を欠いた場合、どう問われても満足に対応できなくなる。

 暗記に頼った知識・情報の処理方法は暗記教育によって培われ、慣らされてきたものであろう。

 暗記教育は教師が与える知識・情報を機械的に受け止め、機械的に頭に暗記させる教育形式だから、生徒それぞれが考えるプロセスを教師から生徒への知識・情報授受の間に置いた時点で暗記教育ではなくなる。いわば考えるプロセスは暗記教育の阻害要件としてのみ存在する。

 言葉を変えて言うと、暗記教育は生徒に考えさせない教育であると言うことができる。

 だから、暗記していなくて、自分で考えて自分でつくり出さなければならない知識、情報の場合、処理に手こずることになる。

 と言うことなら、言語力の低下は暗記教育が原因となる。だが、時間が過去に遡るにつれ、日本の暗記教育の磁力は強く働いていたのだから、言語力は低下とは逆の方向を指してよさそうなものだが、言語力は低下しているという。暗記教育が原因ではないということなのだろうか。

 上野法律ビジネス専門学校教務部三上博久「まあ、自分の答えたいことは頭にあるんですけども、それをどういうふうに自分で表現したらいいかっていうのを、分からないんで、いわゆる、紋切り型って言うか、その抽象的な言葉の羅列のようなね、面接になってしまう――」

 解説「なぜ自分の考えを整理して論理的に伝えられないのか」

 暗記教育原因説を採ると、暗記教育は生徒に考えさせない教育なのだから、暗記教育が求めなかった能力であったということに過ぎなくなるが、依然として「言語力の低下」という把え方に反することになる。

 椅子に座った母親の前に小学校低学年程度の子どもが立っている。

 解説「子どもは言いたいことを断片的にしか言葉にできません。例えば喉が渇いてジュースが飲みたいときも、その状況や理由を説明せず、ジュースとしか言いません。ここで大切なのは親からの問いかけで始まる会話です。

 言語心理学が専門の大津由紀雄慶応義塾大学教授(言語文化研究所)は子どものときに親と交わした会話の量に注目している」

 子ども「ジュース」

 母親「ジュースがどうしたの?」 

 子ども(目を浮かせて考えるふうにしてから)「飲みたい」

 母親「どうして、え?」

 子ども(少し考えてから)「喉が渇いたから」

 解説「会話で質問に答える経験を重ねることで、10歳頃から子どもに筋道を立てて考えを整理できるようになる。しかし今社会で会話する機会が減ってきている」

 スパーインポーズで、「朝食を1人で食べる中学生  42%(文部省 2005年度)

 解説「中学生の4割が朝ごはんを一人で食べている。多くの若者たちが会話の経験が乏しく、言語力の低下につながっていると大津さんは考えている」

 親が子どもの論理的な受け答え(=論理的な説明能力)を如何に引き出すかが子どものそういった能力の育成にかかっているということなら、論理的な受け答え(=論理的な説明能力)を欠いたまま育った子どもは親がそういった能力を引き出す自らの論理的な受け答え能力(=論理的な説明能力)を欠いていたことの反映ということになって、常々子どもの考える力の欠如は親を含めた日本人の大人の考える力の欠如を受けたその反映だと言ってきたことは間違っていないことになる。

 今の子どもは考える力が乏しいという世間の声は自らを省みない、子どもだけに罪を着せる言葉だと言ってきたことも間違ってはいまい。、

 いわば「考える力」と言おうが、「言語力」と言おうが、子どものそういった能力の欠如は常に親の問題であって、子どもの問題ではなくなる。

 それとも単に若者たちの「会話の経験」の乏しさは親子の会話の機会が少ないことが原因で、その結果としてある若者たちの「言語力の低下」であって、親は「言語力」を十分に備えているということなのだろうか。

 だったら、保育園の保育士、幼稚園の教員から始まって小中高の教師が自らの言語力を以ってして親子の「会話の経験」の乏しさを補い、子どもたちの「言語力の低下」に歯止めをかけてよさそうなものだが、果してそうなっているのだろうか。

 大体が「外からの情報を整理し、それを基に自分の考えを組み立て、そしてきちんと根拠を示しながら話したり書いたりする」「言語力」教育を日本の教育はそもそもからして重要不可欠の役目としていたと言うのだろうか。

 もし役目としていたにも関わらず、言語力が低下したということなら、朝食を1人で食べる中学生がふえて親子の会話の経験が乏しくなったことにのみ原因を置くのは学校の責任を放棄するものであろおう。

 大津教授「小さいときの色々な遣り取り、大人や友達との遣り取り、っていうものがないと、すると、あのー、どうやったらば、自分の思いを、うまく伝えられるか、っていう、そういう、まあ、言ってみれば、練習の機会に、恵まれないということになってしまって、色んな情報を集めて、整理して、そして、それを、あの、明確な言葉にすると、いうことが、あー、できなくなってしまう――」

