戦前の「鬼畜米英」、「勝つまで贅沢は言いません」並みに全国的に湧き起こった「学力低下」の有難くもおどろおどろしい大合唱を受けて、「学力低下」の引き金授業時間減数の誘因元凶「ゆとり教育」・「総合学習」を昨日の味方は今日の敵と看做し、授業時間増加を手段とした「学力強化」を今後の学校教育の獲得戦果目標の課題とすることとなった。
経済協力開発機構(OECD)が2000年から3年ごとに実施している国際学習到達度調査(PISA)で回を追うごとに日本の成績が「科学的応用力」、「数学的応用力」、「読解力」のすべての試験項目で順位を下げる「学力低下」を印象付ける結果を招くこととなったが、日本の場合の受験対象である高校1年生が詰め込み教育の弊害から唱導されることとなった「ゆとり教育」で育った世代であったことが、「ゆとり教育」とそれと密接に関連し合った「総合学習」が「学力低下」の原因とされるといったことも原因している「学力強化」策であろう。
当然のこととして授業時間を増加した分、そこに込める「学力強化」に効果ある授業方法をどうするかの問題が発生する。
その方法とは教科書の分量(ページ数)を増やすことらしいが、このことについては「日本の教科書は随分中身が薄い」との福田首相の指摘もあったという。
「毎日jp」記事≪教育再生懇:国・理・英「ページ数を倍に」 自習向けの教科書求め--改革案≫(2008年7月29日 東京朝刊)が計8カ国で比較した中学2年の数学教科書では米国は651ページ、フランスは256ページ、イギリスは248ページで日本は211ページで第7位だとのこと。オリンピックで言えば、日本新記録を更新したが、遥か金メダルには届かなかったと言ったところか。
勿論、「日本の教科書は中身が薄い」から中身を厚くしようということだけではハコモノで終わる。児童・生徒に学び応えを提供するところまで行かなければ、インスタント焼きそばの「+増量100グラム」といった食べ応えを提供するサービスにも劣ることになりかねない。
と言うことなら、従来の教科書が児童・生徒に学び応えを与えてきたのだろうかの検証も必要になる。いや、教科書だけではなく、教師の教え自体が児童・生徒に学び応えを与える教えだったかどうかの検証も必要になるだろう。
上記「毎日jp」記事でも触れているが、安倍晋三前国家主義首相の「教育再生会議」を受け継いだ福田「教育再生懇」(座長・安西祐一郎慶応義塾長)がインスタント焼きそばの「+増量100グラム」といった食べ応えに相当するプラスの学び応えを児童・生徒に提供する方法として、教科書を厚くすると同時にその教科書を授業に於ける「主たる教材」であると位置づけていたことを超えて、「自学自習に適した教科書」への転換を目指す素案を示したと「asahi.com」記事≪教科書ページ、倍増提案へ 教育再生懇「自習にも対応」≫が伝えている。
具体的には「1人で読んでも理解できるよう丁寧な記述」とし、算数・数学では練習問題、国語や英語では古典や文豪の名文、英字紙の引用などを増やすことを提言、その上、現在は文部科学省の指針で学習指導要領の範囲を小中学校で教科書全体の1割、高校で2割を上限として超えることを容認していた「発展学習・補充学習」の上限を撤廃し、自由に行えるようにすることと外国の教科書との比較分析など、研究体制を充実させる方針も盛り込んだとのこと。
これまでは小中学校で教科書全体の1割、高校で2割を上限として学習指導要領の範囲を超えて教科書の内容を「発展・補充」させる学習が許されていた。その「上限撤廃」は全面的に教師の才能に任せることを意味することになる。「発展学習・補充学習」とはどのような授業形式なのか、単語の意味からある程度想像がつくが、具体的な知識がなかったから、インターネットで調べてみた。
「発展学習とは,適用範囲を広げたり,身の回りの類似事象に応用したりする学習である。補充学習とは,学習形態・教材・支援の仕方などが工夫された繰り返し指導のもと,基礎・基本の確実な定着を図るために行う学習である。」(『学習指導の改善をめざす小学校算数科の目標に準拠した評価の在り方』)と出ていた。
と言うことなら、「上限撤廃」はある意味、教科書を厚くすることと逆行する措置とはならないだろうか。教師に「発展学習・補充学習」を行う能力が十分にあるなら、書いてある内容が少なく、その結果ページ数が少なくて教科書自体が薄くても、あるいは教科書の内容自体が少しぐらい軽量であっても、教師が制限を受けることなく少ない記述・少ない知識を補って「発展・補充」させ、児童・生徒に学び応えのある教えを提供可能となるからだ。
またゆとり教育に対応し、詰め込み教育から距離を置くために教科書を薄くしてきた間も小中学校で教科書全体の1割、高校で2割を上限として教師は学習指導要領の範囲を超えた「発展学習・補充学習」が可能だったのだから、教科書の薄さ、それが例え教科書の内容の軽量を表裏一体とさせていたとしても、やはり少ない記述・少ない知識を補って基本のところで基礎学力、基礎応用力を児童・生徒に伝え得たはずである。
だが、「学力低下」を叫ぶ者たちは同時に「基礎学力の大切さ」を訴えて、「基礎学力」の植え付けこそが「学力低下」の最大の防御策だと位置づけている。
