スポーツも人間営為の一つ、美しいばかりの姿を取るわけではない

2008-08-12 05:38:32 | Weblog

 北京五輪が8月8日(08年)開会式を迎え、各競技が繰り広げられることとなった。尤も開会式に先立った6日にサッカー競技の女子1次リーグが現地時間の午後5時から行われ、2大会連続3度目の出場となった日本代表のなでしこジャパンがニュージーランドと対戦し、2-2で引き分けている。

 多くの人間がスポーツの素晴らしさを言う。自らの肉体の限界に挑み、真摯に闘いに臨む姿が純粋で美しく感動を与えると。「スポーツは人間賛歌だ」と持ち上げる者さえいる。

 だが、選手は勝ち負けに一喜一憂し、テレビ観戦を含めた観客は自国籍選手の勝ち負けに一喜一憂する。競技する者も観る者も勝つことを目的としているからに他ならない。勝つことを目的としていながら、既に露見していることだが、「オリンピックは参加することに意義がある」と勝ち負けに関係なく、さも参加することが目的だとする標榜は偽善そのもので、そのような偽善が通用したのは勝つことを目的としたオリンピック競技及び競技する者の勝ちへの執着を隠し、競技への動機を美しく装わせる奇麗事として必要だったからだろう。

 確かに優れたプレーは人に感動を与える。だが、勝ちへの激しい執着がなさしめるエネルギーの発露であって、「参加することに意義がある」とする動機づけからは生まれないプレーであり、感動であろう。

 選手の勝ちへの執着を高める道具立てに世間に広く知られるようになった「ニンジン作戦」がある。8月9日(08年)の『朝日』朝刊記事≪報奨金 無冠の国、巨額準備≫がそのことを伝えている。

 金メダルを未だ一つも取ったことのないアジアの国々がそれぞれにニンジンならぬ高額の報奨金を用意して、選手の勝ちへの執着を高めようとしていることと日本と中国の事情を紹介しているが、箇条書きにしてみる。

1.シンガポール、金メダリストに50万ユーロ(約8500万円)
2.マレーシア、アテネまでの金メダル16万リンギ(約480万円)を今回は100万リンギ(約3千万円)
3.フィリッピン、金メダルに950万ペソ(約400万円)
4.タイ、1千万バーツ(約3200万円)、浪費防止策として半額は20年間の分割払い

 タイのそうさせた前例を記事は紹介している。アテネオリンピックのボクシング金メダリスト、マヌト・ブンチュムノンが約6600万円の報奨金をギャンブル等で散財、一文無しとなるが、現在は「別の人格に生まれ変った」と北京で連覇を目指しているという。

5.中国、前回32個の金メダルを獲得、「各国の政策にならい、報奨金を用意しているが、額は未定」

 ご当地開催国であり、共産党一党独裁体制の矛盾を隠して大国の仲間入りを世界に示すために何よりもオリンピックの成功と国威発揚を必要としている中国である、特大のニンジンをぶら下げないはずはないだろう。

 記事では最初に紹介している日本の事情だが、日本オリンピック協会(JOC)は前回同様、金メダル300万円、銀200万円、銅100万円のそれ相応に眩しい「ニンジン」のぶら下げ。

 04年アテネ大会は金16、総メダル数37個で総支給額は1億5600万円。今回も3月に承認した予算で約1億6千万円を計上して、アテネ同様のメダルラッシュの再現を期待しているという。

 当然金、もしくは銀・銅のメダルに近い実力者たちは胸算用を弾いていることだろう。それが捕らぬ狸となるかどうかは別問題として。谷亮子は300万円が3分の1の100万円となったことだけは確かである。

 「ニンジン」の備えはJOCばかりではなく、各競技団体も紐をつけて待っているという。

1.バトミントン、金1千万円。銀500万円。銅300万円。美人ダブルスが人気だからとのこと。
2.陸上、アテネから倍増で金1千万円、銀600万円、銅400万円。

 陸上で金が取れそうなのは女子マラソンの故障していない野口か室伏のハンマー投げといったところと考えると、バトミントンと同じ1千万円では少々かったるい気がしないでもないが、競技種目の大衆性と華やかさの違いか。野口が出場見合せとなったら、金に1千万円の値をつけた目的の一つが潰え去ることになる。

