菅直人所信表明演説に欠けているいくつかの認識

2010-06-13 09:28:01 | Weblog

 菅新首相が11日午後、衆院本会議で行った就任後初の所信表明演説文章を首相官邸HPから読んでみた。読んだ感想を気づいたところだけおおまかに書いてみることにした。おおまかとは、おおまかに批評する力しかないことからの“おおまか”――

 演説全体を通してすべて素晴らしい言葉に満ち満ちていたが、言っているとおりに実現できるかどうかは北朝鮮拉致問題で、「国の責任に於いて、すべての拉致被害者の一刻も早い帰国に向けて全力を尽くします」と同じ運命にある。目的に向かって全力を尽くすことが目的を果たすことの保証行為になるとは限らないからだ。

 先ずは「政治とカネ」の問題に関わる消えない疑惑、普天間問題の迷走を主たる原因とした前首相の辞任を取り上げて、自身も内閣の一員として加わっていながらこういった状況を防げなかったことの責任を訴えてから、「前総理の勇断を受け、政権を引き継ぐ私に課された最大の責務、それは、歴史的な政権交代の原点に立ち返って、この挫折を乗り越え、国民の皆さまの信頼を回復することです」と信頼回復を誓った。

 失礼にもついつい、次に信頼回復を誓う首相は誰だろうかと頭に思い浮かべてしまった。

 信頼回復を誓ってから、「私の政治活動は、今を遡ること30年余り、参議院議員選挙に立候補した市川房枝先生の応援から始まりました」と、民主党代表選立候補演説でも触れていた同じフレーズの繰返しとなる自身の政治活動の始まりを述べ、以後の政治活動を過去の実績として列挙している。

 6月5日のブログにも書いたことだが、扱う政治課題も過去と現在では同じ姿をしているとは限らず、社会や国を取り巻く状況も当時とは違うはずだから、過去の実績が今後の成果に結びつく保証はなく、本人も「むすび」で「これまで述べてきたように、私の内閣が果たすべき使命は、20年近く続く閉塞状況を打ち破り、元気な日本を復活させることです。その道筋は、この所信表明演説で申し述べました。後は実行できるかどうかにかかっています」と言っているようにあくまでもこれから先、目標とする政治をどう取扱い、どういう成果を上げるか、結果が問われ、そこにすべての責任を置く「政治は結果責任」に縛られているはずだから、過去の実績は新聞・テレビ、雑誌等のマスメディアに任せるべきを、自らの見るべき誇りとして掲げているのは“結果責任”意識に向けたシビアさが不足しているように思えて仕方がない。

 官僚主導政治からの政治主導政治への変革、そして広く開かれた政党を介して国民が積極的に政治に参加し、国民の統治による国政――国民参加による国民主権の政治を実現すると言っている。

 一つの政治政党が「広く開かれた」状況を提供するもしないも、「国民が積極的に政治に参加」できるかできないかも、すべては情報公開にかかっている。政治の中身を知らしめる詳細・徹底した情報公開が国民と政治の媒介を唯一可能とする。これを手段として、国民は真の意味で政治に参加可能となる。

 隠し立てされたなら、国民は政治に参加したくても、参加する手立てを失う。

 情報公開こそが国民が政治に参加する手立てだということである。

 しかし菅直人は「情報公開」を逆転させた意味で認識している。「無駄遣いの根絶と行政の見直し」の項目で、「行政の密室性の打破も進めます。私は、1996年、厚生大臣として薬害エイズ問題に力を注ぎました。当時、厚生省の事務方は、関連資料は見つからないという態度に終始しました。これに対し、私は資料調査を厳命し、その結果、資料の存在が明らかになりました。この情報公開を契機に、問題の解明や患者の方々の救済が実現しました。情報公開の重要性は、他の誰よりも強く認識しています。前内閣においては、財務大臣として、外務大臣とともに日米密約の存在を明らかにしました。情報公開法の改正を検討するなど、今後も、こうした姿勢を貫きます」と過去の実績への誇りと共に情報公開に触れているが、この情報公開は隠し立てしたこと、秘密扱いにしたことを明らかにする意味の把え方であるが、この情報公開では20年30年後の後付の参加となる。

 政治への国民参加は進行形を要件としなければ、単に報告を受ける形となって、真の参加とはならない。政治の進行に併行させて隠し立てしないこと、秘密扱いとしない情報公開でなければ、進行形の政治参加とはならない。

 菅直人にはこの認識がないようだ。例えばある内閣が退陣して20年、30年経過してから、その内閣が使用した官房機密費の詳細を情報公開法によって知らされたからといって、学者やマスメディアに関わっている人間には興味はあっても、一般国民にはどれ程の意味があるだろうか。国民が何ら関与しない場所で既に執行された、誰も責任を取らない政治行為で終わる。