この「発展学習・補充学習」の展開と比較した「基礎学力の欠乏」は何を意味するのだろうか。教科書を厚くし、その分内容を充実させたとしても、あるいは学習指導要領が命じている制限を撤廃して「発展学習・補充学習」が自由に行うことができたとしても、教師自身が「発展・補充」する授業能力を備えていなかったなら、これまで同様に「基礎学力」の育みに多くは望めないだろうし、当然の成り行きとして「基礎学力」から一歩も二歩も出た「創造的学力」(=創造性)獲得への期待はさらに少なくなる。
大体が「自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てる」を狙いとした「総合学習」自体が教師がその能力がなく成し得ていなかった「発展学習・補充学習」を補うべく児童・生徒自身に「自発的学び」を期待した側面も有した教育方法ではなかったのではないだろうか。
いわば教師側が「発展・補充」する教育を可能としていたなら、児童・生徒の側も教師の「発展・補充」の教えの姿勢を学んで、自らも「発展・補充」の自発的な姿勢を身につけていくだろうから、わざわざ「総合学習」と銘打って「自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てる」をスローガンとする必要もなかったはずである。
ところが文部省あるいは文科省は「総合学習」を打ち出して児童・生徒に対して「自発的学び」の能力の植え付けを策した。教師自身が「発展学習・補充学習」の能力を有していない疑いがあるにも関わらず、児童・生徒に対して教師の能力と矛盾する能力を要求したのである。
だが、「自学自習」は「自ら学び、自ら習う」の意味だから、「自発的学び」を姿勢とすることで可能となる。いわば「自学自習」も「総合学習」も名称は違っても、自発性を導き出し、それを植えつけることを主眼とした教育であって、基本構造は相互に通底しあって、さしたる違いはない。
基本構造に違いがないということなら、「自ら学び、自ら習う」「自学自習」の先に「自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てる」「総合学習」への方向を必然的に結果とするはずであるし、その逆も可能となる。
そしてここへきて「学力低下」、「基礎学力の植え付けの必要性」、「国際的に見て日本の教科書は薄い」等を理由に福田「教育再生懇」は教科書を厚くし、教科書の中身を「1人で読んでも理解できるよう丁寧な記述」にして「自学自習に適した」ものとすることで「総合学習」で目的としたのと同じことを実施しようとしている。
だがである、「総合学習」も「自学自習」も「自発的学び」、あるいは自発性を前提としている以上、教科書が「1人で読んでも理解できるよう丁寧な記述」を施してあったとしても、児童・生徒がそれぞれに「自発的学び」の姿勢、自発性を獲得していなければ、獲得していなくても、そういった姿勢を取ることができなければ、教科書にお膳立てしてあるお仕着せの知識をなぞって暗記するだけで、「1人で読んでも理解できるよう丁寧な記述」がしてある分、暗記しやすいメリットを与えてくれるものの、「総合学習」で成功していないのだから、書いてある知識を他の知識と組み合わせて膨らませて発展させ、自身の考え、自分独自の知識とする「自発的学び」、自発性を見ることなく、あるいは「総合学習」で言うところの「自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する」「自発的学び」・自発性の獲得だけではなく、その地点から始まる創造性への発展もなく、「自学自習」にしても、その成功は覚束ないものとなる。
こう考えてくると、教科書が厚い・薄いはさして問題ではないことになる。問題は「自発的学び」の姿勢である。学ぶことに対して、児童・生徒がそれぞれ如何に自発性を発揮できるかにかかっているかが重要な問題点と言える。教師自身が教科書の知識を「発展・補充」する才覚もなく、「教師用指導書」を参考にして教科書に書いてあることをなぞって児童・生徒に伝えるだけなら、児童・生徒もそのような知識授受の形式を見習って教師が伝える知識をなぞって頭に暗記するだけで終わることになるだろう。「暗記」と言う形式自体が「なぞり」を基本構造としていることは断るまでもない。
「総合学習」が絵に描いた餅で終わったように、「自学自習」も絵に描いた餅の同じ運命を辿ることになる可能性大のように思える。
教師は教えることをやめるべきである。教えることをやめて、児童・生徒に考えさせる授業を目指すべきだろう。そうすることによって暗記教育から脱却可能となり、児童・生徒は自分から考えなけれがならないこととなって、否応もなしに「自発的学び」、自発性を身に着けざるを得なくなり、「自学自習」、「自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する」「総合学習」の知識獲得に向かうはずである。既に触れたように、「創造性」への道はそこから始まる。