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福田首相の次に安倍が遺産として残した貧乏クジを引くのは麻生か

2008-08-02 09:33:14 | Weblog

 改造福田内閣の党幹事長にあのキャラが立ち過ぎ、アキバ系のおたくに人気抜群と言われているあの麻生太郎が任命された。昨07年9月の現福田首相と争った自民党総裁選では「オレんとこ(麻生派)16人しかいないんだぜ。それが(議員票だけで132票と)約9割増えた」「197票は大事な大事な財産です」(日刊スポーツ)と上機嫌だったあの麻生太郎が。

 開票当日、自民党本部前に昼頃からインターネットの掲示板「2ちゃんねる」で呼び掛けあった約300人の麻生サポーターの若者が「YES! 麻生」のプラカードを手にして十数人の機動隊員が警戒する中、「麻生! 麻生! 麻生!」(同日刊スポーツ)の疲れを知らないエールの連呼を総裁選終了後の午後4時頃まで演出させしめたあの麻生太郎が。

 麻生太郎「新宿、秋葉原。そして今日の永田町。あれ、多分、自民党員ゼロよ。2ちゃんねるで(スレッドが)立ったんだろうけど、永田町にあんなに人が集まるなんて過去に例はない。すごく感激した」(同日刊スポーツ)

 福田首相の麻生太郎幹事長起用についての大方のマスコミの見方は「人気」の高い麻生を「政権の顔」、「党の顔」とすることで支持率を揚げて政権浮揚を狙うことと「選挙の顔」にして近々予想される総選挙を乗り切ることを図った起用となっている。

 すっかり泥まみれになって期待値が限りなく失墜してしまっている福田と比較して政権担当者として汚れ役を一度も演じていない手付かず状態の麻生がそれ相応に人気を維持しているのは当たり前のことだが、しかしあくまで政権担当者は福田総理大臣であって、「政権の顔」、「党の顔」を総理大臣に次いで党内ナンバー2の要職とされ党務を掌握する役職にはあるとは言うものの、国の政策をリーダーとして担うわけではない幹事長に託すのは主体性の放棄と言われても仕方があるまい。福田首相の「顔」ではもはや内閣支持率を上げることも選挙を戦うこともできないと宣言したようなものではないか。死に体内閣のカンフル剤とでも表現したいが、果してカンフル剤となり得るかどうかである。

 「政権の顔」、「党の顔」の麻生への譲渡は政権のトップを福田首相に据えたまま密かに主役交代を行うといった矛盾行為を孕んだ主体性の放棄でもある。

 また麻生の人気を「国民的人気」と持ち上げるマスメディアがあるが、「国民的」とは老若男女、性別を問わず、年齢及び世代を問わない国民全体に関わる様を言うのであって、アキバ系、あるいはマンガおたくといった若者層に限った反応を言うはずはない。確かに自民党本部前に300人もの若者が押し寄せ、昼頃から午後の4時頃まで「YES! 麻生」のプラカードを持って「麻生! 麻生! 麻生!」と連呼する姿は今までになかった驚きを誘う貴重な場面ではあろうが、それをさも国民全体に亘った現象であるかのように露出させ、社会現象であるかのように流布させるのは特にテレビが抱える悪しきセンセーショナリズムの表れであろう。

 あのときの熱狂を今以て維持しているアキバ系・おたく若者がどれ程いるだろうか。総裁にならなくてよかったのではないか。なっていたとしたら福田首相同様に今頃堕ちた偶像となって泥まみれになっているだろうから。

 小泉の規制緩和一辺倒政策、過度の経済合理主義が負の面として遺し、時間の経過と共に深刻化していった派遣、フリーター、ワーキングプアといった若者に振りかかった社会的な雇用矛盾は同じ自民党の一味として加担した限界から麻生太郎にも押しとどめめようがなかったろうし、若者たちを熱狂の世界から否応もなしに現実に引き戻していたに違いない。