 国民の関与(=政治参加)と政治の責任の所在を決定づけるためには進行形を取った情報公開でなければならない。

 「戦後行政の大掃除の本格実施」(=無駄遣いの根絶、省庁の縦割り排除、行政機能向上、天下り禁止等々)、「経済・財政・社会保障の一体的建て直し」及び「責任感に立脚した外交・安全保障政策」と、成果を確約するかのように次々と掲げるが、確約された成果以前の約束の提示に過ぎず、それが絵に描いた餅で終わるかどうかは、「後は実行できるかどうかにかかっています」が常に試されることになる。

 国民は「実行」を見守り、世論調査や選挙を通してその評価を下す。これらの行為すべてが政治への参加となる。

 「『強い経済』、『強い財政』、『強い社会保障』の一体的実現を、政治の強いリーダーシップで実現していく決意です」

 我々はどう「一体的実現」を図っていくか見守り、その成果次第で結果責任を判定する。見るべき成果がなければ責任を問い、見るべき成果を上げた場合は、責任を果たしたと評価する。

 「『強い経済』の実現」では、安定した内需と外需の創造、富が広く循環する経済構造を掲げている。「グリーン・イノベーション」、「ライフ・イノベーション」、「アジア経済」、「観光・地域」を「新成長戦略」と名づけて成長分野に掲げ、「我が国の未来を担う若者が夢を抱いて科学の道を選べるような教育環境を整備するとともに、世界中から優れた研究者を惹きつける研究環境の整備を進めます」と謳っている。

 日本から特にアメリカに頭脳流出する原因が自由な研究環境の希求となっている。これは日本は自由な研究環境にはないことの裏返しとしてある頭脳流出なのは言うまでもない。大学の研究室に於ける人間関係が“徒弟制度”と言われるように、上は下を従わせ、下は上に従う権威主義の構造を取っていて、自由ではないことを指す。

 このような人間関係は行動面のみならず、発想、考え方の面に於いても上からの従わせる強制力が往々にして働き、下の者の発想、考えを抑圧し、上の者の創造性の支配下に置く傾向を取りやすい。

 いわばこのことを嫌って、自らの創造力を自由に解き放つことができる自由な研究環境を求めて自らの頭脳を流出させるという選択を取ることになるのだろう。

 また、「世界中から優れた研究者を惹きつける研究環境の整備」を言うなら、日本人の人間関係を律している権威主義の行動性を排して、日本自身が自由な研究環境を提供する場とならなければならないはずだ。

 このことが頭脳流出を停止させ、逆に頭脳流入を図る有効な手立てではないだろうか。

 「雇用・人材戦略」の項目で、「ディーセント・ワーク、すなわち、人間らしい働きがいのある仕事の実現を目指します。女性の能力を発揮する機会を増やす環境を抜本的に整備し、『男女共同参画社会』の実現を推進します」と言っているが、「女性の能力を発揮する機会を増やす環境」にしても、「『男女共同参画社会』の実現」にしても、それを阻んでいるのは日本人の行動様式・思考様式となっている権威主義の派生形の一つである、女性を下の位置に置き、男性を上に位置させる日本の伝統文化としている男尊女卑意識、男女差別意識であって、元となる権威主義の排除を心がけなければ、法律である程度強制できても、主体的・自発的な男女共同参画も男女機会均等も実現させることはできないに違いない。

 菅直人にはこの発想にしてもないようだが、私自身の把え方が間違っているとしたら、菅直人は、あなたは正しい、ということになる。

 いずれにしても、結果としての成果がどういった姿・形を取るかである。

 「人材は成長の原動力です」と言っていることに関しても、個々の人材同士がそれぞれが所有する知識・情報を自由に闘わせて新たな知識・情報として高度な段階へと発展・創造させていくプロセスが「成長」の要素となり得るはずで、知識・情報を有機的に自由に闘わせるについても、人材同士のそもそもの人間関係が自由な関係でなければならない。そこに上下に律する権威主義の人間関係が入り込んだら、自由な議論を阻害することになる。

 また人材を「成長の原動力」と位置づけるためには日本人だけの人材の活用では似た者同士、限界が生じる。「世界中から優れた研究者を惹きつける研究環境の整備を進めます」と言っているように外国からの「人材」の導入も必要となる。彼らが所有する知識・情報と日本人が所有する知識・情報をお互いが刺激し合い、同じく有機的に自由に闘わせ合って新たな知識・情報として高度な段階へと発展・創造させていくプロセスも必要となる。

 外国人地方参政権付与法案の国会上程に手間取っているようでは、外国人人材の有効な活用は望めないかもしれない。
 
 「『一人ひとりを包摂する社会』の実現」の項目では、社会的な人と人との支え合いが、「我が国では、かつて、家族や地域社会、そして企業による支えが、そうした機能を担ってき」たが、それが急速に失われて社会的排除や格差の形を取って現れているとして、「『孤立化』という新たな社会リスクに対する取組み」を掲げているが、家族や地域社会、企業が担ってきたとする人と人との支え合いは、殆んどが身内主義に則って成り立ってきた支え合いであろう。だから日本の社会は他処者排除という行動性を成り立たせ、今以てそれを引きずっている。

