靖国参拝は国家表現

2006-08-05 05:38:48 | Weblog

 国家の表現は国全体のありようの表現でなければならない。国民の全般的な暮らし、その生活程度、国の経済規模、中央と地方との関係、産業のありよう、その国の政治や制度の姿、それら諸々の姿・ありようの全体が国という一つの姿を取る。

 日本の経済規模が世界第2位だからと言って経済大国とするのは経済に限った国の姿であって、日本という国全体の姿を表現する称号ではない。しかし経済規模を以て国家表現とする日本人が少なからず存在する。それは優越的に大国表現したい衝動からの現象であろうが、物事を相対的に把えることができない客観的認識性の欠如の裏打ちがなけれはできない絶対化意識の表れであろう。

 あるいは世界第2位の経済大国の称号を以て、優越的な国家表現に代えようとする。実際にはエネルギー資源ばかりではなく、農業・漁業にしても自給はできず、輸入に頼っている資源小国・農業小国・漁業小国でもある。製造製品の輸出が上回って差引き貿易黒字だとしても、あくまでも貿易額に限った優越性でしかない。あるいは外国相手の商売の優位性を表現しているに過ぎない。

 優越的一部を以て、全体的な国家表現とする。普通では手が出ない高価なオモチャを持っていることが自分の偉さを証明すると勘違いしている子どもと同じで、一部だけの力を借りて日本という国を優越的位置に起き替えたい衝動(=大国としたい衝動)からの国家表現であろう。

 靖国参拝をして「国のために戦った」と兵士の行為を〝国をすべてとした〟立派な行為として追悼・顕彰する。

 兵士が〝国をすべてとした〟とは個人に於ける優越的国家表現以外の何ものでもない。戦争を通して日本という国、天皇という存在をすべてとする(=絶対とする)行為を誇りを持って雄々しく行ったということだろうからである。いわば兵士は国家の実態・天皇の実態を一切捨象し、国・天皇を絶対とする国家行為を戦争を手段に実践した。私的に戦場に赴き、私的に死んでいったわけではない。その国家行為が優越的次元性を備えたものと見なしているからこそ、追悼・顕彰を行う価値ありとして、追悼・顕彰を行っているはずである。そうでなければ、追悼・顕彰の意味を失う。

 小泉首相以下、参拝政治家は「犠牲となった戦没者に敬意と感謝の誠を捧げる」と言っている。あるいは「尊崇の念を表す」と言っている。戦没兵士の国家行為をどれ程に立派だと受け止めているか、その価値を如実に言い表す表現となっている。兵士の国家行為が優越的次元性を備えた行為であることに報いる、その対価としての「敬意」・「誠」・「尊崇の念」なのである。

 「国のために」の「国」の内容、ありようを問わない。どのような国だったのか、国家権力と国民との関係はどんなだったのか。「戦った」戦争の内容も問わない。どのような国家意志のもとに戦争は開始されたのか。どのような戦争行為があったのか。そういった個別的内容を無視して、「国のために」とそのことの一点によって、兵士の戦争行為の絶対性と国家の絶対性をそこに込めている。勿論兵士の戦争行為と国家を優越的次元で把えているのでなければ、絶対性は成り立たない。

 靖国の戦死者が「天皇陛下のために」と行った優越的天皇表現は戦後背後に隠すようになっているが、国・天皇を絶対とした優越的国家表現をしたと仮構する追悼・顕彰を行うことによって、参拝者自身も、意識するしないに関係なく、優越的国家表現(さらに優越的天皇表現)が体現可能となり、体現することになる。「国のために戦った」(〝国をすべてとした〟)と讃えることを通して、その優越的国家表現・優越的天皇表現に心理的な同化作用を働かすからである。

 同化作用を働かさずに戦死した兵士の優越的国家表現から自分を離れた場所に置いていたなら、いわば兵士の〝国をすべてとした〟ことから自分を離れた場所に置いていたなら、讃える追悼・顕彰は欺瞞行為と化す。同化作用なくして、追悼・顕彰行為は成り立たない。