3.卓球、シングルス金2千万円、最も獲得に現実味が持てる団体の銅メダルの場合は監督、選手に40万
  円ずつ。

 かつては卓球王国日本と言われたが、そのことへの微かな郷愁をない混ぜた、バトミントンや女子マラソンと同様の女子狙いの高額金のように思える。女子選手、それも美人、スタイル抜群、セクシーと言うことなら高値がつく。

 このことは男子軽量級ダブルスカルで2大会連続入賞し、初メダルを狙うボートが今回初めて報奨金を設定したこととその金額――金300万円、銀100万円、銅50万円にも現れている男尊女卑ならぬ、その逆と言える女高男低の値付け傾向であり、このことはスポーツが利害や打算から離れて存在する美しいばかりの活動ではないことを物語っている。

 その他所属企業からも報奨金を貰う選手がいるとのこと。企業の広告塔の役目を持たせている関係からなのは間違いない。有名選手ともなると、スポーツウェア企業やスポーツ用具企業と専属契約してイメージキャラクターとなり、高額のコマーシャル料を得る。アマチュアの生活を余儀なくされているのは人気のない競技の選手のみで、殆どはプロ化して、選手生命の短さを補う収入の獲得にもエネルギーを注いでいるといったところが実情だろう。

 こういった上記事情はスポーツが競技することだけで成り立っているわけではなく、カネのバックアップも加わって重要な位置づけをなしている人間営為であることを教えてくれている。となると、一概に、あるいは不用意に人間賛歌などとは言えなくなる。

 カネに関わる問題はニンジンの意味を持たせた報奨金だけにとどまらない。内科、整形外科、歯科、眼科、耳鼻科、婦人科、皮膚科の診療科を抱え、最新鋭の医療機器・検査機器で選手の健康チェック、体力チェックを行い、その能力の強化・向上を図って最善のコンディションに持っていく目的の建設費274億円をかけ01年(平成13)10月1日東京都北区にオープンさせたトータルスポーツクリニックとしての国立スポーツ科学センターにしても、この国立スポーツ科学センターと隣接させて建設費200億円、土地の買収も含めた総事業費335億円、両者を含めた敷地が東京ドームの1.5倍の約7万平方メートルもある日本で最初の国家予算による最新鋭の総合トレーニング施設ナショナルトレーニングセンターにしても(「Wikipedia」から)、選手育成にカネの力が無視できない形で預かっていることを物語っている。

 このようなスポーツエリート養成のカネの関与があってこそ可能としている中国や日本、欧米経済大国のメダル独占であり、その逆説が選手の育成に満足に国家予算というカネを注ぎ込むことができない発展途上小国のメダル獲得数の少なさとなって現れている光に対する陰の光景であり、このような傾向も簡単には「スポーツは人間賛歌だ」、「純粋で美しい」と讃えて済ますわけにはいかないスポーツの姿としてあるものであろう。

 子供の教育が親の経済力(=カネ)によって左右されるのと同じく、スポーツにしても選手の直接的な能力強化のみならず、次世代の選手の発掘のためのスポーツ人口の裾を広げる事業に関してもスポーツ振興を目的として注ぐことのできる国家予算の規模(=カネの規模)がモノをいう点では同じである。科学的な選手育成はカネこそが大いなる力となる。決して自身の肉体の躍動一つで、あるいは記録の限界への挑戦といったことでケリがつくスポーツの世界と言うわけではない。

 選手それぞれの勝つことへの激しい執着・執念も国家予算や所属倶楽部、所属企業の報酬、あるいはスポーツ用具会社の用具の提供を受けつつ商品宣伝を担うことで手にする高額の報酬等のカネの支えを必要事項として発揮できる行動様式であり、あるいはそれらをまだ手にしていない者が新たに手に入れようとして燃やす執着・執念でもあり、そのことをそのまま裏返すと、勝負への執着・執念を失ったとき、生活の保証ともなる手にしていたカネの機会を人に譲る、あるいは一度も手にせずに終わることを意味するゆえに燃やし続けなければならない凄まじい情念とも言える。

