「毎日jp」記事≪森元首相:TVで「次は麻生さん」≫(2008年8月18日 東京朝刊)が次のように伝えている。
<自民党の森喜朗元首相は17日、テレビ朝日の報道番組で、麻生太郎幹事長について「福田康夫首相の無味乾燥な話より、麻生さんのような面白い話が受けるに決まっている」と述べた。その上で「わが党も麻生人気を大いに活用しないといけない。『次は麻生さんに』の気持ちは多いと思う。私も、もちろんそう思っている」との考えを示した。
衆院解散・総選挙の時期に関しては「我々がとやかく言うことではないが、来年9月まで任期がある。それを無駄にしてはいけない」と述べ、急ぐべきではないとの考えを強調した。【近藤大介】>・・・・・・・・
「次は麻生、次は麻生」だと公には口にしているが、国民の見えない、いわば密室性を持たせた場所での政治屋的駆け引きで麻生決定に持ち込もうとしている。さすが密室で生まれた元首相だけのことである。
福田首相の話が「無味乾燥」なのは福田政策が「無味乾燥」だからで、政策自体が一般国民に興味津々の関心を与えるものであったなら、少しぐらい話が無味乾燥でも、それを補って国民の期待を高めることができる。支持率が下がっていると言うことは政策が国民にとって「面白」くない結果であって、話自体が「面白い・面白くない」で片付かない問題であろう。
いわばいくら話が面白くても、政策が伴わなければ結果として面白くとも何ともない。
当然、麻生の話が例えどのくらい面白くても、政策が伴うかどうかにかかってくる。国民はその辺のところをきちっと見極めなければならない。麻生の話だけが面白いのか、政策自体が面白いのか。
例えば麻生幹事長は問題となった太田農水相の「消費者はやかましい」発言を取り上げて、「関西以西の人は『やかましい』とみんな言う。『あの人はワインにやかましい』というのは普通の表現だろう」、「『選挙にやかましい』と言ったら、うるさい、詳しい、プロ。そういったものをみんなやかましいと言う」(asahi.com/2008年8月19日22時17分)との自説を展開して擁護したと言うことだが、確かに「やかましい」の言葉には「うるさい」と言う意味以外に、「広辞苑」(岩波書店)が「好みがむずかしい」、「大辞林」(三省堂)が「自分の趣味に固執してあれこれ言い立てるさまである。好みがむずかしい。」と解説しているように、一つの事柄・物事に関してその人なりの他に譲らないなかなか難しい意見を持っている、うるさい意見を持っているといった個人性を言う場合に「やかましい」の言葉を「関西以西」でなくとも当てるから(私自身は静岡県生まれのオッパッピー)、「あの人はワインにやかましい」とか「選挙にやかましい」といった言葉も方言ではない「普通の表現」として存在している。
だが、太田誠一靖国国家主義者は「ワインにやかましい」、「選挙にやかましい」といった個人性と同じ文脈で「消費者としての国民がやかましくいろいろ言う」と言ったわけではないだろう。個人性の問題であるなら、「中国のように、基本的には何も教えなくてよい、まずいことがあっても隠しておいてよい、消費者のことを考えないでもよいという国とは違」うといった個人性と離れた国家体制を消費者の要望に「応えざるを得ない」条件とする必要は生じない。
大体が「食の安全」、あるいは「食の確保」、「食の価格」等の問題は個人性として抱えている問題、あるいは個人性で片付けていい問題ではない。
麻生が例の言葉を引きずるようなしわがれ声で「関西以西の人は『やかましい』とみんな言う。『あの人はワインにやかましい』というのは普通の表現だろう」と面白おかしく言おうとしたとしても、ただの身内庇いから出たこじつけに過ぎない。
桃から生まれた桃太郎ならぬ密室から生まれた森密室太郎元総理にしたら、麻生の創氏改名は日本人の朝鮮人差別から「名字をくれ、といったのがそもそもの始まりだ」も「面白い話」のうちに入るのだろう。
麻生の「独断と偏見かもしれないが、私は金持ちのユダヤ人が住みたくなる国が一番いい国だと思っている」も、散々アジア人差別、朝鮮人差別を展開し、その残滓を今以て残しておきながら、「(日本には)人種差別がない」も「面白い話」として森の頭は記憶しているに違いない。
森喜朗が密室で生まれた元首相だとの名誉ある尊称付与の由来は第18回参議院議員通常選挙敗北の責任をとって辞任した橋本龍太郎の後継首相に小渕恵三が1998年(平成10年)7月就任。2000年4月1日、連立与党を組んでいた自由党との連立が決裂。午後7時52分からの共同インタビューで答弁が途切れる等の言語障害を発生後、4月2日早朝の1時過ぎ緊急入院。病因は脳梗塞。
4月2日P.M 7:00頃
青木官房長官、医師から説明を受け、病室で小渕と二人きりで会う。
4月2日P.M 7:30頃
容体急変
4月2日P.M11:30頃
