オオクニヌシさんから今朝、次のようなコメントを頂いた。
〈私のブログを紹介していただき、ありがとうございました。
荒れていますねぇ。
靖国参拝については、日本社会の閉塞感が背景にあります。
ナショナリズム高揚によって「自信(のようなモノ)を取り戻したい」一部の国民と、それを利用して政権浮揚を図る為政者。さらに、利権が絡んでくるのでややこしくなっています。
突き詰めれば、「感情」と「打算」が靖国問題の本質ですが、靖国神社を、普通の「お墓」だと勘違いしている従順な国民が大勢いるのは非常に残念です。〉――
そこでナショナリズム(国家主義、あるいは民族主義)高揚を装置とした自信回復といったことを考えてみることにした。但し鋭敏な頭脳には縁が無いために稚拙な論理展開になることは前以てお断りしておかなければならない。
自信を取り戻すのは結構なのだが、ナショナリズム高揚を装置とした自信回復は時として傲慢さにまで行き着いてしまうことが往々にして起こる。特に集団で行動するとき、自信が集団心理として働くことによって個人が持つことができる範囲を超えて付和雷同の力学が働き巨大化してそれぞれに取り憑き、その巨大化した過剰な自信が一斉行動によって表現された場合、ナショナリズムを背景としているゆえに否応もなしに自分たちの中にある日本人と言うもの――総体としてある日本人なるものを絶対的な優越的価値に導く危険性を招きかねないからである。
1923年(大正12年)の関東大震災時に於ける日本人集団による朝鮮人虐殺も、一般民衆が日本人というものを朝鮮人に対して絶対的優越的位置に置いた、いわば日本人優越性(=日本人絶対性)からの集団行動であったはずであり、戦前の日本軍兵士が現地人や捕虜とした敵国兵に対するリンチ・虐殺も、個々の行動のように見えるが、日本軍としての集団性を担った優越的な立場からの集団行動に入るはずである。
日本軍としての集団性自体が既に日本人優越性を属性としていたのである。天皇陛下の軍隊・天皇陛下の兵士と自らを価値づけていたことが証明している。
関東大震災については、「横浜市震災史」から引用した『朝鮮人のなかの日本』(呉林俊(オ・リムジュン)著・三省堂)に次のような記述がある。
「旦那、朝鮮人はどうです。俺ア今日までに6人やりました」――
偉大な手柄・勲章と見做して誇っている。
何という優越意識だろうか。自らを日本人として優越的な自己絶対化に位置づけていなければできない権限もない殺人である。
この虐殺も個々の行動に見えるが、日本人を優越的な位置に置いているがゆえにナショナリズムを背景として多くの日本人に付和雷同の集団心理を働かせた集団行動であったはずだ。
朝鮮人虐殺にしても、日本軍兵士の敵国民間人や敵国捕虜兵士に対するリンチ・虐殺にしても、個々の行動に見えて実際は集団行動であるように、集団行動とは同じ一つの平面に大勢の人間が集まって同一の行動を取ることだけをいうのではなく、異なる平面であっても、似た行動を一斉に取ることによって、結果的に集団性を表現することになって、集団行動化する。
例えば現在でも、個々の人間は離ればなれの場所に位置していても、それぞれがインターネットやある種のマスメディア等の同一空間を利用して似た主張を一斉に発信することも結果として集団性を担った集団行動に入るはずである。
時としてそのような集団行動(集団表現と言ってもいいが、)がナショナリズムを背景として日本人を優越的位置に置くことで自己を絶対化し、それに同調しない言論・主張を「自虐史観だ」などと誹謗・攻撃する風潮が罷り通っているが、そのようなナショナリズムが日本人が自信を回復することによってより強固な勢いとより確固たる正当性を自らに与えた場合、異なる言論・主張に対する攻撃の力も強まり、それが言論弾圧や言論封殺の傲慢な形を取った過去の歴史を戦前の日本で見てきたのであり、現在の日本では見ることはないと決して断言することはできない。
だが、個々人がナショナリズムを背景として同じパターンの言論を発信する形式の集団性を担って集団で日本人として行動するのではなく、同じ日本人ではあっても、日本人としてではなく、自分という人間を背景として個人として行動した場合、ナショナリズムを背景とすることからは無縁の位置に立つことが可能となって、当然、日本人優越性からも自由で、異なる言論・主張に対してもナショナリズムからの価値づけにも無縁で、言論弾圧や言論封殺の傲慢な形を取る危険性は例外を除いて、取り除くことができる。
例外というのは個人として行動した場合でも、自己絶対化が過ぎると、それを脅かす異なる言論・主張に対して自己の絶対性を守るために自身が持つ社会的な力や財政的な力を利用したりして、あるいはそういった力がなくても、自身が可能とする脅迫の手段を用いて言論弾圧や言論封殺の傲慢な形を取る場合が往々にしてあることを言う。
要は個人として行動する場合にしても、自分は自分であるという自律性・個の確立を如何に獲得しているかにかかっているはずである。それを獲得していた場合、個としての自分を持する力が働き、ナショナリズムといった集団性を担うことなく、常に自律した個人として行動することができ、個人として言論・主張を発信できるはずであり、社会の閉塞感に対しても自分を維持することが可能となるはずである。
12月12日の日曜日あさひテレビ放送「報道ステーション SUNDAY」にミュージシャンの布袋寅泰(ほてい ともやす)が出演、ニューヨーク公演が成功したことを、「日本人としてのスピリッツを伝えることができた」と言っていた。
この言葉にナショナリズムを嗅ぎ取って、奇異に感じた。確かに布袋寅泰は偉大なミュージシャンであり、社会的にも自律した人間であろうが、日本人ではあっても日本人として行動しているのではなく、あくまでも布袋寅泰という個人として行動し、活動しているはずである。
布袋寅泰という個人としてのスピリッツがニューヨーク公演で伝えることができてアメリカ人(あるいはそ他の国の人間に)理解されたはずである。
もしそれが純粋・特有の「日本人としてのスピリット」であったなら、純粋・特有であるゆえに「日本人としてのスピリット」を持つはずもないアメリカ人やその他の国の人間に理解されないはずである。
異なる言葉は学ばなければ理解できないが、精神や感情、感覚、あるいは魂と表現してもいいが、それらは何人であろうと共通性を持つゆえに理解可能となる。それが布袋寅泰特有のスピリッツであっても、共通性があるゆえに外国人の魂に対しても響くのであって、「日本人としての」と純粋化・特有化した場合、日本人にしか理解できないこととなる。
私自身は布袋寅泰の音楽性は優れて個人的に特有な純粋性を持った「スピリッツ」であって、決して日本人全体が集団で担っている音楽性ではないと思う。
だから、聴くことによってのみ自らの精神、あるいは魂に響かせることしかできないし、布袋寅泰以外の人間には表現できない極めて個人的な音楽性ということになる。
「日本人としてのスピリットを伝えることができた」と言うと、ナショナリズムに浸っている日本人は日本人優越性の証明・勲章の再確認の事例と見做して、なおのこと日本人優越性に浸って、他人種を低く見る傲慢な態度に出るのではないかと危惧する。
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そのような状況が容易に起こる戦争時では、たとえ一般人であっても狂人のような行動をとったのではないかと考えます。もちろん、自分を厳しく律することの出来た日本人も多かっただろうと思いますが。
手代木さまの仰るとおり、現代においても、過激なナショナリズムに走る人間は、自我を律することが難しいのではないでしょうか。