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「でも、そんなの関係ねえ!」肝炎リスト放置責任・不作為責任

2007-12-04 18:33:24 | Weblog

 今年の流行語大賞に宮崎県の東国原英夫知事の「どげんかせんといかん」と高校生ゴルファー石川遼選手の愛称「ハニカミ王子」が選ばれたということだが、東国原そのまんま東の「どげんかせんといかん」は現在の志願兵制となっている日本の軍隊自衛隊を「徴兵制」に変えるべく「どげんかせんといかん」ということも含んでいるのだろうか。

 大賞には選ばれなかったが、お笑いタレント小島よしおの「でも、そんなの関係ねぇ!」や、メイキャップアーティストのIKKOの「どんだけぇ~」等がトップテン入りしたという。

 血液製剤フィブリノゲンでC型肝炎に感染した可能性がある患者418人のリストを、「当初は存在しない」と5年以上も地下倉庫に眠らせておいた歴代幹部の放置責任・不作為責任を「でも、そんなの関係ねえ!」と不問に付す厚生労働省調査プロジェクトチームの調査結果最終報告が発表された。

 その理由を中日新聞のインターネット記事≪肝炎調査報告 欠落した患者の視点≫(07.12.3)は次のように伝えている。

 <従来の肝炎対策を見直すためのもので、患者への告知が目的ではなかったと厚労省の説明を追認したうえ、治療に当たる「医師が直接告知すべきだ」「当時の調査チームに責任があるとはいえない」>

 この厚労省調査チームの結論に対する同「中日」記事の批判。

 <一般的には医療機関から製薬企業を通じ厚労省に報告される副作用情報は、広く医療機関全体に注意喚起するためのものであり、個々の患者への告知を想定したものではないだろう。だが、厚労省には国民の命を守る責務があるはずだ。
 〇二-〇四年に厚労省は、フィブリノゲンを投与されたと思われる患者に対し、検査を受けるように広く呼びかけていた。そのとき既に個人が特定できる情報を入手しながら「医師が告知すべきだ」では通らない。報告書は厚労省の責任逃れにお墨付きを与えているだけである。
 厚労省は医療機関に対し、患者へ告知するよう働きかけることができたはずだ。報告書はこうした厚労省の不作為についてもっと責任を追及すべきだった。
 厚労省は、今回のPTとは別に四百十八人について告知の状況などについての調査検討会を設ける考えだが、順番が逆だろう。告知状況を調査したうえで厚労省の責任を判断する必要があったのではないか。>

 「従来の肝炎対策を見直す」作業の中に「患者への告知」は入らないのだろうか。年齢別・性別・職業別(肝臓への負担は重労働か軽労働かでも違ってくるだろうから)の発症の有無・程度、発症している場合は薬剤投与から副作用発症までの時間の違い・平均時間、初期・中期・後期それぞれの症状、特に重要なのは症状に対する医師の診断の的確性(病名を間違えて病気自体を進行させてしまったという例も多々あるだろう)、それらの追跡調査を行って得た全般的な副作用知識を基礎材料に加えなければ、「見直」し作業が新たな危機管理の体裁を取るためには十分な内容を備えないのではないだろうか。

 追跡調査で得た知識自体が危機管理を補う材料となるからなのは言うまでもない。追跡調査をするとなれば、当然「告知」を伴う。

 初期的には「患者への告知が目的ではなかった」としても、「従来の肝炎対策を見直すため」が目的なら、見直し作業の過程で「告知」は避けて通れない手続きとなるということである。

 それをせずに責任なしとするのは、要するに責任逃れの詭弁に過ぎない。

 「でも、そんなの関係ねえ!」「そんなの関係ねえ!」・・・・ 

 「関係ねえ!」は当然の展開であろう。責任を取らない民族なのだから。戦争責任も取らなかったし、従軍慰安婦問題では「当時は従軍慰安婦という言葉はなかった」と詭弁を使ってまで、その責任を認めようとしなかったし、その存在自体を認めざるを得なくなると、「行きたくはなかったが、行かざるを得なかった」といった「広義の意味での強制性」からの従軍慰安婦は存在したが、「官憲が家に乗り込んで連れて行った」といった「狭義の強制性」は存在しなかったとする新たな詭弁で否定派の代表選手、薄汚い安倍晋三は現在も責任を認めようとしていない。