面会4時間後の青木官房長官記者会見。
記者「総理の意識ははっきりしているのか」
青木官房長官「そこまで私は承知していません」
記者「顔色はどうだったか?」
青木官房長官「そんなことはいちいち私も医者でないので分かりません」
直接見舞ったのである、意識がはっきりしているかどうか、医者からも説明があっただろうし、付き添っている家族からも具体的な意識状況を聞かされるだろうし、顔色がどうか、自分の目で確かめもしているはずである。いわば正直には答えられない病状にあったということなのだろう。心配する程の症状であったなら、誰だって正直に答える。
ところが、4月3日午前の記者会見になると、
青木官房長官「4月2日、私が見舞ったとき、小渕総理から『有珠山噴火対策な
ど、一刻もゆるがせに
できないので、検査の結果によっては青木官房長官が臨時代理の任につくように』という指示を受け
た」
――「総理の言葉はきちんとしていたのか」
青木官房長官「うん、私がお会いした時点では、はっきりしていました」
――「ろれつが回らないことはなかったか」
青木官房長官「いや、そういうことはありませんでした」
5月15日の『朝日』記事によると、
治療の中心的立場だった水野美邦・教授(脳神経内科)(青木官房長官が面会したときの小渕首相の意識状態に関して)「日本式昏睡尺度(JCS)で2から3。( うとうとする)軽い傾眠の傾向があるが、大きな声で呼びかければ応じられる程度」
医師団は「可能だったのは、相づちを打つとか、相手の言っていることを理解してうなずく程度だったのではないか」・・・・・・
当時自民党は青木幹雄・村上正邦参院議員会長・野中広務幹事長代理・亀井静香政調会長・森喜朗の5人が権力を握っていて、その5人だけの密室的会合で、後に財団法人「ケーエスデー中小企業経営者福祉事業団」(KSD)の創立者古関忠男が進めていた「ものつくり大学」設立に便宜を図った見返りに総額5,000万円の利益供与を受けた収賄の罪で有罪判決を受けることとなった村上正邦が森喜朗の「麻生さんのような面白い話が受けるに決まっている」と同根の「うまいものばかり食っていてでっぷり太っていて貫禄があっていい」とまで言ったかどうかは分からないが、森喜朗に「次はあんたがやればいい」と言ったことから森に次期総理の白羽の矢が立ったという。
と言っても、青木幹雄と森喜朗は早稲田大学雄弁会の幹事長と副幹事長の親分と子分の関係にあったというから、青木自身の口から推薦できないと言うことで村上正邦に言わせたとしたら、村上は決まっていたことをただ単に口に出して言って決定事項の形式を取ったということになる。それくらいのことは平気でする鉄面皮な連中であろう。
要するに自分たち5人だけの密室談合で森を次と決めるためには小渕首相が意識不明だと都合が悪いから、話しもしない、話せるはずもない有珠山噴火対策の話をデッチ上げて先ずは小渕首相が意識がはっきりしていたことの状況証拠とした上で、次に青木が自分が官房長官の地位にあることをいいことに小渕自身のはっきりとした意識の元の要請という形で自身を「臨時代理の任」に就かせて、最後の仕上げとして「臨時代理」を間に置いた小渕から森へとの間接的“禅譲”を行ったといったところではないのか。
森喜朗はそのとき密室劇の味を満喫したはずである。当然のこと、総理・総裁就任が密室での決定事項だったことに何の抵抗感も持たなかった。一度味を占めた(「一度経験したことのうまみや面白みを忘れない」『大辞林』三省堂)ことで、密室劇、あるいは密室談合に対する免疫ができた。
いわば森喜朗は密室的政治決定を己の血とし肉とすることとなり、政治上の行動様式に於ける自らの文化・伝統とするようになった。元々素地として持ってもいたのだろう。
文化・伝統とした行動様式はいつでも目覚める状況にある。安倍政権下での昨年の参院選で民主党に大敗を喫して与野党逆転状況を許し、福田政権となったものの支持率低迷状況から抜け出せず、間近に迫っている次の総選挙で政権の座を民主党に奪われかねない危機的状況に立たされ、選挙に勝てる総裁が必要という切羽詰った絶対条件が必要となったとき、自らの政治上の文化・伝統としている密室的行動性が麻生の人気を自民党政権維持の打ち出の小槌にしたいなり振り構わない無節操なご都合主にも促されて目覚め、「次は麻生」へと向かわせたといったところではないのか。
森密室太郎センセイ、「次は麻生だ」を口にしては自らのその言葉に励まされて、赤坂の料亭といった国民の目が届かない密室で誰彼となく会合を重ねて、麻生総裁に向けて得々と根回しの陰謀を重ねては免疫と化した密室劇の血をたぎらせているに違いない。
森喜朗如きハッタリと駆け引きだけの政治家が首相経験者・党の実力者としてのさばっている日本の政治状況と日本が先進民主主義国家であることとの関係はどのような逆説の上に成り立っているのだろうか。