 小泉内閣のもと、総務大臣と外務大臣を歴任、安倍改造内閣で党幹事長を勤めて自民党政治の空気を肺の底までどっぷりと吸ってきた事実は誰にも棚上げできまい。その事実を無視して、もしも雇用矛盾に縁のないアキバ系、マンガおたくたちだけがワーキングプアの氷山に閉じ込められた若者を他処に再度「YES! 麻生」のプラカードを手に「麻生! 麻生! 麻生!」の疲れを知らないエールの連呼を打ち上げ、麻生との連帯を演出したとしたら、異常な上、馬鹿げた光景となるに違いない。

 例え若者にどのように人気があろうと、それを「国民的人気」だとマスコミがどのように持ち上げようとも、合理的客観性・合理的認識性の欠如は如何ともし難い麻生の思想上の欠陥のようである。そのことは過去の言動が証明している。

 いや、自民党本部前に集まって「麻生! 麻生!」と連呼する300人の若者を前にして単純に感激したこと自体が麻生の合理的客観性・合理的認識性の欠如を十二分に物語っている。もしそういった能力を備えていたなら、彼らのエールに手を上げてにこやかに応えながらも単純に感激などせず、この人気は次の総裁選まで続くだろうか。維持するにはどうしたらいいのだろうか。総裁選の投票権を持たない彼らの人気を総裁選の一票につなげるにはどうしたらいいだろうかと考えを巡らせたに違いない。

 過去の言動から麻生太郎の合理的客観性・合理的認識性の欠如を見てみると、2006年1月28日に名古屋で行われた公明党議員の会合で、「英霊は天皇陛下のために万歳と言ったのであり、首相万歳と言ったのはゼロだ。天皇陛下が参拝なさるのが一番だ」が最たる証明となる。

 戦前の天皇は国民に対しては神聖にして侵すべからず存在として大日本帝国に君臨した絶対統治者であり、陸海軍を統帥する絶対権力者であって、首相の権力などその比ではなかった。唯一その絶対権力ゆえに国民は戦争に於いては「天皇陛下バンザイ」の教育を受け、その具体化が生きて虜囚の辱めを受けずの死を賭した玉砕行為であったのであり、コロコロ代わる首相バンザイなどあり得るはずもなく、あり得るはずもなかった「首相万歳」を持ち出して「天皇万歳」と比較すること自体が麻生に於いては合理的客観性・合理的認識性の欠如発揮の最たる場面であろう。

 もしかしたら日本は首相がコロコロ代わるから、日本民族優越性の証明以外に万世一系という長期性を政治制度上の背景として現在も必要としているのかもしれない。

 麻生の「英霊は天皇陛下のために万歳と言ったのだから、天皇陛下が参拝するのが一番だ」は「天皇陛下万歳」の肯定であり、戦前の肯定を意味する。このことによって麻生太郎は安倍晋三国家主義者と同類であり、国家主義的兄弟だと看做すことができる。

 こういったことを理解できないアキバ系、マンガおたくの若者だけが単細胞にも「麻生! 麻生!」と熱狂できる。

 総務大臣在任中の2005年10月15日に九州国立博物館の開館記念式典での来賓祝辞の中で「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」(Wikipedia)と日本の国を誇ることができたのも合理的客観性・合理的認識性の欠如が幸いした発言と言える。

 弥生時代から飛鳥時代の中頃にかけて中国や朝鮮半島から大量の移民があっただけではなく、文字のなかった日本人は中国から文字を貰い、コメは日本の文化だと言いつつ、水耕による稲作は大陸からの移入技術であって、その他の鉄製技術や銅製技術、製陶技術も中国・朝鮮から受け継ぎ、国を成り立たせる制度も中国の制度の引き写しで、大陸人と同じ皮膚の色、同じ髪の色、同じ顔かたちと元々近親性があったから目立たないものの、国の成り立ちの出発点に於いては混血文化、混血文明、混血民族、混血言語によって日本は歴史を刻んできた。

