大津市中2男子いじめ自殺と大河内清輝君いじめ自殺との類似性と教師たちの自己保身と責任回避

2012-07-07 12:26:22 | Weblog

 学校教師や教育委員会委員は大河内清輝君いじめ自殺やその他の類似事件、恐喝事件等を学習していないのだろうか。

 2011年10月11日朝、大津市の中2男子が自宅マンションから飛び降りて自殺した。

 《転落死の中2男子 大津市教委、いじめを確認》MSN産経/2011.11.2 21:35)

 男性担任教諭が9月以降、「いじめがある」との噂を別の生徒から聞き、男子生徒と同級生との喧嘩のような姿も目撃、男子生徒に直接確認。

 男子生徒「大丈夫。同級生とも仲よくしたい」

 担任教諭はそれ以上調査しなかった。

 子どもを虐待する親が子どもの怪我や傷を階段から落ちたとか、自転車で転んだと言い逃れするようにいじめを受けている生徒も似たような理由を言って悟られまいと誤魔化す。

 いじめを受けている生徒が受けていないかのように無事を言うのは先生に告白することがチクったと取られていじめ生徒からの報復を恐れてなのはパターン化している事実だが、生徒の言葉を鵜呑みにしてそのまま遣り過ごしたということは過去のいじめを学習していなかったということになるのだろうか。

 約18年前の1994年11月27日愛知県西尾市の中2男子大河内清輝君がいじめが原因で自宅裏の柿の木で首を吊った自殺事件でも、2人の教師が彼の顔にアザがあるのに気づいて尋ねながら、本人がいじめを否定したためにそのまま放置した。

 放置とは、学校設置の「いじめ・登校拒否対策委員会」で清輝君の顔のアザを話題にしたが、いじめの対象とはせず、議論もしなかったからだ。

 当然、意識的に以後の注意を払うこともしなかった。

 その他にも大河内清輝君にいじめの兆候を認めながら、意識的な注意を払っていなかったからだろう、否定を額面通りに否定とのみ把えて、否定から何も推察することができなかった。

 例えば壊された自転車の修理をした自転車店店主が、一度や二度の修理ではなかったから疑問を抱いたのだろう、学校の教師人に報告、教師の質問に答えた「田んぼで転んだ」、「自分でぶつけた」等の説明に、いわば納得したということはいじめの他の事例との関連付けを行うこともしなかったし、説明そのものへの疑いも持たなかったことになる。

 学校教師が虐待を受けている子どもやいじめを受けている生徒の否定が往々にして否定の実態を伴っていないことを学習していたなら、少なくとも注意を払う選択をし、注意を払うことによって過去の事例との照合で色々なサインや実態が見えてきたはずだ。

 上記「MSN産経」記事によると、大津市の中2男子は自殺の約1カ月前から同級生数人に殴られ、死んだハチを食べさせられそうになったり、ズボンをずらされたりするなどのいじめを受けていた。

 父親が学校に相談。学校は調査せず、結果として学校は死亡前にいじめを把握していなかった。

 調査しなかったということはいじめは存在しないと認識していたからだろうし、その認識がいじめ調査の必要性を認めなかったということになる。

 なぜ調査もせずにいじめの存在を否定できたのだろうか。いじめは存在しないという認識の根拠はどのような事実によって支えることができていたのだろうか。

 生徒を預っている責任上、教師は事実によって証明する実証的態度で何事にも対処しなければならない。いじめ対策は子どもの生命の安全を守る危機管理なのだから、何よりも過去の事例を学習した実証的態度が求められるはずだ。

 常に最悪の事態を想定して、想定した最悪の事態に実証的に備えるのが危機管理であり、当然、備えがムダになることもあるが、そのムダは生徒の生命の安全を以って差し引き良しとしなければならない。

 学校はいじめの調査だけではなく、〈9月に父親から男子生徒の金遣いについて2回にわたり相談を受けたが、父親が「息子には言わないでほしい」と話したため、調査しなかった〉。

 大河内清輝君もいじめグループから金銭の恐喝を受け、100万円以上ものカネを渡していた。

 いじめとはいじめる側が威嚇や暴力、金銭の受け渡し等を通していじめを受ける側と支配と従属の権威主義的関係を築くことを言う。

 いじめ側は最悪の場合、自らの支配を証明し、相手の従属を証明するために年齢相応に考えることができるありとあらゆる手段を用いる。大河内清輝君の場合は、いじめグループが清輝君を川に沈めて息ができなくさせて苦しめたりしたが、生殺与奪の権を握るというのは相手の身体に対する支配の最たるものであろう。

 身体は生命の支えがあって初めて成り立ち可能となる。暴力を伴った相手の身体に対する支配が身体を支えている生命に対しても同時進行で暴力的な支配に走ることになり、その支配の終焉を自殺という形で取ることは過去のいじめ自殺事件が教えている。

 当然、学校・教師はその危機管理に例え過剰反応となったとしても、躊躇してはならないはずだが、何らかの方法で調査すべきを調査しなかった。

 市教委が10月11日朝の生徒の自殺後の10月17~19日、いじめがなかったか学校の全校生徒859人対象のアンケートを文書で行い、約8割の生徒が回答、男子生徒へのいじめの記述があったため、聞き取り調査をした。

