科学的応用力育成に体感学習のススメ

2007-12-06 07:49:59 | Weblog

 06年実施OECD学習到達度調査(PISA)結果公表を受けて
 
 03年の成績と比較(OECD平均を500点としているとのこと)すると、

 数学的応用力――6位→10位(523点。前回比-11点。1位の台湾と26点
         の開き)
 科学的応用力――2位→6位 (531点。前回比-17点。フィンランド比-
         32点)
 読 解 力 ――14位→15位(498点。前回比±0。参加国増加のため下
         げる)

①数学的応用力では、高得点の生徒の割合が低下し、得点上位5%に位置す
 る生徒の得点が前回に比べ23点下がるなど、得点上位層が落ち込んだ。
②OECDが「生産的活動に従事していける」とする習熟度に満たない生徒
 の割合は依然10%を超えており、フィンランドの倍となっている。
③科学的応用力では、意識調査も合わせて実施されたが、30歳時に科学に関
 連した職に就いていることを期待すると答えた生徒の割合は8%にとどま
 り、OECD平均の25%を大きく下回った。

 以上≪日本の高1、理数も不振 OECD調査≫(07.12.5.中日新聞インターネット記事)

 結果に対する対策を同じ12月5日の『朝日社説』は提言している。全文の引用。下線と○数字は筆者)

 ≪社説 「国際学力調査」 考える力を育てるには≫(07.12.5.『朝日』朝刊)

 <二酸化炭素の排出量と地球の平均気温という二つの折れ線グラフを見せ、ここから読み取れることを書かせる。
 そんな問題が並んでいるのが、経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査(PISA)である。学校で習った知識をどれだけ覚えているかではなく、知識の応用力や論理的に考える力を問うのだ。対象は15歳で、日本では高校1年生が参加している。
 06年の結果によると、OECD加盟国以外も含めた57カ国・地域の中で、日本は科学的な応用力で6位、数学的な応用力で10位、読解力で15位だった。
 最初の00年、前回の03年に比べると、順位はいずれも下がっている。参加国が増えており、単純には比較できないとはいえ、学力低下に歯止めがかかっていないことは間違いない。
 PISA調査といえば、03年に数学と読解力が大幅に順位を下げ、学力低下の論議を一気に高めた。文部科学省は導入して間もないゆとり教育を見直し、国語や理科などの授業時間を増やして総合的な学習を減らすことにした。
 問題はこのカジの切り方でよかったかどうかである。
今回の結果からは、日本の子どもの特徴について二つのことがいえる。
 まず、①フィンランドなどの上位の国と比べると、学力の低い層の割合がかなり多いことだ。この層が全体を引き下げている。これまでも様々な調査で、勉強のできる子とできない子の二極化が深刻な問題と指摘されていたが、底上げの大切さが改めて示されたわけだ。
 もう一つは、②科学では、公式をそのまま当てはめるような設問には強いが、身の回りのことに疑問を持ち、それを論理的に説明するような力に弱い、ということだ
 併せて実施したアンケートを読むと、その原因は授業のあり方に問題があることがわかる。③理科の授業で、身近な疑問に応えるような教え方をしてもらっているかどうか。そう尋ねると、日本は最低のレベルだったのだ。
 自分で問題を設定し、解決方法を考えるという力に弱い。このことは科学の分野に限らないだろう。
 ④学力の底上げと応用力。二つの課題を克服するには、どうすればいいか
 一人一人の学習具合をつかみ、授業についてこられなくなったら、そのつど手助けする。落ちこぼれをつくらないためには、きめ細かな後押しが要る。
 ⑤応用力を育てるには、公式の当てはめ方など機械的に教えるのでなく、その論理を子どもたちに自ら考えさせる。そんな授業が求められる
 いずれも、十分な教員の数とともに、その質を上げることが必要だろう。
 単に授業時間を増やしただけでは、どうしようもないことは文科省も承知のはずだ。応用力が問われているのは、文科省もまたしかりである。>

 ①の「フィンランドなどの上位の国と比べると、学力の低い層の割合がかなり多いことだ」に対して、社説自身「一人一人の学習具合をつかみ、授業についてこられなくなったら、そのつど手助けする。落ちこぼれをつくらないためには、きめ細かな後押しが要る」とその対策を示しているが、これまでもやってきているが効果が上がっていない案件である。落ちこぼれの原因はサッカーや野球といったスポーツ偏重の時間の使い方をしている生徒の存在、親の収入格差から、学習塾などで学力を底上げできない生徒の存在が考えられる。