 家族は家族で固まり、地域は地域で固まり、企業は一つの企業で固まり、他は排除する。国全体で言うと、日本人は日本人で固まり、外国人は排除する。こういった身内主義に終始してきた。国を基準とした日本人身内主義から日本人優越意識が生じている。

 あるいは逆に日本人優越意識を根拠として日本人だけで固まる身内主義に徹する。

 身内は大事にし、他は疎かに扱う態度は自らが所属する身内を上に置き、所属しない身内を下に置く上下関係の価値観からの態度であって、権威主義の思考性・行動性から派生した意識による。

 こういったあらゆる身内主義からの解放を伴わなければ、「『一人ひとりを包摂する社会』の実現」は覚束ない。

 外交に関しては、「国民の責任感に立脚した外交」を掲げている。日本の外交のためにどういった責任感を国民に求めているかと言うと、「この国をどういう国にしたいのか、時には自国のために代償を払う覚悟ができるか。国民一人ひとりがこうした責任を自覚し、それを背景に行われるのが外交であると考えます」と言っている。

 菅首相は昨12日夕、首相就任後初の街頭演説を都内で行い、同じ趣旨の発言をしている。

 《菅首相「外交には代償も」 普天間念頭、初の街頭演説》47NEWS/2010/06/12 18:52 【共同通信】)

 菅首相「国民が多少の代償を払っても国を守り、育てようというのが外交の力だ。国民がどれだけ国の在り方に責任を持とうとしているのかで決まる。外交とは内政だ」

 「国のことは自分で責任を持つという思いの強さがあれば、米国、中国に正面から向き合うことができる。外交を立て直そう」

 街頭演説は民主党の参院選に向けた活動だそうで、記事は枝野幹事長の発言も伝えている。

 枝野幹事長「日本の閉塞状況を打ち破るためには時計の針を後ろに戻すわけにはいかない。これまで培ってきたものを菅首相の下で国民生活(の向上)につなげる」――

 鳩山前首相も首相当時の5月26日のぶら下がりで普天間問題に絡めて同じような発言をしている。

 「この国はこの国の人々で守るという、それは、すべての国にとって当たり前の発想だと思います。それが今の日本にはない、そのことを自然でいるかどうかという発想は、私は、国民の皆さん一人一人、やはり根底の中には持ち続けるべきではないかと、そのように思っています」

 どちらの発言にしても、国民は国は自ら守るという責任感に立った安全保障意識に欠けているという趣旨となっている。

 この両者の発言に大きく抜けているものがある。
 
 国民をどうリードするかも政治の力であり、政治の責任である。外交も内政も政治の力如何によって決まるが、このことも自分たちが目指す外交・内政に国民をリードする部分が大分含まれているはずである。そして政治家がその責任を果たすかどうかにすべてがかかっていく。

 国民をどうリードするか、自らの責任としなければならない自らの政治能力、リーダーシップ(指導力)を抜きに国民だけの責任を求めている。この認識は矛盾してないだろうか。

 直接的に安全保障意識に欠けている、欠けていると訴えても、意識涵養にはつながらない。安全保障はどうあるべきかの言葉を発信し、国民を納得させる力量が求められているはずだ。

 政治家自身がそういった言葉を持たないからだろう、北朝鮮の日本人拉致問題にしても、普天間移設問題にしても、前者は「一刻も早い帰国に向けて全力を尽くします」の決まり文句、後者は「日米合意を踏まえつつ」、「沖縄の負担軽減に尽力する覚悟です」の決まり文句で終わらせ、どのような成算を持って解決に向けて展開していくのかの具体的な言葉を何も示すことができない。

 最後に「むすび」をおまけつきで全文紹介。

〈これまで述べてきたように、私の内閣が果たすべき使命は、20年近く続く閉塞状況を打ち破り、元気な日本を復活させることです。その道筋は、この所信表明演説で申し述べました。後は実行できるかどうかにかかっています。

これまで、日本において国家レベルの目標を掲げた改革が進まなかったのは、政治的リーダーシップの欠如に最大の原因があります。つまり、個々の団体や個別地域の利益を代表する政治はあっても、国全体の将来を考え、改革を進める大きな政治的リーダーシップが欠如していたのです。こうしたリーダーシップは、個々の政治家や政党だけで生み出されるものではありません。国民の皆さまにビジョンを示し、そして、国民の皆さまが「よし、やってみろ」と私を信頼してくださるかどうかで、リーダーシップを持つことができるかどうかが決まります。

私は、本日の演説を皮切りに、順次ビジョンを提案していきます。私の提案するビジョンを御理解いただき、是非とも私を信頼していただきたいと思います。リーダーシップを持った内閣総理大臣になれるよう、国民の皆さまの御支援を心からお願いし、私の所信表明とさせていただきます。〉――

 すべて「後は実行できるかどうかにかかってい」いる。自ら言ったことは詳しく記憶しておかなければならない。「政治家の言葉は重い」と言われる所以である。
 

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