 学校が調査しなかった金銭の受け渡しも、男子生徒が同級生から金を脅し取られていたと複数の生徒が回答していたという。

 学習していないから、何ら疑うこともない。その程度の責任遂行となっている。

 葛野一美・市教委教育部次長(市役所で記者会見)「事前にいじめを把握できなかった責任を感じている。いじめと転落死との因果関係は分からない」

 滋賀県警大津署が自殺の可能性が高いとみて捜査しているが、遺書が見つかっていないことと市教委の調査が因果関係が把握できなかったということで自殺死ではなく、転落死としているということなのだろう。

 だが、今年7月に入って、市教委のアンケート調査公表で隠蔽していた情報があることが露見した。

 《「自殺の練習」非公表理由を市教委説明》NHK NEWS WEB/2012年7月4日 17時50分)

 アンケート回答「男子生徒は、自殺の練習をさせられていた」

 市教委「15人のうち名前を記した複数の生徒から聞き取りをしたが、すべて伝聞の情報で、直接見た生徒がいなかった。『自殺の練習』が、実際にあったという確証が得られなかったため、公表しなかった」

 菅仮免が国会事故調参考人証言で、「事実として確定したことは伝える」と言って、予想や予測の類の情報は確定していない情報に入れて公表しないとした考えに通じる。

 例え事実として確定していない情報であっても、先を読んだ予想・予測に類する一つの事実とした情報であるなら、その時点では確定していないというだけのことであって、公表しないまま事実として確定してからの公表であったなら、先を読んだ意味を失うばかりか、そのような情報、そのような確定した事実に対する備えが手遅れとなる。

 結果的に事実として確定しなくても、公表して備えるのが危機管理のはずだが、そう考えるだけの判断能力が菅仮免にはなかった。

 市教委の場合、伝聞情報の域を出ず、確証が得られなかったということは、自殺の練習が事実として未だ確定させることができない状態にあることを意味する。

 そうである以上、例えからかいや冗談から発した情報が伝言ゲームのような間違えて伝えていく情報伝達の流れに乗ってつくり上げられた伝聞情報―― 一つの事実としてそこに存在することになったとしても、公表することによって新たな事実、新たな情報に結びつく可能性は捨て切れないはずで、一つの事実としてあった伝聞情報として公表するのが市教委としての責任であったはずだ。

 だが、学校と同様に市教委にしても責任を果たさなかった。公表して明らかにすることによって、次のいじめ対策にならない保証はないのだから、その責任は学校と同様の生徒の生命の安全を守る危機管理の責任不履行に相当する。

 ところが、実際にも市教委が生徒の生命の安全を守る危機管理の責任を果たしていなかったことが判明した。《いじめた側にも人権…「自殺練習」真偽確認せず》YOMIURI ONLINE/2012年7月6日07時55分 読売新聞)

 この記事では16人の生徒が「男子生徒は、自殺の練習をさせられていた」と回答していたとなっている。

 市教委は回答生徒のうち、実名で回答した4人には聞き取りをしたが、それ以上の調査はせず、加害者とされる同級生らにも聞き取りを行う機会がありながら、「練習」については一切尋ねなかったと記事は伝えている。

 市教委「事実確認は可能な範囲でしたつもりだが、いじめた側にも人権があり、教育的配慮が必要と考えた。『自殺の練習』を問いただせば、当事者の生徒や保護者に『いじめを疑っているのか』と不信感を抱かれるかもしれない、との判断もあった」

 ご立派。

 「事実確認は可能な範囲でしたつもりだが」と言っていた可能な範囲の事実確認がいじめ側と疑うことができる生徒を除いていた「可能な範囲」だった。しかもその理由がいじめた側の生徒の人権尊重と教育的配慮だと言っている。

 人権とは人間が人間らしく生きるために生まれながらに保持している権利を言い、それが基本的人権として表現されているはずだ。人間が人間らしく生きる人権を踏みにじったのはいじめた側の生徒であり、踏みにじられたのはいじめられた側の生徒である。
 
 そのような認識すら持てない。

 事実確認せずに無条件に免罪することが果たして人権的配慮だと言えるのだろうか。何が正しいことなのか、何が間違ったことなのかを知らしめることも人権教育のうちに入る。教えることによって、人間が人間らしく生きるための人権を踏みにじらなくなることが期待できるからだ。尊重するようになることが期待できるからだ。

 いじめた側に対する教育的配慮はあっても、生徒の生命の安全を守る教育的配慮としての危機管理意識は持ち合わせていなかった。

 事実を明らかにして、それが同じ学校の次のいじめだけではなく、他のすべての学校の次のいじめの教訓と対策とする考えも持ち合わせていないらしい。

 また、当事者の生徒や保護者に不信感を持たれないことを優先させて、生徒や世間の市教委や学校に向けられることになるかもしれない不信感は問題にしなかった。

 この履き違えた責任感、責任意識の原因を探るとしたら、学校・市教委が取った以上の言動からして、自己保身と責任回避をキーワードにして省察すると理解できる。

 自己保身と責任回避はコインの表裏をなす。最低限いじめの存在を認めるとしても、いじめと自殺に因果関係があった場合、学校・市教委の責任はいじめだけよりも重くなる。「自殺の練習」の存在を明らかにした場合、いじめと自殺の因果関係が結びつくことになって、学校・市教委の責任は重大化し、重大化に対応して責任は相当に重くなる。

 すべてがそれを避ける調査行動となっていることを振返ることができる。自己保身と責任回避意識が仕向けた情報隠蔽であり、調査回避だったと断言できる。

 学校教育者の自己保身と責任回避意識が、そして過去のいじめを教訓とし、学ぶ学習能力がこの程度に仕上がっている。

コメント (2)
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