 「小さいときの色々な遣り取り」は大人相手では両親との間、保育士や幼稚園教員との間、小学校低学年では学校教師との間で様々に交わされているはずである。にも関わらず、「色んな情報を集めて整理して、そしてそれを明確な言葉にする」言語力の育みにつながらないとしたら、上出の子どもが親にジュースをねだる場面で子どもの言語力の育成には「親からの問いかけで始まる会話」が大切だとする主張、親が子どもの論理的な受け答え(=論理的な説明能力)を如何に引き出すかが大切ということと考え併せると、大人の立場にある親以下の大人が一般的に言語力を備えていないから、子どもたちに伝わらない一般性としてある子どもたちの言語力の欠如ということにどうしても行き着く。

 決して“言語力の低下”ではなく、言語力の欠如ではないだろうか。

 「子どもたちに自ら学び、自ら考える力や学び方やものの考え方などを身に付けさせ、よりよく問題を解決する資質や能力などを育むことをねらい」(文部省)とした総合学習」の時間を2000年(平成12年)から段階的に開始しているが、これは自ら課題を見つけて自ら考え、自分で結論を見い出して生きる力とする能力とされたが、課題を見つけるのも結論を見い出すのも、基盤はよりよく「考える」ことによって達成し得る。いわば「考える力」(考える能力)が求められた。

 日本の生徒が「考える力」に不足があるからこそ求められた「考える力」の育みなのは断るまでもない。

 殊更説明するまでもなく、「考え」(=思考)は言葉の駆使によって成り立つ行為であって、「総合学習」が求める「考える力」は論理的に言葉を駆使する能力ということになる。

 また「外からの情報を整理し、それを基に自分の考えを組み立て、そしてきちんと根拠を示しながら話したり書いたり」して他者に伝達する能力も論理的な言葉の駆使なくして成り立たない。「外からの情報を整理し・・・・」云々は言語力を説明した言葉なのだから、「言語力」は「総合学習」が言う「考える力」とそっくり重なる。

 名は違えているが昨今学校生徒に求めている「言語力」が「考える力」という名で1990年代末から求められていた。1990年代末には既に「考える力」の不足が言われていた。にも関わらず、「考える力」とそっくり重なる「言語力」の低下が今更の出来事のように番組は言っている。

 要するに小淵恵三から森喜朗へと引き継いだ「教育改革国民会議」が中身は殆んど変えずに安倍晋三の「教育再生会議」へと名前を変えて世に現れたのと同じく、「考える力」が「言語力」と名前を変えただけのことで、その能力不足は今更始まったことではない継続した問題提起であって、古くて新しい問題に過ぎないのではないだろうか。
 
 この見方が正しいとなると、既に指摘した“言語力の低下”ではなく、言語力の欠如だとする把え方は間違っていないことになる。

 このことの証拠を示す新聞記事がある。《多様な学校の実現を》『朝日』/1996.11.19)

 文部省が小・中学校の学習指導要領をほぼ10年ぶりに改定、21世紀の学校の青写真を描く狙いで「総合学習の時間」を設けるとする内容となっている。

 この「総合学習の時間」は1977年の改定で導入された「ゆとりの時間」と89年改定で小学校1、2年生に設けられた「生活科」を発展させたものだが、「ゆとりの時間」の場合は68・69年の改定が内容を詰め込み過ぎ、落ちこぼれ問題を発生させた反省に立って計画されたもので、発表当初は授業が学校の裁量に任されるのは画期的だと持て囃されたものの、自由裁量に反して「何を教えていいのか、示して欲しい」と校長会などから文部省に要望が相次いだため、文部省が「体力増進」、「地域の自然や文化に親しむ」等を例示すると、各校の実践が殆んどこの枠内に収まる右へ倣えの従属が全国的に起こったという。

 記事の副題が《「考える力」教師にも》

 要するに学校は生徒たちの「考える力」の不足に危惧を持っていたものの、「総合学習」という名で生徒の「考える力」を植えつける各校自由裁量の授業を文部省から求められはしたが、そのような授業を「考える力」を持ち合わせていなかったのである。

 これは生徒の「考える力」の不足と相互に響き合った学校の「考える力」の不足となっているが、生徒の「考える力」の不足を学んだ学校の「考える力」の不足であったなら立場を逆転させることとなって、そんなはずはないから、学校の不足を反映させた生徒の「考える力」の不足であろう。

 「考える力」が「言語力」と重なる以上、生徒の「言語力」の不足は教師たちばかりか広く日本の大人たちの「言語力」の不足を反映だと当然のこと言うことができる。このことは「言語力」の不足は今に始まった現象ではなく、「考える力」の不足が言われていた1990年代末から存在していたことになり、決して「言語力」の低下ではないということができる。

 いや、1990年代以前から、「考える力」も「言語力」も不足していたのだろう。ただ単に暗記した知識・情報をテストの回答に当てはめていけば済み、「考える力」だ、「言語力」だと騒がれなかっただけのことだったに違いない。

 確実に言えることは、2000年開始の「総合学習」の趣旨に添って学校が生徒に「考える力」を身につけさせることができたなら、今更ながらに学校が生徒の「言語力の低下」だ何だと騒ぐことはなかったろう。ましてや教育現場からの要請を受ける形で言語力検定をスタートさせることもなかった。

 放送内容に戻ろう。

 NHKクローズアップ現代/「言語力」(2)に続く



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