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親子の断絶が天皇家にまで忍び寄る国民統合の有名無実化

2008-02-14 10:32:19 | Weblog

 宮内庁の羽毛田長官が皇太子が昨年の2月の記者会見で「愛子が両陛下と会う機会をつくっていきたい」と発言しながら、天皇家の一員である立場にあるまじく、その発言を裏切って会う機会が増えていない、発言したからには実行を伴わせるべきだといった趣旨の異例の発言を昨13日(08年2月)の定例会見で行ったそうだ。国家の行事に関わることではなく、天皇家内の個人的な問題である。会おうと会うまいと「そんなの関係ねえ。オッパッピー」の余計なお世話ではないか。

 日本国憲法――第1章天皇、第1条天皇の地位は次のように規定している。「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」

 「総意」は国民の意識の総体としてある社会意識をも反映して形成されるはずだ。戦後暫くは侵略戦争の首謀者として天皇反対の大合唱が起きたが、それも国民の意識の総体としてあった社会意識が向かわせた天皇アレルギー現象だったはずだ。

 日本社会に於ける親子関係はその断絶が言われて久しい。親子関係は世代間関係をも意味するから、世代間断絶が言われて久しいのも親子の断絶の等式としてある当然の帰結でもあろう。また少子化による人口バランスの悪化で様々な悪影響が出ているし、今後とも悪影響は拡大していくことが予想される。

 社会の混乱も悪化状態にある。経済格差・収入格差、都市と地方の格差。3万人を越える年間自殺者は年を追うごとに増えている。生活保護世帯も増加の一途を辿っている。かくこのように日本の社会はとどめようもなく荒んでいく方向に進んでいる。

 いわば国民自身も社会自体も「統合」状態にない。尤も卵と鶏の関係と同じで、社会が不統合化したから、国民の意識が不統合化したのか、国民意識が不統合状態にあったから、社会も不統合化していったのかという問題になるが、多分相互反映による不統合への増殖と進行ではないか。

 国民自身も社会自体も「統合」状態にないということなら、「不統合」の国民の「統合の象徴」とは背理そのものであるから、現在の天皇は実質的には「日本国民不統合の象徴」へと変質を余儀なくされていて、「統合の象徴」は有名無実化していると言わざるを得ない。

 また社会意識に反映している社会不統合・国民不統合の象徴的事象である親子間の断絶が「国民統合の象徴」たる天皇家にも反映し、天皇家自身の親子間の断絶を演じさせたとしても不思議ではない。国民不統合の意識が醸し出す日本社会の空気を同じように吸っているからだ。

 羽毛田長官が言っていることは、子供が外国に留学したい希望を持ちながら、親がそれを許さないことによって生じた親子関係の断絶と等しく、皇太子が雅子共々自由に外国を訪問したい希望を持っていたにも関わらず、それを制約されていることからの天皇との間に生じた親子断絶であって、前者・後者共に社会意識を受けた現象であろう。

 皇太子が雅子病気のために単独訪問となる04年5月12日からのデンマーク、ポルトガル、スペイン3カ国訪問を控えた前々日の午後、東京元赤坂の東宮御所で記者会見している。

 皇太子「招待をお受けすることができなかったことを、心底残念に思っています。殊に雅子には外交官としての仕事を断念して皇室に入り、国際親善を、皇族として大変な重要な役目と思いながらも外国訪問をなかなか許されなかったことに、大変苦悩しておりました」

 この記者会見の皇太子の態度に対して秋篠宮は同年11月30日の39歳の誕生日の記者会見で次のように述べている。

 「少なくとも記者会見という場で発言する前に、せめて陛下と内容について話をした上での話であるべきではなかったかと思います。残念に思います」

 「私個人としては、自分のための公務はつくらない。自分がしたいことが公務かどうかはまた別で、公務はかなり受け身的なものと考えています」――

 秋篠宮は「記者会見という場で発言する場合は陛下と内容について話をした上で話すべきだ」と言っている。いわば親の許可を得て発言しろと。いくら天皇家という立場があったとしても、親の支配を受けた30、40になる子供の発言とは如何に天皇とその一族が自律的存在ではないことを物語って有り余る。「受身」の存在として徹しろと言っているのである。

 当然、秋篠宮の「自分のための公務はつくらない」なる発言も前以て親である天皇の許可を得たものと把えなければならない。

 つまり「自分のための公務は作らない」、「受身」の存在で徹しよは秋篠宮一人の意思ではなく、天皇の意思でもあり、それが皇太子の「受身」であることを否定する自由な外国訪問意志を制約しているとしたら、天皇と皇太子の親子間断絶は社会意識的な親子間断絶と響き合う当然の現象とも言える。

 「国民統合の象徴」と言えども、所詮天皇はいくら国民に敬愛されていたとしても「象徴」、いわば形式に過ぎない。それは既に述べたように「国民不統合」・「社会不統合」の「統合の象徴」であることの矛盾が証明している。

 また皇太子が「愛子が両陛下と会う機会をつくっていきたい」と言いながら実際行動を伴わせなくても、象徴たる存在の天皇家に所属する皇太子としてその約束を同じく「象徴」に終わらせただけのことで、「国民統合の象徴」が国民不統合・社会不統合の現実に反した「象徴」で終わっていることから比べたら、取り立てて問題にすることではないだろう。

 いずれにしても天皇は「象徴」に過ぎない。皇太子以下もそれに準ずる。皇太子の発言を問題にするよりも国民に具体的且つ直接的な責任を負う国家的責任主体である総理大臣の発言・公約(=国民との契約)の「象徴性」を問題にしなければならない。

 例えば宙に浮いた年金記録の「統合」を今年の3月までに完遂すると前内閣からの約束として受継いでいなければならないはずが、福田首相は参院で「公約でしたっけ?」と公約を有名無実化の象徴に終わらせている。野党から公約違反の批判を受けても「公約違反というほど大袈裟なものなのかどうかねえ」と国家的責任主体であることを忘れた空とぼけようであった。

 国民に対して同じ責任を抱えている所管大臣の桝添にしても「作業はエンドレスだ。できないこともある」、参院選の「選挙戦をやってきたときで、意気込みでなんとしてもやるぞと私も安倍前首相も言った。やり方が悪かったわけではない」と選挙対策でしかなかったことを暴露して「やり方が悪かったわけではない」と開き直るだけ、「公約」を「象徴」に祭り上げて平然としている。

 ここで断るまでもなく、我々は天皇家の個人的な問題に過ぎない約束事に目を奪われるのではなく、国家的責任主体の公約(=国民との契約)の象徴化・有名無実化にこそ目を向けなければならない。

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