 そして明治維新になって民族と言語を除いて大幅な変革を伴う文化、文明、国づくりの制度・技術をかつての大陸から欧米に変えて引き写し、近代化を進めてきたのである。

 一見「一文化、一文明、一民族、一言語の国」らしくは見えるが、日本の歴史を仔細に眺めると、日本が「一文化、一文明、一民族、一言語の国」だという言葉はどこを探しても出てこないはずだが、優越民族意識の熱病に罹っているからこその誇りではあったとしても、そのような熱病に罹ること自体が合理的客観性・合理的認識性の欠如を素地としていることの証明としかなり得ない。

 例えらしくは見える麻生の「一文化、一文明、一民族、一言語」だったとしても、そのことが自らが仕掛けた中国侵略にしても太平洋戦争にしても役に立ったとでも言うのだろうか。戦後の国づくりに於いて、特に現在の持てる者と持たざる物の二極化を加速させている社会の矛盾に抗して公平・公正な社会の構築に役に立っているとでも言うのだろうか。

 真に価値あることは「一文化、一文明、一民族、一言語」といったことではなく、人種・国籍に関係ない責任感であろう。それぞれの立場にある者が立場に応じて担うこととなった責任を果たそうとする責任感の有無が多くを決定する。

 「一文化、一文明、一民族、一言語」であるかどうかが責任感をつくり出してくれるわけではない。そのことは公平・公正な社会の構築に反した今の日本の偽装と欺瞞に満ちた社会を見れば一目瞭然ではないか。産地偽装、原料偽装、官民談合、教師採用試験の採点偽装、カルテルを手段とした価格偽装、医療機関の診療報酬を偽装した不正請求、介護施設の介護報酬を偽装した不正請求、政治家・官僚の族益・省益に立った責任感を忘れた欺瞞行為等々、例を挙げたらキリがない。

 かつて野中広務が被差別出身者であることを理由に「野中のような出身者を日本の総理にできない」と発言したということだが、「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」とする優越民族意識が可能とした差別発言であろう。「一民族」と言いつつ、同じ民族の中に人間差別を設ける。自民族を優越的に上に置く人間は自己をも優越的人間として上に置く。自分の民族が優れているという思い込みは自分という人間が優れているという思い込みを伴って初めて成立するからだ。

 その思い込みたるや、合理的客観性・合理的認識性の欠如の産物なのは断るまでもない。当然のこととして優越的存在を優越的存在たらしめるためにその対極に劣後的存在を置くことになる。日本民族優越性の対極に黒人等に対する有色人蔑視を成り立たせているように。同じ日本人の中でも天皇や政治家、官僚、大学教授等の著名人、由緒ある企業人を上に置き、下に単純労働者やワーキングプア、ホームレスを置く差別を行う。

 こういった程度の低い軽薄短小な人間が再び自民党幹事長の重職を担い、総理・総裁を再度狙う。日本が人権後進国、民主主義後進国だからデザイン可能な場面展開であるに違いない。

 例え次回の総選挙で与党が勝利したとしても、前回の小泉郵政選挙程の大勝利は予想困難で伯仲に近い状態での勝利であったなら、参議院与野党逆転の状況を引きずっていることに変化はなく、例え衆議院の議席が直近の民意だと言い立てたとしても、参議院の結果が直近の民意だとする民主党以下の野党の言葉を無視した手前もあって、その言葉に力を持たせることはできないだろうから、福田政権が続くとしてもジリ貧状態に変化はなく、逆に選挙に敗れて麻生に総裁交代と言うことなら、安倍が遺して福田政権が受け継いだ貧乏クジは総理大臣になれないまま麻生の手に渡り、捨てる術もなく後生大事に守ることになるだろう。

 貧乏クジ拝領のスタート地点となるかどうかの麻生幹事長就任である。

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