4月30日(2012年/日本時間1日午前)、米ワシントン市内開催のクリントン国務長官主催夕食会での我が日本の野田首相挨拶。《「私は自衛官のせがれ。安保の重み感じてた」 米で首相》(asahi.com/2012年5月1日20時36分)
野田首相「私は自衛官のせがれとして生まれ育ちました。父親や隊員たちの背中を眺めつつ、日米安保が持つ重みを肌で感じ取ってきました。
(日米同盟がもたらした米国の被災地支援に感謝し)被災地を救援する目的のために共に必死に汗を流した。この共通体験を糧に、我が国も日米安保の重みを担う決意を新たにした」
記事結び。〈クリントン長官は、旧東京市からワシントンに桜が贈られて今年で100年になるのを記念し、当時贈られた桜と同数の3千本のハナミズキを米国から被災地などに贈ることを正式に発表した。(ワシントン=伊藤宏) 〉――
被災地救援の「この共通体験を糧に、我が国も日米安保の重みを担う決意を新たにした」と言っているが、日米安保条約は軍事面に関わる日本防衛を主体としたもので、災害救援は付属的役割として存在しているはずである。
対して「日米安保の重み」は軍事面に於ける国家・国土全体に関わる最善・最適な日本防衛はどうあるべきかの戦略に基づいて冷静・冷徹に構築し、計算されるべき重要性であって、その重要性は災害救援とは比ではなく、当然、軍事的な国家・国土防衛に関わる重要性の点から「日米安保の重みを担う決意を新たに」すべきであるはずだが、果たして出発点をそこに置いて、被災地救援をキッカケに「日米安保の重みを担う決意を新たにした」ということなのだろうか。
だが、「父親や隊員たちの背中を眺めつつ、日米安保が持つ重みを肌で感じ取ってきました」は情緒性の「重み」であって、冷静・冷徹な戦略的計算に基づいた「重み」とは異なる。
大体が野田首相は情緒的な情報把握に基づいた情緒的な情報発信のエピソードが多い。例えば「原発事故との戦いは続いています。福島を必ずや再生させ、美しいふるさとを取り戻すために全力を尽くします」(東日本大震災一周年追悼式 野田首相式辞/2012年3月11日)と言っている。
確かに野や山の自然は美しいが、地方に於ける人間の生活風景は日本の政治が地方を過疎化させ、経済格差に追い込み、「美しいふるさと」とは言えない悲惨な状況にある。
降雪が多かった今冬、遠くから眺める雪山は美しいだろうが、現実の生活圏に於いては70歳、80歳の高齢者が壮年・青年の手を借りたくても存在しないために自ら屋根に登って雪かきをせざるを得ず、滑り落ちるなどして多くの死者を出したことがこのことを如実に証明している。
いわば既に「美しいふるさと」を失っている上に放射能を逃れて一度県外に出た住民がすべて戻るとは限らない点を見ても、原発事故収束=福島再生=美しいふるさと回帰と一足飛びに見做すことはできないはずだが、簡単にそう言うことができるのは情緒性に基づいた情報発信であり、より現実主義的でなければならない政治家でありながら、このことに反して情緒性を感性としているということであろう。
野田首相の演説の巧みさは情緒性が助けている才能であるはずだ。
情報処理に於ける情緒性の発揮は往々にして的確な情報処理に必要な合理的判断能力を阻害することによって成り立つ。
だから、国家・国土防衛の戦略上の必要性から、いわば国益上の必要性から「日米安保が持つ重み」を冷静・冷徹に計算すべきを、「私は自衛官のせがれとして生まれ育」ったから、「日米安保が持つ重みを肌で感じ取って」きた。あるいは「共に必死に汗を流した」被災地救援の「共通体験を糧に、我が国も日米安保の重みを担う決意を新たにした」などと情緒性たっぷりのことが言える。
もし野田首相が日本のリーダーとして、あるいは内閣のトップとして日本の国益に最大限適う戦略上の必要性から日米安保の重要性を十二分に把握していたなら、その重要性に基づいた的確な指揮命令の責任を常に意識していたはずだし、その意識は今回の北朝鮮ミサイル発射に備えた内閣の危機管理に於いても行動を伴う形で機能しなければならなかったし、機能させる責任を負っていたはずである。
だが、情報処理に醜態とも言える混乱を引き起こし、内閣トップが自ら担っている指揮命令に関わる意識の行動化を満足に果たすことも果たさせることもできなかった。
日米安保に文民として関わる指揮命令の実際的運用に於いて一部でも欠けるところがあったなら、いくら日米安保の重要性を口では言っても、言っていること自体を疑わしくする。
「自衛官のせがれとして生まれ育」ったは重要でも何でもない、必要な資質ではないということである。肝心なことは常に後天的に学び取っていく合理的判断に基づいた情報処理能力であって、「自衛官のせがれ」であることに何ら関係なく、このことを認識していたなら、日米関係構築の場で「自衛官のせがれ」であることなど持ち出さなかったろう。