 またそうであるからこそ、この勝ち負けへの囚われは人間の自然な情としてあることだとしても、勝ちへの執着・執念が過ぎたとき、スポーツの世界に限ったことではないが、様々なルール違反が生じて、それまでそうと見えていたスポーツの純粋さ、虚飾のない真摯さに綻びが生じて美しいばかりではない醜い姿を覗かせることとなる。

 日本人選手には殆どいないが、薬物を用いて運動能力を高め、記録を伸ばそうとするドーピング問題がその代表例であろう。2004年のアテネ大会のハンマー投げ競技で金メダルを獲得したハンガリーのアドリアン・ アヌシュ選手が試合後の尿検査を拒否したことからドーピング違反を疑われ、金メダル剥奪措置を受けたが、ハンガリーに帰国したまま金メダル返還を拒否、最後には返還に応じて2位だった日本の室伏広治が繰上げで金メダルを授与した事件まだ記憶に新しい出来事となっている。

 アドリアン・ アヌシュのその潔くないスポーツマンシップを非難する声が世界各地で起こったが、私自身はスポーツマンシップなる精神性など信じないから、アドリアン・ アヌシュに人間の姿、その虚飾性を見たに過ぎなかった。

 スピード社製の水着を着た外国選手が各種大会で次々と記録を画期的に塗り替えていく場面を演じて、「今年生まれた世界新40のうち、37がスピード社製着用」(NHKニュース)といった事態が生じると、他社水着と契約し、高額の報酬でその宣伝に努めながら、日本水連がメダルを失うことへの恐れから許可を出したものの、勝つことへの執念、と言うよりも勝つことへの打算を優先させて契約水着を捨て、スピード社製に走った水泳選手たちの姿は厳密に言うとスポーツマンシップに則った態度だと言えただろうか。

 8月10日(08年)の「サンスポ」インターネット記事が北京オリンピック「競泳第2日で初めて決勝が行われた4種目とも優勝者は英スピード社の高速水着『レーザー・レーサー(LR)』を着用していた」といったことを伝えていたが、スピード社製水着へのなり振り構わない殺到が見せたものはやはりスポーツだから美しいとは断定できない利害打算・損得勘定、勝つことへの執着・執念に囚われた(大袈裟に言うと、仁義なき)人間の姿であった。

 他社と契約していながらスピード社製に走った殆どの選手がスポーツマンシップなど薬にもしていなかったろう。元々見せかけに過ぎなかったスポーツマンシップだからこそ、薬にしないで済ますことができる。

 もし各選手共に「オリンピックは参加することに意義がある」を姿としていたなら、自民党総裁選で勝ち馬に乗るべく安倍晋三に雪崩を打ったようには、あるいは各派閥領袖が福田康夫に雪崩現象を起こしたようには、スピード社製水着着用に向けて雪崩を打つことはなかったろう。ホンネは「勝つことに意義がある」としているオリンピックだからであり、勝つための利害打算、損得計算は決して厭わない。それがスポーツを演じても何を演じても見せることとなる人間の姿であろう。

 1987年の世界陸上選手権と1988年のソウルオリンピックの男子100メートルでカール・ルイスと対決したカナダのベン・ジョンソンは両試合とも世界記録を打ち立てて金メダルに輝いたが、ドーピング検査で陽性反応が出て世界記録と金メダルを剥奪され、共に2位だったカール・ルイスに金メダルを譲っているし、ソウルオリンピックのカール・ルイスの記録が世界新記録へと訂正された。

 今大会でも多くの選手がドーピング検査により資格停止処分や出場禁止処分、あるいは選手団から外されたりしている。今までの例から考えると、競技終了後の尿検査で引っかかる選手が出てくる可能性は否定できない、いとも簡単に一括りに「人間賛歌劇」だとは言えない美しくない姿を背中合わせとしたスポーツであり、オリンピックでもある。