 将来スポーツで生活を立てていこうと夢を描いている生徒には学校の成績はさして重要ではないだろう。各種スポーツの選手を集めた高校は全国にいくらでもあるし、特待生の機会を生かす手もある。

 学習塾で予習・復習の機会を持てる生徒と塾に通わせてくれるだけの親の収入がなく、機会を持てない生徒では学校の授業での理解の速度に違いが出る。理解の遅い子に構っていたのでは、理解の早い子が次に進めないと不平を言う。その対策に成績別にグループ分けしたりクラス分けした場合、小学生のうちは機械的に受け入れていても、中学生にもなると虚栄心から優秀な生徒との差別に対する劣等感を持ち、その反発から間違った自己主張に走ったりして荒れる原因をつくり出すグループやクラスに姿を変えないとも限らない。

 それが小学校の高学年から始まるといった低年齢化を生じせしめてもいるのではないだろうか。学力向上に学習塾が深く関わっている以上、親の収入が子どもの教育格差につながる現象は一朝一夕には解決できない問題であろう。子どもの成績や学歴の決定権が大学卒業まで余裕を持って学費を支給できる親に恵まれるか否かにかかっているとは教育の機会均等と言うことからしたら、滑稽で皮肉な教育事情になっていると言える。収入のある親に恵まれた子どもが常に優位に立つことになる。

 情報社会である。親の収入が子どもの成績や学歴に強く影響するという情報を早くから自分のものとしていて,そのことへの反発から親の低収入を理由に最初から捨てている生徒もいるに違いない。問題の根は深い。

 ②の「科学では、公式をそのまま当てはめるような設問には強いが、身の回りのことに疑問を持ち、それを論理的に説明するような力に弱い」は、日本の教育が教師が与える知識を咀嚼もなくそのままの形でなぞって暗記する暗記教育となっているということだろう。断るまでもなく、暗記教育は思考のプロセスを欠くことによって成り立つ。思考作業は暗記教育にとって阻害要因以外の何ものでもない。

 逆説するなら、思考作業を排除することによって暗記教育は可能となる。だから、「身の回りのことに疑問を持ち、それを論理的に説明するような力に弱い」ということになる。

 教師が教科書に書いてある知識をそのままの形になぞって生徒に伝え、生徒が伝えられるままに同じくなぞって記憶する暗記式の知識授受は上が下を従わせ、下が上に従う権威主義の思考様式・行動様式に従ったもので、その抵抗のなさが教師と生徒共々に暗記教育に安住させる原因となっている。

 教師は生徒に考えさせる授業を行っていると言うだろうが、教科書や参考書から得た知識を生徒にそのままの形で伝えることから最終的な答は予め決まっている予定調和を前提とした、その範囲内の「考えさせる」であって、予定調和を突き破る発展的で独自な答を求める「考えさせる」でないのは「自分で課題を見つけて自分で判断し、自分で解決して生きる力とする総合学習」が根づかなかったことが証明している。

 教師が教科書や参考書の知識をなぞるのではなく、そこに自分自身の思考や判断を加えて知識を発展させるプロセスを踏んでいたなら、授業でそれを生徒に伝達する過程で自分が行ったと同じプロセスを生徒に求めるだろう。

 しかしそうはなっていない。そのことは「身の回りのことに疑問を持ち、それを論理的に説明するような力に弱い」と思考的応用力不足を課題だとする『朝日』が証明している。教師自身が自らの知識獲得の過程で自律的な思考や判断を加えることをしていないから、機械的に取捨選択した知識をそのままなぞらせることとなり、それを伝達する過程で生徒自身に自律的な思考や判断を求める授業の形式とならない。教師がそうだから、生徒もそうなるということである。そのことの指摘であろう。

 「朝日社説」は上記課題を先ず提示し、④「力の底上げと応用力。二つの課題を克服するには、どうすればいいか」と問い、その対策として、⑤「応用力を育てるには、公式の当てはめ方など機械的に教えるのでなく、その論理を子どもたちに自ら考えさせる。そんな授業が求められる。」と提案している。

 提案は今までできていないことをその原因を詮索するでもなく、これまで何度も言われてきたことをそのまま繰返しているに過ぎない。「そんな授業」とはどんな授業なのか、そことが知りたいのだから。

 松下政経塾25周年記念式典の行事として2004年9月27日応募締め切りの「2015年 理想の日本」をテーマとした論文募集に『2015年 理想の日本となるための学校改革』と題した一文で応募してみた。なかなか壮大な題名だが、壮大なのは題名のみで敢無く沈没した次第である。