野田首相の合理的判断能力欠如は次の発言からも見て取ることができる。《日米首脳、同盟強化を目指す共同声明発表》(日テレNEWS24/2012/5/1 13:19)
オバマ大統領「私は、今後数十年に向けたアジア太平洋の地域の秩序作りや、日米同盟を深化させる共同声明を発表できて光栄です」
野田首相「日米の同盟というのは揺るぎのないものでなければいけない、揺るぎないものであるということを確信した次第であります」
確かに「日米の同盟というのは揺るぎのないものでなければいけない」。だが、揺るぎない同盟は終わることのない、常に進行形の双方の努力によって構築し続けるもので、一旦構築したら、それが完成の形を取って既成事実化するということではない。
それが証拠に鳩山元首相は日米の信頼関係を損ねて揺るぎある同盟とし、その修復を果たしたとは未だ言えない。
また同盟の中身に於いても、思い遣り予算等、平等とは必ずしも言えない契約も含んでいるはずだ。
にも関わらず、「揺るぎないものであるということを確信した」と、鳩山元首相の「トラスト・ミー」をケロッと忘れて、揺るぎのないことが既成事実化した同盟であるかのようなことを言っている。
このように言えること自体が既に合理的判断能力を欠いているからこそであろう。
もし言うとしたら、「日米の同盟というのは揺るぎのないものでなければいけない、揺るぎないものとするためには日本としても必要とされる最大限の努力を常に払わなければならない」と言うべきで、このように言うことによって合理的判断能力を満たすことができる上に言外にアメリカの努力の必要性を含むこともできる。
菅前首相も野田首相の、「自衛官のせがれ」に相当する「サラリーマンの息子」という言葉を用いて自身を紹介している。
2010年6月8日の首相就任記者会見。
菅仮免許>「この多くの民主党に集ってきた皆さんは、私も普通のサラリーマンの息子でありますけれども、多くはサラリーマンやあるいは自営業者の息子で、まさにそうした普通の家庭に育った若者が志を持ち、そして、努力をし、そうすれば政治の世界でもしっかりと活躍できる。これこそが、まさに本来の民主主義の在り方ではないでしょうか」
確かに普通の家庭の子息・子女が政治家となる志を持ったなら、少なくともカネの力や人脈がなくても立候補できるチャンスは等しく手に入れることができる社会風土は必要である。
だが、このことはあくまでも初期的条件に過ぎず、必要とされる資質は「普通のサラリーマンの息子」であろうがなかろうが、逆にカネ持ちの息子であろうがなかろうが、結果を出す能力――結果責任能力である。
一見志ある者を差別なくと言っているように聞こえるが、首相就任記者会見での発言である。「私も普通のサラリーマンの息子でありますけれども」の「私も」は、必要とする社会風土への言及にかこつけて普通のサラリーマンの息子でありながら総理となった自身を例示したのであって、何気なく言いつつもそこに誇るニュアンスを嗅ぎ取ることはできても、結果責任能力に対する意思は全く感じ取ることができない。
普通のサラリーマンの息子が次から次へと首相に登りつめていく。だが、一人として満足な結果責任を残せずに次から次へと辞めていくのでは普通のサラリーマンの息子が志さえ抱けば国会議員となることができる社会風土は大して意味のあることではなくなる。
菅仮免許にしても絶対的必要資質条件でないにも関わらず合理的判断能力を欠いていたからこそ言えた、また合理的判断能力を欠いていたからこそ結果責任能力も欠いた、「私も普通のサラリーマンの息子でありますけれども」であろう。
実際にも退陣するまで合理的判断能力、結果責任能力双方共に欠いた政治家で終わった。このことは首相の任期を衆院4年の任期とすべきだとする主張に表れている。
首相としての任期はあくまでも結果責任に付属する期間であって、見るべき結果責任さえ残せば、4年が党代表の任期に応じて5年、6年となる可能性も生じる。だが、衆院4年の任期が保証してくれる結果責任能力では決してない。
大学を4年間通ったとしても、その4年間をムダに過ごしたという学生がザラにいるのは4年間が保証してくれる知識・教養の習得ではないのと同じである。
結果責任意識があったなら、結果責任で獲ち取る首相任期であることを自覚して、衆院4年任期にああまでも拘ることはなかったはずだ。
無為・無能だったからこそ、結果責任に期待できないことから、衆院任期にのみ拘った。
どうも野田首相と菅首相は合理的判断能力欠如という点で似た者同士に見えて仕方がない。