石原都知事の刷り込み強制体罰論の正当性を問う

2012-05-20 12:12:31 | Weblog



 5月11日(2012年)、石原都知事と都民が話し合う「東京ビッグトーク」を都庁で開催。テーマは「子供の耐性をいかに培うか」

 4人の教育分野の専門家が参加したという。

 各記事から、コマ切れに紹介してあるそれぞれの発言を見てみる。


 戸塚宏・戸塚ヨットスクール校長――

 「しかることは必要」(YOMIURI ONLINE

 「正しく力を使い、感情を引き出し希望や夢が持てる能力を育てなければ」(MSN産経

 「力と暴力は違う。力は善なので正しく使えばいい」(毎日jp

 石原都知事――

 「九九を反復して記憶するような『すり込み』には強制が必要である。強制は一つの体罰。自我が発達しない中学生頃までは体罰が必要」(YOMIURI ONLINE

 「手をつないでゴールする運動会のように今の教育は能力の差を認めようとしない。体罰は一種の刷り込みで不可欠、徹底させることが必要だ」(TOKYO MX NEWS

 この発言は会話体ではなく、解説文となっていたものを会話体に変えた。

 川淵三郎日本サッカー協会名誉会長・都教育委員――

 「しごきのようなものを乗り越えないと超一流にはなれない」(MSN産経

 「トップアスリートは皆、しごきに近いことに耐えて超一流になっている」(毎日jp

 田上時子・女性と子どものエンパワメント関西理事長

 「体罰は否定しないが子は親を手本にする。親も自らの耐性を育てなければ」(MSN産経

 「体罰に頼るというのは、親としての想像力や知恵がない。自分も手を上げたことがあるが、娘に伝わったかは疑問」(毎日jp

 工藤定次・青少年自立援助センター理事長

 「就職できないだけで自殺せずに第二、第三の道を考える思考形態を培わなければ」(MSN産経

 「体罰は権力と結びついた時に暴走する危険がある」(毎日jp)――

 体罰容認派の石原都知事と戸塚宏・戸塚ヨットスクール校長、川淵三郎日本サッカー協会名誉会長・都教育委員の発言を取り上げる。

 先ず石原都知事の次の発言。

 石原都知事「九九を反復して記憶するような『すり込み』には強制が必要である。強制は一つの体罰。自我が発達しない中学生頃までは体罰が必要」

 刷り込みにもし強制があるとしたら、その強制と体罰が特性としている強制は明らかに違う。前者は暴力的要素はないはずで、後者は暴力的要素を力としている。

 にも関わらず、体罰を刷り込みというのは実際の体罰が持つ暴力的要素を曖昧化し、両者を同じ種類のものとして体罰を正当化するゴマカシであろう。

 九九は決して体罰と関連した刷り込みではない。また強制によって覚えさせても構わない種類の学習ではない。

 体罰等の暴力を用いた強制は児童・生徒に期待すべき自発性・主体性を排除する。

 尤も相手に自発性・主体性を期待できないから、体罰に訴えると言うだろうが、体罰を以て引き出した自発性・主体性は往々にして真の自発性・主体性ではなく、実体は恐怖心や恥からの機械的従属性に過ぎないだろう。

 だから、体罰は低年齢の子どもにはよりよく通じるが、中学生、高校生と年齢を重ねると、効果を失うことになる。長じるに連れて、恐怖心は恐怖心のま放っておくことはなくなり、恥は恥のまま抑えつけておくことはなくなって、反発心や復讐心を養うことになるからだ。

 その反発心や復讐逆が時として対教師暴力となって跳ね返ってくることは種々の事実が教えていることである。

 教えることは一種の強制であると主張する人間がいるが、それが強制であっても、生徒の同意と支持を得た強制でなければ、自ら学ぶ姿勢として必要な自発性・主体性は育たない。

 九九を例に取って説明すると、「おカネや物を数えるとき、足し算や引き算だけではなく、九九も必要になる。例えば125円の品物を10個買うとき、125円足す125円足す125円と125円を10回足していく足し算の方法と125円に10個をかけて一度に答を簡単に出す掛け算の方法があるが、このような掛け算の基本が九九であって、算数を勉強する上でも、社会に出て買い物したり、あるいは仕事で計算する場合、九九を知らないと不便することになるし、仕事の能力にも影響してくる」等々説明を尽くして、尚且つ生徒から質問を受けて徹底的に納得させ、同意と支持を得る言葉を構築することができたなら、生徒をして自ずと自ら学ぶ姿勢としての自発性・主体性が期待できるはずである。

 生徒自身が自発性・主体性を持って取り組むことになれば、強制でもないし、刷り込みでもなくなる。

 強制・刷り込みは上に位置した教師から下に位置した児童・生徒への上から下への一方通行の意思伝達となるが、同意と支持を得て、生徒が自ら学ぶ姿勢とした自発性・主体性は教師と児童・生徒間に双方向の意思伝達をつくる。