 その最後で算数の「体感教育」を提案している。。但しそのときは「体感教育」とは名づけていなかった。最後の箇所を引用して、改めて「体感教育」という体裁で検討してみることにする。

 応募論文の全体的な内容は、自律(自立)した個人を基本的な活動単位として「世界の一員となる」ためには権威主義の行動様式・思考様式から脱出しなければならない。そのためには幼稚園や小学校のときから保母や教師が園児や生徒を知識伝達に於いても生活態度に関しても権威主義的に(=機械的に)言いなりに従わせるのではなく、自分の判断で思考し、行動できるように仕向けるために先ず暗記教育をやめなければならないとして、その具体的な方法を様々に提案している。

 「算数は小学校低学年の場合、計算の理解を助けるために教科書はリンゴ等の果物の絵を用いていて、教師も黒板に同じ絵を書いて説明するが、実物を用いるべきである。果物と包丁を用意して、2等分したり、3等分したりして、普通式から分数式まで理解させる。教材を実物とすることによって、授業に現実味を与えることができるからである。時間を分や秒に変えたり、その逆を行う計算は、実際に壁掛け時計を黒板の中央に吊るして行うこととする。
購入代金は学校が予算をつければいい。高学年となったら、幾何学から入る。現実世界に教材が事欠かないからである。例えば、学校の階段の実測した踏み段の奥行きの長さと蹴込みの高さから、勾配率を計算できるし、ピタゴラスの定理を用いれば、実測せずに見えない部分の斜の長さが計算でき、段数を掛ければ、同じく実測せずに階段全体の斜の長さが計算できる。全体の斜の長さが計算できたなら、蹴込みの高さ×段数を一辺とした階段の全体の高さを用いて、同じくピタゴラスの定理の応用で、簡単には実測できない階段全体の奥行きが計算できる。生徒の自分の家の階段を計算させて、発表させるのも、それぞれの家の階段の違いを知る知識にもつながる。
 その要領で、校庭の実測できないまでに生長した木の高さを陰との対比によって計算したり、学校の建物の高さを計算したりする。このように各々が自ら進んで学ぶようにする。もはや自律(自立)に近いではないか。このように学んだ生徒が世に出て、日本社会の権威主義性を薄める役割を担う。決して不可能ではない。」――

 ピタゴラスの定理は小学校高学年の授業には用いず、中学入学以降用いる課題なのかもしれないが、黒板にチョークで三角形の絵を書いて説明して計算を教える方法ではなく、教室から出て階段のあるところに行ってスケールを用いて底辺や高さ、斜の長さをそれぞれに実測し、実測したものを踊り場を黒板代わりにチョークで描き、説明し、生徒自身にも実測させていく方法を取ったなら、小学校6年生でも理解できるのではないだろうか。

 また教室の外に出て生徒一人一人にスケールを持たせてそこにある物を実測させ、実測値を使って計算させる全員参加の方法は親の収入や学習塾の影響を薄める力となるように思える。

 階段の最初の段の踏み板の長さ(=奥行き)と段の高さをそれぞれ実測させて、ピタゴラスの定理を用いて斜辺の長さを計算させ、その答と実際に計った斜辺の長さが一致するかどうか試させる。直線の階段の場合は階段全体がピタゴラスの定理にはまる三角形の構造となっていることを理解することができるだろう。

 教師の指示に従って自分たちが実測して階段の構造を学んだ場合、それ以降階段を上るとき、それが学校の階段であろうと百貨店の階段であろうと本屋の階段であろうと、一般的には無意識ではいられないはずである。この階段もピタゴラスの定理にはまる三角形の構造を取っているのだと意識したなら、その授業は成功したといえる。

 学んだことを他のケースに当てはめて考えた時点で既に応用力を働かせていることになる。エスカレーターに乗っても、三角形を頭に描いたり、ピタゴラスの定理を思いかべたりする生徒が出てくるに違いない。

 教科書では3階とか4階といった高い建物の高さを実測せずに計る方法として長さが分かっている短い棒を立てて、それぞれの影の長さから割り出す方法を取るが、説明として教科書にその絵が描いてあり、教師も黒板にその絵を描いて説明するが、実際に校庭に出て1メートルなら1メートルの棒をグランドに垂直に立てて、その影と校舎の影を生徒に実測させてピタゴラスの定理で割り出す方法を取るべきだろう。