 勝つことへの執念が行過ぎた例としてまだ記憶に新しい「中東の笛」も取り上げなければならない。「Wikipedia」を参考に解説すると、2007年9月に愛知県豊田市で開催された北京オリンピックハンドボールアジア予選のクウェート対韓国戦は国際ハンドボール連盟の指示でドイツ人審判団によって試合が行われる予定だったが、クウェートの王族によって支配されたアジアハンドボール連盟の指示によりヨルダンの審判へと変更、クウェート対日本戦もドイツ人からイラン人へ審判の変更がなされ、クウェートに極端に有利となり、韓国、日本に極端に不利となる依怙贔屓の「中東の笛」を吹きまくったばかりか、ヨルダン審判が国際審判員の資格を持っていなかったことが判明、日本と韓国は國際ハンドボール連盟に改善を要求、試合の遣り直しとなって話題を提供、ファンでなかった者もファンにして遣り直し戦は今までに例のない少数の徹夜組も出したが男子、女子共に韓国に敗れ、最終予選でも負けて双方とも五輪出場を逃している。

 「中東の笛」程には露骨な国贔屓はなくとも、レフリーのホイッスルや体操、あるいは柔道などの判定が常に厳正中立を保証するものではないことは誰の目にも明らかであろう。スポーツ競技と同様に人間の営為に過ぎないからからである。

 以前日本女子マラソンの五輪代表選考で成績が振るわなかった選手を過去の記録を実績として代表に選考、そのお陰でより成績のよかった選手が代表から洩れてその基準の曖昧さ、不透明な選考方法が問題になったことがあったが、これもスポーツの世界が美しいばかりの姿を取るわけでないことを物語る場面であった。

 JOCに所属する各競技団体の会長が殆ど政治家によって占められ、中には安倍晋三や河野洋平、笹川尭といった政治家が親子世襲で会長職を引き継いでいる奇妙な光景は何を物語るのだろうか。著名な政治家の顔が交渉ごとに有利に働くからとお願いし、政治家にしても見栄えのいい肩書きだからと引き受けているとしたら、競技関係者が自ら行うべき使命を裏切る、あるいは自らが関係する競技に持つべき熱意を裏切る怠慢以外の何ものでもないだろう。

 面倒なことを自らが担ってその責任を自らが果たしてこそ、その使命感、熱意は競技選手にも伝わる。会長に据えた政治家と昵懇の間柄だと世間に見せたい虚栄心からやたらと一緒の会合を持ったり、選挙のときに票の取り纏めの便宜に動いたりしているとしたら、競技は選手任せ、組織は役員が役員でいるための目的を違えた形だけのものとなる。

 役員人事問題で混乱が続いていた日本バスケットボール協会会長に麻生太郎が、副会長に同じく自民党の愛知和男が8月10日(08年)それぞれ正式就任したと「asahi.com」が伝えているが、バカでもチョンでもといった具合に、あるいは判を押すように著名政治家をトップに持ってくる慣例は横並びの画一性を示すもので、思考の硬直化なしには実現し得ない人事ではないだろうか。

 07年11月7日の『朝日』朝刊記事≪もっと知りたい 競技団体トップなぜ政治家≫によると、麻生太郎は日本クレー射撃協会の会長に納まっていて、自身は全日本選手権に3度優勝。モントリオール五輪にも出場とその経歴を紹介し、協会自身は「会計処理などををめぐり混乱」と解説を加えている。

 クレー競技者としての経歴も政治家としての経歴も適正な会計処理に向けた指導という点では何ら役に立たなかったようだ。多分お飾りに過ぎない会長職だったのだろう。だが、お飾りであっても、トップの人間がそれとなく醸し出す存在感によって下の者をして下手なことはできないぞという緊張感を与えるものだが、ヘラヘラしたことばかり喋っていて逆に下の者の緊張感を奪ってしまい、いい加減な会計処理を間接的に引き出すことになったと疑えないこともない。さもありなんと思わせるヘラヘラ口調が特徴の麻生太郎である。

 時折りお家騒動が起きたり権力闘争が起きたりする競技団体だが、それぞれの団体に所属する選手が組織の内紛や役員の問題行動に影響を受けないはずはない。勝つことへの執着・執念を殺がれるケースも出てくるだろう。身体は身体だけでつくられているわけではない。感情が精神を大きく左右して、肉体そのものを良い方向にも悪い方向にも支配する。プレー以外の選手を取り巻く様々な要素が微妙に影響してプレーそのものの姿を変えることもある。常に純粋培養を受けて純粋培養のまま発揮されるプレーといったものは存在しないだろう。