 かねがね日本の教育は教師が伝える知識・情報を児童・生徒が機械的になぞり、暗記する暗記教育だと言ってきたが、この教育構造は断るまでもなく機械的従属があるのみで、児童・生徒の自発性・主体性が関わる工程を当初から欠如させている。

 だからこそ、石原都知事は学校教育に於ける記憶させるための反復学習を「刷り込み」だと言い、刷り込みは強制であって、一種の体罰だと表現することになったのだろう。

 そのような体罰の必要性を自我の未発達に置いているが、自我の発達次期を中学生の年齢と決めてかかっていること自体が、暗記教育が児童・生徒の自発性・主体性が関わる工程を省いていることに輪をかけて、児童・生徒の自発性・主体性に何ら期待していないことを証明している。

 暗記教育に於ける児童・生徒の自発性・主体性は教師が発する知識・情報を如何に正確になぞり暗記するか、暗記した知識・情報をテストの設問に如何に的確に引き出すかといった従属性の範囲内でせいぜい発揮されることで終わっている。

 教師が教える知識・情報に従属するだけではない、自ら学ぶ姿勢としての児童・生徒の自発性・主体性は保育園・幼稚園の頃から期待していいはずだ。

 そして生徒の同意と支持を得た強制が自ら学ぶ姿勢としての児童・生徒の自発性・主体性を養い得るはずだ。

 もし期待通りの年令に応じた自発性・主体性を育み得たなら、それは自我の発達につながっていく。

 また、自ら学ぶ姿勢が自ずと耐性を培っていくことになる。

 戸塚宏・戸塚ヨットスクール校長が「力と暴力は違う。力は善なので正しく使えばいい」と言っているが、体罰主義者だけあって、自己を絶対善に置いている。

 力は常に善であるとは限らない。このことは児童虐待が証明している。その多くが躾だと称して暴力を振るっているが、躾だと妄信している親の側にとって、それは善としての力と見做しているはずだし、躾としている以上、正しく使っていると思い込んでいるはずだ。

 児童虐待が例え満足に言葉をつくり、発信することができない幼い子供が相手であっても、本人が納得する、いわば同意と支持を得ることができる躾でなければ、身体的な暴力でなくても、精神的な暴力として受け止めるだろう。

 例えどのように幼い子どもであっても、同意と支持を与えることができるかどうかは感覚的に判断する。いくら躾であっても、頭を殴られたり、食事を取り上げられたりして同意と支持を与えるはずはない。

 川淵三郎日本サッカー協会名誉会長・都教育委員が「しごきのようなものを乗り越えないと超一流にはなれない」、あるいは「トップアスリートは皆、しごきに近いことに耐えて超一流になっている」と言って、身体的強制を正当化しているが、そこにはアスリートの同意と支持がない身体的強制であるなら、暗記教育と同じ機械的従属を誘うばかりで、自分から考える思考プロセスを置かないことになる。

 果たして考えない練習、あるいは訓練をいくら積んでも、そこそこに体力をつけることができたとしても、試合の場でのプレーに真に役立つだろうか。

 同意と支持を与えることによって、身体的強制に自ら向かっていく挑戦――自らが学ぶ姿勢が可能となる。耐性と同時にチャレンジ精神を培うことができる。

 どうもパネリストとして参加した識者たちは半端な考えしかできないようだ。それとも私自身が半端な情報解釈に陥っているということなのだろうか。

 子供たちの耐性を培う方法として児童・生徒を図書館にノート一冊とボールペンのみを持たせて私語を禁じて1日閉じ込める教育をいつか書いたはずだが、パソコン内を探したが、見つけることができなかった。

 図書館の入館許容人数分だけのクラス数を1日ずつ、交代で閉じ込める。

 何のために図書館に閉じ込めるのか、児童・生徒の納得を得なければならない。読書を通じて創造性(想像性)と耐性(忍耐)を養ことができると、少なくとも頭で理解させ、同意と支持を得る必要がある。

 読書が創造性(想像性)を養うのは誰も異論がないだろうし、説明可能であろう。耐性(忍耐)に関しては、何しろ読書する人間も時間も減っているのである。逆に読書をしない人間が増えている。

 このような状況に反して、1日中、読書しなければならない状態で図書館に閉じ込めるのである。相当な耐性(忍耐)を必要としないはずはない。

 それが退屈逃れが動機だったとしても、読書に没頭できる書物を見つけて初めて退屈から逃れることができ、逆に却ってある種の歓びを読書から得たとき、同意と支持は深まり、否応もなしに自発性・主体性は確固とした姿を取っていくはずである。

 最後の1時限は生徒同士でどのような書物を読書をしたのか、何をテーマとし、どのような内容であったか話し合うのも創造性(想像性)を養う機会となるに違いない。

 単なる強制ではない、同意と支持を介在させて耐性ばかりか、創造性(想像性)までも培う教育方法はいくらでもあるはずである。

 参考までに――

 2007年1月4日当ブログ記事――《奉仕活動/曽野綾子の「入口は強制だっていい」 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》 

コメント (1)
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