 垂直かどうかは土木工事で使う水平器を使う。知らない生徒は水平器を使った垂直の取り方、水平の取り方を学ぶことになるだろう。

 答が出たなら、校舎が屋上を備えていたなら、生徒の半数を屋上に上らせて細いロープを1本ではなく、より多くの生徒が実際に行い、体感できるように何人もの生徒がそれぞれに地面に向かって垂らし、下の生徒がロープが地面についたところで合図を送って、上の生徒はロープの建物の頂点に位置する場所にビニールテープ等で印をつけて校庭に戻り、生徒全員でその長さを計って校舎の高さを割り出す。少々の誤差は出るだろうが、自分たちが実際に行うことによって、より確実に学んだことを身につけていくはずである。

 教師はこのような方法で他に計れるものがあるか、何か他に計りたいものがあるかを尋ね、答がすぐ出なければ宿題にして、生徒に考えさせるのも一つの方法だろう。この方法は社説が言う「自分で問題を設定し、解決方法を考えるという力」につながっていくだろうし「応用力」の勉強にもなる。

 影を用いるのではなく、伸縮可能な1本の棒ともう1本別の棒を用意して山の高さを図ることもできる。別の棒の横に1センチ四方の一辺に三角の切込みを入れた同じ大きさのプラスチック板を2枚、切込みを外側に向けて離れた位置に取り付け、その棒の一方を「始点」として地面に置き、片方を地面に垂直に立てた伸縮棒の先端に載せる。垂直の棒とプラスチック板を取り付けた棒と地面は三角形の形を取り、2枚のプラスチックの切り込みと山の頂点の3点が一直線に入る位置に垂直に立てた棒を伸縮させて調整する。

 3点を一直線で把えたとき、2本の棒と地面が作る三角形と、始点から山までの水平距離及び斜距離と山の高さとが作る三角形とは相似形をなすことになる。(海抜差は無視することを生徒に伝える)

 縮尺が入れてある地図を利用して、学校から山までの地図上の距離をスケールで測り、その数値を縮尺値で割ると、実際の距離数を知ることができる。棒と地面で作った三角形の底辺の長さ(=地面の長さ)と地図で計って割り出した山までの距離と伸縮棒の長さとの対比で山の高さを図ることができる。海抜数値の入っている地図なら、海抜差の誤差は出るが、山の高さの近い数字を得ることができるはずである。

 中学になったなら、斜めの棒と地面が作る始点の角度から三角函数を使って計算することができる。

 幾何学を通して数学や物理に親しみ、科学的知識を身につけていくこの体感学習は他にも考えることができる。例えば教材として重さ100キロの立方体をしたコンクリートブロックを用意しておく。コンクリートブロックを手で持ち上げることができるように四方の横面に階段に取り付ける手すりのようにステンレスのバー(横棒)を取り付けておく。さらにコンクリートを持ち上げるためのチェーンブロックと三又(さんまた)を用意しておく。重量物にロープもしくはワイヤをかけてからチェーンを下にガラガラと引いて持ち上げる装置で、パイプ製の三又使用で20トンクラスの重量物まで持ち上げることができる。

 最初にチェーンブロックで30センチほど持ち上げて、下にコンクリートの端から20センチほど中に入る高さ20センチほどの台を入れておく。コンクリートの下には決して手を差し込まないこと。最後は棒で押し込んで位置を調節する。手で持ち上げて持ちこたえることができなくなていきなり落としても、台が隙間を作って足を踏み潰すのを防ぐためである。

 先ず二人の生徒(小学5年か6年の)に持ち上がるか試させる。持ち上げることはできないだろうが、持てるまで人数を増やす。そのとき無理をして腰を痛めないように気をつける。8人で持ち上げることができた場合、1人当たり12.5キロ持ち上げたことになり、10人なら、10キロとなる。

 持ち上げた人数でそれをさらに移動させるとなると、さらに力が要る。そのことを身体で体感させてから、チェーンブロックでコンクリートブロックを地面に下ろしてから、バールでコンクリートブロックの片面を持ち上げさせ、そこで梃子の原理を教える。一人の力では片面は持ち上げることができないコンクリートブロックをバールを梃子にすれば簡単に持ち上げることができることを体感するだろう。