 日本選手はドーピング違反を犯してまで勝つことへの執念を見せる選手はいないようだが、北京オリンピック緒戦の米国戦を0-1、二回戦のナイジェリア戦を1-2で落として最終戦のオランダ戦を残し一次リーグ敗退が決定した男子サッカー「反町ジャパン」の試合を見ていると、ボールを蹴り合いながら相手チームの選手と競り合って走るとき、相手選手のユニフォームの背中を掴み、前に行かせまいとしたり、後ろに倒そうとしたりする反則を犯す。

 こういった反則はやはり勝ちへの執着がそうさせてしまうどこの国のチームもやっている反則でお互い様だが、身贔屓なのか、単に偶然なのか分からないが、レフリーの笛が鳴って反則を取られることもあるし、笛がならないまま見過ごされることもある。私自身は「おお、やっているな」と感心するし、もし運よくレフリーのホイッスルを誘わずに済んでファールを取られたりしなければ、「うまくやったな」と感心したりする。

 また勝っているチームが試合時間終了間際になると味方の選手同士でボールを長く保持して時間稼ぎをするのも日常的に見かける試合光景となっている。

 これも勝ち負けへの利害打算、損得勘定が仕向ける姑息な手段であり、同時に勝ちへとつなげようとする執念がそうさせる美しいとは言えない試合光景であろう。

 中国政府が反体制の人権活動家を取締まり、新聞・テレビ報道を制限、あるいは統制し、インターネットを監視し、あらゆるデモを力で抑えつけようとする過剰な警備体制を敷いて開催に漕ぎ付けた北京オリンピックの舞台である。そのような舞台で各国選手は競技を演じる。例え個々の選手が勝つことへの執着・執念のみで競技に熱中したとしても、あるいは観客がテレビ観戦をも含めて選手の勝ち負けのみに目を向けたとしても、選手たちの一見肉体の限界に挑む真摯で純粋なプレーに見える一つ一つの挑戦はカネを力としているという事実や、プレーの舞台そのものが中国政府の自由と人権の制限の上に成り立っている事実等が組み合わさってオリンピックという全体像をなしているものの一部であって、その全体像にしても、それを成立させている一つ一つの事実にしても消えることなく歴史に刻まれることになるだろう。

 ドーピング違反を犯した選手の名前と記録とメダル剥奪の事実が歴史に記録されるように。

 米下院外交委員会が人権侵害やスーダン・ミャンマー両政府への支援の停止を中国に求める決議を採択したことについて中国の報道官が中国に対する不当な非難はオリンピック精神に反することだと非難していたが(北京週報)、オリンピック精神が謳っている人間の尊厳の維持、人権の保障、差別の否定、平和な社会の確立等に向けて中国国民に、あるいは外国のこととはいえ、ミャンマー国民やスーダン国民に力を果たしているとは思えない中国政府がオリンピック精神を持ち出し、オリンピックを開催するその倒錯性も競技にのみ目を向けることで忘却していいわけのものではない美しくない姿であろう。

 胡錦涛国家主席は8日昼に北京人民大会堂で北京五輪開会式に出席する各国の要人を歓迎するレセプションを開催したが、要人の一人ひとりの名前が読み上げられて順番に胡錦涛主席の前に進んで挨拶し合うシーンは極めて高度に政治的なショーであった。そこには対等であることの演出はなく、各国要人が名前を読み上げられてから胡錦涛主席に握手を求めにいき、胡錦涛主席が各国要人に求められた握手を鷹揚に受ける上下関係の演出が施してあったからだ。大国中国を世界に見せ付ける演出だったのだろう。

 このような政治的な不純さも混じった北京オリンピックであることも見逃すわけにはいかない。身贔屓もあれば、虚飾もある、姑息な違反もある、ときにはカネと名誉、あるいは虚栄を賭けたあざといばかりの勝つことへの執着・執念も見せる。オリンピックは政治とは無関係だと言いつつ、国家による政治的な思惑を露骨に関与させることもある。決して美しい姿ばかりを見せるわけではない人間劇のオリンピックであるにも関わらず、選手のプレーが見せる表面的な感動シーンにのみ目を奪われて、スポーツは人間賛歌だ、虚飾のない世界だ、記録の限界に挑む姿は美しいとのみ言える人間は幸せである。

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