 安倍官房長官が4月に靖国神社に参拝していたことが判明したと8月4日(06年)のテレビのニュースで報じていた。事実を明らかにしなかったことについては「この問題が外交問題化、政治問題化している中で、行くか行かないか、あるいは参拝したかしないかを申し上げるつもりはない」と説明している。その一方で今後の参拝については、「戦没者の方々に手を合わせてご冥福を祈り、尊崇の念を表す。その気持に変わりはない」と明言しているから、参拝の意志は変わらないと言うことなのだろう。大いに結構。

 だが言っていることに矛盾がある。秘密を通すことができてこそ、「外交問題化、政治問題化」を避けることができる。「行くか行かないか、あるいは参拝したかしないかを申し上げるつもり」はなくても、その内心の包み隠しは事実が露見したなら、意味を失う。テレビは自民党実力者の解説として、総裁選を控えていて8月15日に参拝できないから、4月に参拝して、これまで取っておいたと伝えていたが、それが事実なら、自分からリークしたことになって、「申し上げるつもりはない」がなおさらに矛盾を孕むことになる。

 武部幹事長が「政治問題化すべきではない」といったようなことを記者団に述べていたが、安倍官房長官の方は「政治問題化している中で」と言っていて、両者の言い分に食い違いがある。靖国参拝と政治問題化、及び外交問題化は既に原因と結果の切れない関係へと進んでいて、政治問題化・外交問題化しないはずはない事態となっている。その事実を踏まえて政治問題化・外交問題化を覚悟して参拝すべきを、その覚悟もなく、一方はしないはずはない事実に頓着なく「政治問題化すべきではない」と見当外れのことを言い、一方は既に事実として露見していて「申し上げる」も「申し上げ」ないもないことを「申し上げるつもりはない」ともっともらしい態度で、それで済むはずがないことをそれで済まそうとしている。「申し上げつもりはな」くたって、事実は推測・憶測の類を交えて独り歩きしていき、否応もなしに政治問題化・外交問題化していく。そのことを弁えることもできない。なぜこうも日本の政治家は単細胞なのだろう。自己の参拝に信念と確信を持つなら、参拝日を予告し、正々堂々と参拝すればいいものを、それさえもできない。

 公用車は使わずに、玉串料は自費で払う私的参拝の形を取ったが、記帳の肩書は官房長官安倍晋三と公職名にしたという。小泉首相も私的を装いつつ、肩書を内閣総理大臣小泉純一郎としている。それは戦死者の「国のために戦った」(〝国をすべてとした〟)と仮構した優越的国家表現・優越的天皇表現を讃え、参拝することを自らの優越的国家表現・優越的天皇表現としているから、そのこととの整合性を持たせるためには公職名でなければならないからだろう。

 単に安倍晋三、あるいは小泉純一郎と私人の資格で記帳したのでは、自らの参拝が戦死者と同列の優越的国家表現・優越的天皇表現とはならない。公職者の立場を取ることによって、戦死者の〝国をすべてとした〟国家表現・天皇表現と同列の場所に自分を置くことが可能となり、そのことによってより密な同化作用を及ぼすことができる。

 天皇の存在自体にしても、国家表現の道具となっている。世界に例のない万世一系、2000年の歴史、男系というキーワードで日本という国の優越性を表現する国家表現としている。相対化意識、あるいは客観的認識性に欠けるということは素晴しいことである。

 「日の丸」・「君が代」と言うときも、国の実際のありようを捨象して、国の絶対性をそこに表現しようとしている。「日の丸」は素晴しい国旗だから日本の国は素晴しいという、「君が代」は優れた国歌だから、日本の国は素晴しい、優秀であるとする優越的国家表現の道具とし、国の絶対性にイコールさせている

 日本人がかくかように優越的な国家表現を必要とするのは、制度・文物・技術・文化を外国から移入して日本の歴史を成り立たせ、国を成り立たせてきた日本の実体的空虚さを日本という国を誇る国家表現によって代償できるからではないだろうか。自らが誇る日本の技術にしても、その殆どが自らの独創性・創造性によって獲ち取ったものではなく、外国技術のモノマネと改良によって手に入れた技術である。そのような日本の実体に対して常に内心に抱えていなければならない後ろめたさを帳消しにしてくれる、国と天皇を絶対とした戦死者を祀る靖国神社への参拝を通した自らの優越的国家表現、万世一系の天皇や君が代・日の丸、さらに2000年の歴史・伝統・文化を誇ることによって獲得することのできる優越的国家表現ということなのだろう。


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