 バールの先端近くに5センチ高さほどの木の切れ端を台に置いて、それを支点としてバールを使うと、さらに少ない力で持ち上げることができる。支点をバールの先端から手元に向けて遠ざけていくと(台の高さを上げていかなければならないが)逆に力が必要になっていく。バールの長さを変えると(視点と力点の距離を伸ばすと)、長い程、力が少なくて済む。教室で黒板に絵を描いて梃子の原理を、作用点はこうだ、力点、支点はこうだ、力の方向はこうだと教えるよりも、体感する分、生徒は身体でも実感し、理屈を理解できるのではないだろうか。

 このコンクリートブロックを使った算数・数学、あるいは物理の授業は他にも利用できる。二本のバールで片面を持ち上げ、そこに底辺の長さよりも長い丸棒(一般的に「コロ」と呼ぶ)を一本入れる。コンクリートブロックの後ろにまわってコンクリートと地面の境にバールを突き立て、そこを支点及び作用点としてそのバールを上に持ち上げると、コンクリートの端も持ち上がってコロの回転と共にコンクリートブロックが少し前に進む。その作業を繰返すとブロックを前に移動させることができる。

 先ずそのことを体感させてから、最初にブロックの前方にコロを入れた要領で、後部にもコロを入れる。そして2本のバールの先端を後部隙間に入れて上方向に持ち上げていくと、コロが1本のときよりも2本のときの方が力が少なく前方に移動させることができる。

 コロの直径を太くしていくと、さらに力は少なく済み、数人で手で押しても前進させることが出来ることを知ることができる。コロの直径に従って、コロが1回転するごとに前進する距離が違ってくる。コロの1回転がその円周の長さに従うからだが、コロの小口(切断面)の1箇所に印をつけてちょうど1回転したときの前に進んだ距離を測れば、その数値がコロの円周の長さとなり、円周から直径を計算できる。また、その逆もできる。直径からコロの円周を計算すれっば、コロ1回転でブロックがどれ程進むかあらかじめ計算できる。計算どおりか、1回転バールで前に押してみる。

 三又に普通の滑車を取り付けてコンクリートブロックの四隅4点に安定よくロープをかけ先端を1本にし、それを滑車に通して持ち上げさせれば、滑車の原理の勉強とすることができる。100キロのコンクリートブロックに対して、滑車を一個使うと何キロの力で持ち上げることができるか。手で持ち上げたとき何人必要としたが、滑車と使った場合の持ち上げることができた人数で、必要とした一人当たりの力を割り出すことができる。滑車の1回転で持ち上げることができる高さ(距離)はコロと同じように滑車の直径とその円周の長さに従う。何か移転で何センチと計算できる。

 何個か組み合わせた複滑車を使った場合、滑車の個数と力の関係を実際に学ぶことができる。

 さらに長さ3メートル、幅1.3メートル程の鉄製もしくは板製の100キロのコンクリートブロックの重さに十分に耐えることのできる上下に合わせた2枚の板を用意し、その一方を蝶番で開閉可能としておき、反対側はそのままにしておく。

 先ず100キロのコンクリートブロックを蝶番と反対の板の端に載せておき、二枚の板の間にバールの先端を差し込んで上の板を持ち上げ、持ち上げた高さの台を板の間に挟み、バールの先端にも台を置いてそこを支点にさらに上の板を持ち上げていくと、そのうちコンクリートは自然に下に滑り落ちていく。そのときの蝶番部分がつくる角度との関係で、水平時に板にかかっていた100キロの抵抗がどれ程に減ったか、重力と力の方向の関係とか、あるいはモメントといったことが学べるのではないだろうか。

 100キロの重量物を計ることができるバネ秤があるなら、滑るのとは反対方向にブロックに取り付けておけば勾配と重量の変化との関係を知ることができる。この関係は一次方程式で表すことができると思う。当然図表でも表せる。
 
 逆に蝶番部分に下にコロを2本入れたブロックを置き、先端方向にロープを取り付けておいて上の板を一定の高さに持ち上げいく。勾配何%で何人の人間で上に滑らせることができるか、その関係も数式で表せるだろう。

 要するに体感授業とは頭にだけ記憶させる手応えのなさを避け、全員参加の平等な条件のもとそれぞれが自分の身体をそれぞれに使って学ぶことで手応えを持たせて身体にも記憶させ頭にも記憶させていく方法のことで、記憶の手応えに応じて否応もなしに応用への力、応用への意識が働くことになる。

 学年が進むに連れて慣性の法則とか重力の法則とかを学ぶようになるだろうが、原点に影を利用して高さを測ったことやコンクリートブロックで学んだ体感授業を置くことになるはずである。そうならないだろうか。

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