 「南京虐殺」も当初は存在しないという歴史認識を日本政府及び加担者たちは広言していたが、日本軍の南京虐殺を克明に綴ったドイツ人ラーベの日記が発見されるに及んで認めざるを得なくなった。にも関わらず、虐殺数が正確ではない、もっと少なかなったはずだと数を少なくすることで事実を矮小化する「でも、そんなの関係ねえ!」の責任逃れを発揮してもいる。

 中国人強制連行にしても当初は「強制だったかどうかは分からない」を公式の態度としていたが、ないとしていた資料が東京華僑総会(東京・銀座)に保管してあったことが判明、当時の羽田内閣の柿沢外相を通して「強制連行を公式に認める」に至った。だが国の責任となると、賠償請求権が消滅する20年の期間(除斥期間)を過ぎているとか、国家賠償法が施行された1947年以前の国の行為の責任は問えないとする「国家無答責」を楯に「そんなの関係ねえ!」を死守している。

 他の薬害問題でも、公害病でも、政府が自ら率先して潔く責任を認めた事例があるのだろうか。最近では社保庁の年金記録ずさん管理の問題でも検証委は幹部の個人責任を「そんなの関係ねえ!」と不問に付している。

 日本政府にとって「そんなの関係ねえ!」は2007年の今年に限った流行現象ではなく、日本の歴史・伝統・文化としている「そんなの関係ねえ!」の無責任体質であろう。

 お笑いタレント小島よしおが「でも、そんなの関係ねえ!」が07年流行語大賞を取り逃がしたのは、海パン一丁の裸でパフォーマンスを繰り広げる姿が品がない、卑猥な印象を与えて破廉恥だとしたからなのではないだろうか。海パン一丁のすぐ下に隠しているペニスをいやでも想像させるし、「そんなの関係ねえ!」は投げやりな不真面目さの表現以外の何ものでもないと見たのではないのか。

 だが、日本の政治家・官僚・企業の「そんなの関係ねえ!」の無責任体質の品のなさ・破廉恥から比べたなら、小島よしおの品のなさ・破廉恥は「そんなの関係ねえ!」としなければならないちっぽけな問題と化す。

 大賞を取った東国原の「どげんかせんといかん」も石川遼の「ハニカミ王子」も真ともすぎるくらい真ともでどこにも毒が一切なく穏当過ぎることが、それと比較した卑猥な印象、不真面目な小島よしお的パフォーマンスを逆に排除したことを窺わせる

 無責任体質が日本の歴史・文化・伝統だとしても、07年の今年は特に異常なまでに無責任体質が噴出した年である。政治家の政治とカネ、官僚の不作為・怠慢・怠惰・不正、企業の製品の偽装・偽造・欠陥に関わる不正等々前年から、あるいはその前から引き続いて跡を絶たなかった。 

 流行語大賞が単に流行して一つの世相となったという基準で選ばれるとしても、その言葉が関係する人間のみを映し出して、世相そのものを逆照射しないとしたら物足りないものとなる。

「どげんかせんといかん」は地方の切実な言葉として世相を反映してもいるし、その言葉から地方の様々な窮状を逆に映し出しもするが、社会全体の状況を示しているわけではない。

 また「どげんかせんといかん」という言葉を待つまでもなく、沈没していく地方を、あるいは疲弊していく地方をどうにかしなければならないという切実な訴えは解決すべき喫緊の課題として何年も前から言われていたことで、それを単に宮城弁に置き換えたに過ぎない。

07年という年に中央も地方も関係なしに、また官と民関係なしに社会全体に亘る世相として無責任現象が特に噴出したことを考えるなら、より優れている世相反映の言葉として、また言葉から世相を逆照射可能の関係式を持っているということから、「でも、そんなの関係ねえ!」が選ばれるべきではなかったろうか。

 小島よしおが出演するテレビ番組を常に追っかけているわけではないから、既に演じているかもしれないが、政治家・官僚の日常普段に発する言葉を取り上げて、最後に「でも、そんなの関係ねえ!」とやったら、もっと受けるのだがと思っている。既に演じているのだろうか。

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